扉が閉まる音がした。汗を流した姫が、脱衣所から出てきたのである。
竜は、既に布団に潜って眠っていた。
姫は、竜の枕元に膝をついた。額から血を流していたので、きちんと手当をしたか、心配になったのだ。少しめくると、短い髪が覗いた。額の傷はふさがり始めているものの、絆創膏もガーゼも当てがわれていない。
「もう」
呆れた声が漏れる。姫の手はそのまま、竜の首元まで掛け布団をめくった。
室内が、しんと静まり返る。息の音さえ、聞こえない。
ゆっくり、竜が瞼を開けた――その時だった。
強い力が、竜の首を握りしめた。
姫の手――しかし、少女の力ではない。今にも、骨も筋も粉々に摺りつぶされてしまいそうだ。
抵抗しようと細い腕に触れると、ざらり、とこまかな傷跡に触れた。咄嗟に手を引っ込める。
高笑いが、耳を突き刺した。
「何と愚かな男か。こんな傷のために、自分の命を棒に振るとは」
ふっと、彼女の力がゆるむ。竜はせき込んで、芋虫のように体を縮めた。
竜の襟を、華奢な指が乱暴に掴む。力なく、竜の上体が起き上がる。
「狸寝入りをするなど、浅ましいにもほどがある。私とまみえることを覚悟で、この女との同室を望んだのだろうに」
「うるさい。とっとと姫に体を返せ。―鬼神!」
彼女は、姫の体のまま、姫の顔のまま、黒く変色した髪をさらりと揺らして笑った。額の縁から、うねり曲がった細いつるが伸び、後頭部を抱いていた。瞳の奥には赤い花が咲いている。
「戻ったところで、何をして遊ぶというのだ。この女は、お前と血を分けた姉弟。そういう呪いがかかっている。しかし、まだ諦めていないか。いい心がけだ。もがき続け、絶望するお前の魂を、もっと私に見せるがいい」
右手が、竜の胸元に伸びる。中指に赤い蓮の花が咲き誇ると、竜の心臓に、巨大な手にひねりつぶされるような激痛が走った。痛みに呻きながら必死にこらえるも、喉から血があふれてくる。
右手を離し、彼女は嬉しそうに、竜の口からこぼれる血を手のひらに掬った。
「実に久しぶりだな。あの男が傍にいる時に現れてはつまらないと思い、出てくるのを我慢していたのだ。今晩は存分にその魂をいたぶってくれる」
嬉々としていた表情は、たちまち憎悪に満ちた。瞳の奥の花が、咲き乱れる。
白い両手に、首を握られる。背中が、硬い布団に打ち付けられる。わずかな重みが、体にかかる。
ぎゅっと指に力が込められ、竜の体はのけぞった。真っ黒い憎悪が稲妻になって、竜の全身をほとばしる。
「憎い……憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……! またも、私を殺そうというのか! そのために、ここにきたのだろう! 蒼龍の力を得るために……! ああ、憎い……貴様の魂を、消し炭にしてやりたい……粉々に、壊してやりたい……!」
両手が、パッと離れた。竜は深く息を吸い込み、姫の顔をした鬼神を睨む。
彼女は、ニヤリと口元をゆがめて、再び嬉々としていた。
「しかし、今はまだ殺しはしまい。存分に生き地獄を見て、果てに絶望して死ぬがよい。お前は愛する者に決して愛されず、報われることなく、死んでいくのだ」
「俺は、それでいい。姫を、幸せにできるなら……!」
「夢物語よ。お前はこの女を救うことさえできない。蒼龍を得ようが得まいが構うまい。私を消滅させたければ来るがよい。この女の魂も道ずれだ。お前の魂が絶望に飲み込まれるさまを見るのを、楽しみにしていようぞ」
高笑いが頭に響く。竜は、ぎりっと歯噛みした。憎悪にまみれた二人の瞳が交差する。
ぷつん――と、赤い瞳が、色を失った。電源が切れた機械のように。
力なく、姫の体が胸の中に倒れこむ。小さな寝息を立てる姫の体を、竜は静かに抱きしめた。
「大丈夫だ。俺がお前を鬼神から解放する。必ず――」
やわらかな栗色の髪に、竜はそっと、頬で触れた。
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