陽は、空腹で目を覚ました。ぼんやりとあたりを見渡す。
ここは、玄関か。
帰ってきて、転がって、そのまま眠ってしまったらしい。腕時計を見ると、二時二十分であった。外の様子からして、深夜なのだろう。夕飯どころではなかったので、何も買わずに帰ってきてしまったが、祖父が入院してからは、その都度コンビニで食事を用意していたので、家に食材はない。
買いに行くか、寝てしまおうか……。
その二つで悩んだり、姫とのキスを思い出してにやにやしたり。
その場でぼんやりすること、五分。
突然、真正面の玄関の扉が粉々に割れ、何かが突っ込んできた。
謎の物体が、顔面に激突する。衝撃で後ろに倒れ、後頭部を思い切り打ち付ける。
頭は痛いが、それより何より、顔を覆う獣の生ぬるさが気持ち悪い。悲鳴を上げ、腕をじたばたさせて、その獣を引き剥がす。
後ずさりをしてそれを見ると、全身真っ黒な、羽のついた猿――のようなものであった。羽は左右とも半分切断されていて、ピクリとも動かない。
死んでいるのか?
確かめる勇気は、とてもなかった。
その時、月明りが入り込む破れた玄関扉に、長い影が差し込んだ。青い太刀を持った男―いや、身長が高く、顔だちも大人っぽいが、陽とさして年齢が変わらないかもしれない人物が、二本の角を白く輝かせ、そこに立っていた。
羽のついた真っ黒な猿、太刀を持った鬼人。
――あ。
すっかり忘れていたが、守護符が一枚、破れていたままだった……。
鬼人は陽を一瞥すると、鬼に近づき、躊躇なくその身にとどめを刺した。鬼は砂となり、鬼人の右手の中指に吸い込まれていった。赤い石が、月明りを受けてきらりと澄んだ。
陽は、ほっと息をついた。
「す、すいません。守護符、剝がれたままにしてて……。入り込んだ鬼、退治してくれたみたいで、ありがとうございました」
鬼人の鋭い目が、陽を刺した。
「影宮 陽だな」
「え、あ……」
はい。なんで、自分の名前を?
そう言おうとした時だった。
青い刃の切っ先が、陽の喉を捉えていた。
「死ね」
真っ黒な殺意の言葉に、戦慄が走る。
反射的に、陽は体を斜め後ろにそらした。刃は速く、喉は斬れたものの、深手は免れた。
陽は即座に立ち上がり、首から流れる血を押さえ、全速力で家の奥へ逃げだした。
――まずい。どうして。どうしたらいい!
異様に足の速い鬼人が迫ってくる。青い閃光を死に物狂いでかわすたびに、襖や壁に無残な傷が刻まれていく。切っ先が背中を掠め、肩を掠める。
本物の殺意が迫る。とにかく、どうにかして、生きなくては。
姫とキスして、最高の気持ちだったのに、このまま死んでたまるか。
二週間後の夏祭りデートに行けないなんて、そんなことがあってたまるか。
めちゃくちゃに走り、一番奥の部屋にたどり着く。行き止まりだ。
だが、この部屋には、一振の希望があった。
いちか、ばちか。
陽は、部屋の一番奥に恭しくたたずむ一振の太刀を手にし、鞘を抜いた。
二振の青い刃が、月光の入らぬ真っ暗な部屋で対峙する。
「鬼人! この刀はかつて鬼神を討ち滅ぼした、蒼龍刀ってやつだ! 鬼人の力は鬼の力。この刀に太刀打ちでき……」
言い終わらないうちに、鬼人は目にも止まらぬ速さで突っ込んできた。咄嗟に刃を盾にすると―あっけなく、真っ二つに割れた。折れた切っ先が、陽の足元に刺さる。
鬼人はそのまま、刃を下から振り上げた。
腹から肩に、一筋の深い傷が刻まれる。鮮血が細かい飛沫となって、鬼人の顔を汚す。強い殺意と憎しみに満ちた目が、崩れる陽の体を追う。
なんで……。
耐えきれない痛みに肩で息をしながら、つぶやく。分からない。
だが、今考えるのは、そんなことではない。
――生きたい。
陽は、最後の賭けに出た。今まで一度も成功したことはない。
だが、人間国宝の血は、たしかに流れている。
鬼人が、とどめを刺さんと刀を振り上げた、その瞬間。
陽はがむしゃらに、めちゃくちゃに、曖昧に覚えている「印」を切った。
目も開けられないほどの凄まじい光が、あたりを白く包んだ。
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