戦鬼伝

この願いを叶えるためなら、命も、世界も、かけてみせる――。
鈴奈
鈴奈

公開日時: 2020年10月9日(金) 20:00
文字数:1,621

 陽は、空腹で目を覚ました。ぼんやりとあたりを見渡す。

 ここは、玄関か。

 帰ってきて、転がって、そのまま眠ってしまったらしい。腕時計を見ると、二時二十分であった。外の様子からして、深夜なのだろう。夕飯どころではなかったので、何も買わずに帰ってきてしまったが、祖父が入院してからは、その都度コンビニで食事を用意していたので、家に食材はない。

 買いに行くか、寝てしまおうか……。

 その二つで悩んだり、姫とのキスを思い出してにやにやしたり。

 その場でぼんやりすること、五分。


 突然、真正面の玄関の扉が粉々に割れ、何かが突っ込んできた。


 謎の物体が、顔面に激突する。衝撃で後ろに倒れ、後頭部を思い切り打ち付ける。

 頭は痛いが、それより何より、顔を覆う獣の生ぬるさが気持ち悪い。悲鳴を上げ、腕をじたばたさせて、その獣を引き剥がす。

 後ずさりをしてそれを見ると、全身真っ黒な、羽のついた猿――のようなものであった。羽は左右とも半分切断されていて、ピクリとも動かない。

 死んでいるのか?

 確かめる勇気は、とてもなかった。

 その時、月明りが入り込む破れた玄関扉に、長い影が差し込んだ。青い太刀を持った男―いや、身長が高く、顔だちも大人っぽいが、陽とさして年齢が変わらないかもしれない人物が、二本の角を白く輝かせ、そこに立っていた。

 羽のついた真っ黒な猿、太刀を持った鬼人。


 ――あ。


 すっかり忘れていたが、守護符が一枚、破れていたままだった……。


 鬼人は陽を一瞥すると、鬼に近づき、躊躇なくその身にとどめを刺した。鬼は砂となり、鬼人の右手の中指に吸い込まれていった。赤い石が、月明りを受けてきらりと澄んだ。

 陽は、ほっと息をついた。

「す、すいません。守護符、剝がれたままにしてて……。入り込んだ鬼、退治してくれたみたいで、ありがとうございました」

 鬼人の鋭い目が、陽を刺した。

「影宮 陽だな」

「え、あ……」

 はい。なんで、自分の名前を?

 そう言おうとした時だった。

 青い刃の切っ先が、陽の喉を捉えていた。


「死ね」


 真っ黒な殺意の言葉に、戦慄が走る。

 反射的に、陽は体を斜め後ろにそらした。刃は速く、喉は斬れたものの、深手は免れた。

 陽は即座に立ち上がり、首から流れる血を押さえ、全速力で家の奥へ逃げだした。


 ――まずい。どうして。どうしたらいい!


 異様に足の速い鬼人が迫ってくる。青い閃光を死に物狂いでかわすたびに、襖や壁に無残な傷が刻まれていく。切っ先が背中を掠め、肩を掠める。

 本物の殺意が迫る。とにかく、どうにかして、生きなくては。


 姫とキスして、最高の気持ちだったのに、このまま死んでたまるか。

 二週間後の夏祭りデートに行けないなんて、そんなことがあってたまるか。


 めちゃくちゃに走り、一番奥の部屋にたどり着く。行き止まりだ。

 だが、この部屋には、一振の希望があった。


 いちか、ばちか。


 陽は、部屋の一番奥に恭しくたたずむ一振の太刀を手にし、鞘を抜いた。

 二振の青い刃が、月光の入らぬ真っ暗な部屋で対峙する。

「鬼人! この刀はかつて鬼神を討ち滅ぼした、蒼龍刀そうりゅうとうってやつだ! 鬼人の力は鬼の力。この刀に太刀打ちでき……」

 言い終わらないうちに、鬼人は目にも止まらぬ速さで突っ込んできた。咄嗟に刃を盾にすると―あっけなく、真っ二つに割れた。折れた切っ先が、陽の足元に刺さる。


 鬼人はそのまま、刃を下から振り上げた。


 腹から肩に、一筋の深い傷が刻まれる。鮮血が細かい飛沫となって、鬼人の顔を汚す。強い殺意と憎しみに満ちた目が、崩れる陽の体を追う。


 なんで……。


 耐えきれない痛みに肩で息をしながら、つぶやく。分からない。

 だが、今考えるのは、そんなことではない。


 ――生きたい。


 陽は、最後の賭けに出た。今まで一度も成功したことはない。

 だが、人間国宝の血は、たしかに流れている。

 鬼人が、とどめを刺さんと刀を振り上げた、その瞬間。


 陽はがむしゃらに、めちゃくちゃに、曖昧に覚えている「いん」を切った。


 目も開けられないほどの凄まじい光が、あたりを白く包んだ。

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