黒く、巨大な塊が現れ、蒼龍の体を、まるごと飲み込んだ。
そしてその黒い塊は、ぎゅっと小さく縮み、
――パン。
軽い音を立て、塵となった。
ほんの、瞬きのうちの出来事だった。
竜は、雫から離れ、胸に手を当てた。
蒼龍の気配が、ない。
蒼龍が、消滅した。
陽は茫然と、塵を見つめている。
雫と光は、騒ぐ心臓にまかせて、浅く、荒い呼吸をしながら、瞳を揺らした。
――見てしまった。
左手の指から、黒い塊を出したところを。
「なんだ、今の……?」
陽が二人に視線に気づき、眉をひそめる。
自分ではない。何が起こったのか分からない。
力なく、自然に、戸惑いの表情をつくる。
だが、二人の瞳はもう、哀しみに染まっていた。
そして次第に、光の目に怒りがこみ上がってきているのが、見ていて分かった。
――二人には、もう、信じてもらえないようだ。
深くため息をついて、陽は、膝を抱えた。
「俺は、何もやってない。メイゲツが、全部勝手にやったんだ」
光も、雫も、哀しみで壊れそうになるのを耐えるように、歯を食いしばった。
「……じゃあ、認めるんだな。坊ちゃん……いや、てめぇが……」
「カゲロウ……本当に、陽くんが…………?」
竜は、陽に近づき、陽の首に青い太刀の切っ先を向けた。
いつものような苦い顔で、陽は体をのけぞらせる。
「ちょ……本当に、俺は何もやってないんだ! ちょっと、お前と姫に妬いたことがあって、それをつぶやいたら……多分それで、あいつが勝手に……!」
その言葉で、真相が分かった。
陽――カゲロウが、姫の傍にいる竜を疎ましく思った。消えればいい、とでもこぼしたのだろう。そして、メイゲツがその願いを聞き、竜の命を狙って動いた。
動いたのは、メイゲツかもしれない。カゲロウは、何の指示も出していないのかもしれない。
「だが、元凶はやはり、お前だ」
竜が刃に力を込め、喉を突く。
だが、刃は、触れたところから、粉々に崩れていった。
竜は諦めず、もう一本大太刀を顕現させ、思い切り首を斬りつけた。
しかしやはり、陽の体に触れたところから、刃は粉々になる。
竜は舌打ちをして、間合いを取った。
陽は目だけを動かして、竜を見上げる。
「俺は、姫といたいだけなんだ。メイゲツに話をするし、他の隠形鬼の力は、全部回収する。だから、姫には、黙っていてくれないか」
光が、ゆらり、と立ち上がった。
「……てめぇ、なんだよ……そういうこと、できたのかよ。じゃあ、なんではじめっからやらねぇんだ! なんで何も知らねぇふりして、見てるだけだったんだ!」
「だって、力を使ったら、正体がばれるかもしれないって……!」
「自分の正体を守るために、てめぇは、どれだけの命を犠牲にしたんだ! 彩ちゃんだって……! 畜生! てめぇが人を思いやれる奴だなんて、なんで俺は……信じちまったんだ…………!」
光は、はっとした。
さっきの、得体の知れない強大な破壊の力は、他の鬼の力の複製によるもの。
そしてその中には、メイゲツの『状態変化』の力もある。
「まさか……猫になったのも、陰陽術じゃなくて……」
「あれは……! だって、破壊の力使うの、いやだったし。それに、まずいかなって思って……。人一人失踪したら大ごとになるだろ? でも、生きなきゃって思って、咄嗟に……」
おかしいと思ったのだ。媒体なしの封印術も、動物の姿に変化させる術も、どの資料にも載っていなかった。
陽のために、皆で一生懸命に考え抜いて、封印を解くことができたと思っていた。
だが、あれはただ、タイミングを合わせて、元に戻っただけのこと、というわけだ。
そうだとすれば、神宮団との戦いでも、鬼神との戦いでも、その強大な力をあえて使わなかった、ということになる。
自分の正体を隠し通すために、無能な猫を演じて、見ているだけだった。
光の危機も、雫の危機も、竜の危機も、そして、姫の危機さえも、手を差し伸べることはなかった。
本当に陽が――カゲロウが仲間であったのならば、力を貸してくれたはずだ。
そうすれば、光は命がけで火鬼を封印することなどなかった。
雫も、命を削るような願いをすることなどなかった。
理解ある仲間の面を被って、友達のふりをしていただけだった。
その上、自分の力が元凶と知っていて、見て見ぬふり。
たちが悪いにもほどがある。
「お前みたいな奴を放っておいたら、世界は滅びちまう……!」
「俺は別に、世界を滅ぼそうだなんて思ってない!」
それでも、嫉妬一つでこのありさまだ。被害者はとうに一〇〇を超えている。
世界を守るなら、今しかない。
「斎王。蒼龍様は消えちまったが……あの約束、頼んだぞ」
竜の視線を返事と取って、光は、自らの胸を掴んだ。
「火鬼。てめぇの怒りも、心臓に感じてるぜ。てめぇにこの体を貸してやる。てめぇはあいつと同じ四鬼だ。できるだろ……喰い殺せ!」
次の瞬間、光の体が豪炎に包まれた。
肉体は燃え尽きない。前髪を全て後ろに掻き上げて、赤い瞳を憎悪に染める。肥大化した一角が、炎を灯す。
「カゲロウ。お母様を傷つけた罪、決して許さぬ。私が、お前を消し炭にする」
「待ってください!」
雫の声が、割って入った。
「光くん、正気を取り戻してください! 陽くんは、世界を滅ぼすつもりはないと言っています。他の隠形鬼の力も回収すると……。殺す必要はありません。彼とは、和解できます!」
だが、見据える先は変わらない。
「嫉妬一つでこうなったんだ。また繰り返される。ここでこいつを殲滅することが、世界を守ることにつながるんだよ」
光の、言葉だった。
サテツがこぶしを突き伸ばし、ぱっと手のひらを開いた瞬間。陽の体が、炎の渦に包まれた。
竜はすかさず、後ろに下がった。五メートルは離れたのに、鼻の先が燃えそうなほどに熱い。
炎の渦から、陽の影が浮かび上がる。まっすぐ、歩いてくる。その体には傷一つない。
陽の前に、サテツは対峙していなかった。
――上だ。
サテツが陽の頭上から、爆炎の風とともに、炎のこぶしで迫りゆく。陽はそれに目もくれない。ただ、背中から無数の黒い手を伸ばし、燃えるこぶしを掴むと、光の体を軽々と自らの目の前へと投げ飛ばす。サテツは、片膝をついて着地し、余裕の笑みで指を鳴らした。
音と同時に、陽の脚が炎のつるに捕らわれた。だが陽は、熱さに呻くことも、おびえることもしない。哀しそうな瞳で、サテツを――光を見つめる。
「たしかに、俺は姫を傷つけた。光さんとか、雫とかも。皆を騙してた。でも、俺は姫と……皆とも、いたかったんだ。世界なんて、滅ぼさない。サテツだったら分かるだろ? 俺がそんなことに興味ないって……!」
「ああ、そうだな。お前は破壊を厭い、お母様に忠義を尽くさぬ、できそこないの鬼だ。だが、お前の意志は関係ない。その力が、危険なのだ。全ては、お母様のため……世界の、平和のために……たとえ、どんな相手でも、たとえ、相手がてめぇでも……俺は、このこぶしを奮う! それが、俺がここにいる理由だ! 俺が、生きてきた意味だ!」
サテツと光――二人は混ざり合っていた。
色の違う双眼が、哀しみと決意をはらんで輝く。
こぶしに炎を燃やし、足から風を噴射して、陽に向かって突っ込んでいく。
光が放ったこぶしから、豪炎の竜巻が巻き起こる。中に陽を閉じ込めた――はずだった。
陽は、光の背後に立っていた。光は身をひるがえし、炎をまとったこぶしで陽に殴りかかる。
陽の前に金色の盾がそびえたつ。その体には、傷も焦げもついていない。
「もう、やめてくれよ。俺は、生きたいんだ……それだけなんだ!」
光は長い息を吐くと、赤い眼を剥き、右手を陽に伸ばした。
「きりがない。この場を全て燃やし尽くす。……てめぇの魂が、尽きるまで!」
豪炎の球体が、光の手のひらで、みるみる大きくなっていく。
陽は、落胆の息をついた。
隠形鬼カゲロウは、あらゆる生き物の体を奪い、その力を自らのものとすることができる。
自らが乗っ取った体の力も、力を分け与えた者たちの力も、その者たちが乗っ取った体の能力も。
全てをその身に宿し、強大で静寂な消滅の力を扱うことができる。
静かに、陽の右手が伸びた。
黒い球体が、手のひらから現れる。ぶわりと膨らみ、光の体が飲み込まれる。
ぎゅっと、小さく、小さく縮む。軽い音が儚く弾ける。
そして、球体は――塵と、なった。
光がいた場所は、何もなくなった。
跡形もない。
動くことさえできないほどのすさまじい熱風が、一瞬で消えた。
雫の体の中が、さっと冷たくなった。
竜の背中に、冷たい汗が一筋流れる。
陽は、力なく天を仰いだ。
「もう、これで……皆、普通ではいられないよな。なんで、こんなことになっちゃったんだろ……」
哀しい微笑を眉に浮かべ、陽は、右手を伸ばした。
色を失う、雫に向けて。
「ごめん。最後まで信じてくれて、ありがとな。でも、俺はやっぱり、生きたいんだ。姫と一緒にいたいんだ。だから、こうなった以上は、雫も、斎王も、皆……消さなくちゃ」
陽の右手に、再び黒い球体が膨らんだ。
雫は、下唇を噛み、右手の赤い石を輝かせた。太く長い渦巻の角が生え、瞳が赤く輝く。
心臓がぎゅっと小さくなったのを感じた。
あと一度、何か力を使ったら、魂が尽きてしまう予感がした。
そのわずかな力には、あの強大な黒い塊を飲み込む力も、カゲロウを消滅させる力もないだろう。
だが、良い。もとからそんなつもりはない。
どうせここで命が尽きることを避けられないなら、最期にできることをするまでだ。
それは――自分が生きてきたこの美しい世界を、そして、自分の小さな世界を、守ること。
右手中指に、赤い花を美しく咲かせ、雫は、笑った。
「陽くん。君は僕の――友達だ」
はじめて、自分の過去を受けとめてくれた人。
誰かの思いを、一生懸命考えられる人。
残酷に手を汚すことが似合わない、優しい人。
願わくは、もう君が、誰かを傷つけることがないように。
それが、大切な大切な、自分の小さな世界の一つだったから。
二人の手から、同時に力が放たれた。
雫のいた場所から目を背け、竜は陽を凝視した。
陽の両手首には、黒い腕輪が巻かれていた。腕輪を見つめ、陽は、茫然とつぶやいた。
「力が……」
竜は、察した。雫は、最後の力を振り絞って、カゲロウの力を封印したのだ。
今なら、勝てる。
竜は再び、両手に青い大太刀を握りしめた。もう、白い煙はない。
月の光が降り注ぐ。真っ青な輝きが、走る。陽は、はっとしてかわした。
竜の手は、止まらない。陽も、必死に刃をよけ続ける。
一瞬の隙をついて、青い刃が、陽の肩を斬りつけた。痛みに呻きながら、陽の体が土に転がる。
即座に顔を起こして――しかし、陽の体は、氷となった。
漆黒の深い闇の中。強い殺意と憎しみに満ちた目が、青白い月を宿して浮かぶ。
――終わり。
そんな言葉が、脳裏によぎる。
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ、
生きたい……!
終わりの斬光が、振りかざされた。
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