薫る夏の音

清野勝寛
清野勝寛

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公開日時: 2020年9月5日(土) 16:47
更新日時: 2020年9月5日(土) 16:50
文字数:5,489

薫る夏の音



――リリリ、という喧しい音で耳障りで、枕を両手で持ち上げて耳を隠して俯せる。

全身にぐっしょりと掻いた汗が気持悪い。でも、まだ朝が来たことを認めたくなかった。


「ほら千秋! もう陽ちゃん来てるよ! さっさと起きなさい!」

「まってお母さんっ、あぁ……布団が……っ!」


が、あまりにも無慈悲で冷酷かつ残忍な方法で母は私を覚醒させる。

寝ている人の布団を取るのって、この世界で最もやってはいけない禁忌だと思う。


「いいから、さっさと準備しなさい!」

「わかったってばもぅ……」


顔をバシャッと水で濡らし、シャコシャコ歯を磨く。「いつもごめんねぇ」という母の声が聞こえる。

大丈夫だ、陽だっていつも私が起きるの遅いって分かっててわざわざ早く来てくれてるんだから。


「いってきまーす」

「いってらっしゃい、陽ちゃんも!」

「はい、いってきます、おばさん」


二人並んで緩い下り坂を歩く。太陽は既に臨戦態勢で、ジリジリと私達を焼き上げようとしている。


「調子はどう、陽」

「うーん、イマイチかなぁ。自己ベストマイナス二秒って感じ」


私達は水泳部だ。といっても、その実力差は歴然で、私は高校最後の大会をとっくに終え、一方陽は夏休みに開催されるインターハイに出場する。悔しいとは思わない。私は陽に誘われなければずっと帰宅部だったわけだし。これまで何か部活に入っていたわけでもない。そんな人間が高校の二年ちょっとで突然目覚めたりなんてことはしない。そんなのはアニメや映画の世界だけの話だ。継続は力なりと言うではないか。陽は小学生の時からずっと泳いでいるんだ、背伸びしたって勝てるわけがない。


「そっかー……まぁ、大会は夏休み中なんだし、気楽に行こう」

「ありがと。そっかぁ、もうすぐ高校最後の夏休みなのかー……」


空に浮かぶ分厚くて白い雲を見上げながら陽は言った。改めてそう言われると、なんだか寂しい。

大人になったら休みなんて一切なくて、やらなくてもいけないことやりたくもないことを必死にやって、お金を稼がないといけない。大学生活を送れたらもう少し長いこと夏休みがある生活を出来るんだろうけれど、そのための勉強がめんどくさい。だったら、学校のコネで適当な会社に就職してしまった方が楽だ。…というのが私の考えだ。一方陽はそうではない。スポーツ推薦での大学入学を既に獲得している。うちの水泳部のエースは伊達ではないということだ。このままいっそ世界に羽ばたいてしまえばいい。


「なんか色々、寂しいね。これまでずっと一緒にいられたのにさ」

「別に、一生離れ離れってわけじゃないでしょ」

「そりゃ、そうなんだけど…」

「多分私はずっとこの辺りにいるし、大学が遠くても一年に一回くらい、会いに来れるでしょ」


改札を通り、電車を待ちながらそんな他愛ない話をする。人混みの喧しさは蝉とはまた違う鬱陶しさがあって嫌いだ。しかも暑い。なんでみんな、揃いも揃ってこの時間から行動を開始するのだろう。大人なんて、もっと遅くから仕事を始めればいいのに。なんてどうでもいいことを考えてしまった。変えることの出来ないものをあれこれ言うのはエネルギーの無駄だ。やめた方が良い。


そこで陽との話に戻る。

私だって寂しくないわけじゃないけど、でも多分そんなの一瞬のこと。新しい環境で、新しい仲間や友達が出来て。しかも陽の周囲には私ら部活の仲間とは比較にならないようなライバルたちが集まることになる。同じ志のある仲間と切磋琢磨するのはきっと、たぶん、とても楽しいことだろう。

それに、事実私達だって高校で偶然知り合って、仲良くなっただけだ。偶然同じクラスで、偶然席が隣で、偶然引っ越してきた家が私の家の近くだっただけ。そんな少しの偶然で人は誰かと仲良くなるし、ということは離れるのも少しの同じ。


「千秋は寂しくないの? 高校卒業して、皆と……あたしと会えなくなってさ」

「なぁに今からおセンチになってんのさ。そんな先のことより、今のこと考えなくちゃ! 大会前だし、根詰め過ぎないようにね。今日は軽めの練習なんでしょ?」


そんな悲しそうな目で見つめられても困る。私の正直な胸の内を告白したら、陽を余計悲しませてしまう。陽にはインターハイ、頑張ってもらわないと。


「……うん。その予定」

「あ、じゃあ終わったら軽くマッサージとか、ストレッチ手伝うよ私。今三年で部活続けてるの陽だけだし、気まずいっしょ?」


水泳は基本個人戦、メドレーで勝ち進めば別だが、基本的に三年は自分の大会が終わった時点で引退となる。そして、現状まだ引退していない三年は陽ただ一人だ。キャプテンも世代交代をしている。陽は水泳部の後輩たちとは別メニューで大会に向けて練習しているというような状況だ。


「そんなことないけど……手伝ってくれるのは嬉しい。お願い出来る?」

「いいよいいよ、そのくらいしないとさ! その代わり、絶対良い成績出すんだぞ?」

「あはは……頑張るよ」


電車の窓の向こう、流れる町並みを眺める。遠くに建っている大きなマンションがとても綺麗で、そのうち一人暮らしする時はああいうところに住んでみたいと思った。あぁでも、賃貸マンションやアパートは隣人トラブルがあったりするんだろうし、やっぱりしばらくは今の家で家族と暮らすのが一番かも。自立しろ、とか言われそうだけど。


そう考えると変な感じ。大学生になって、自分で働いたりせずに学生生活を続ける陽が親元を離れて一人暮らしをして、新しい環境に飛び込んでいく。一方私は、社会人になって、自分でお金を稼いだりすることになるだろうに、実家暮らしで、これまでの環境に縋っている。なんとなく、学生という身分のうちは「子ども」で働くようになったら「大人」っていう気がしていたのに、これではまるでどちらが子どもかまるで分からない。


「千秋、早く。降りないと」

「え? あぁ、ごめん」


いつの間にか、降車駅に到着していたらしい。陽が私の手を握り、手を引く。そういえば、陽と仲良くなってからは、こうやって陽が私のことをリードしてくれることが多かったような気がする。

掌に、陽の熱と、しっとりと汗を感じる。そりゃあ季節は夏だし、手なんて繋いでいたら暑いよね。けれど陽は私の手を握ったまま、ずんずんと人混みをかき分けていく。まるで人の海を泳いでいるかのようだ。陽は水中の中を、こんな感じに泳いでいるのだろうか。あっという間に、改札を抜けた。それでも、手は繋がったままだ。


「陽、ありがとう。もう大丈夫だよ」

「ん? あ、ごめんっ! つい……」


私が言うと、陽は慌てて手を離した。つい、という言葉がなんとなく引っかかる。慌てたからか、陽は頬を真っ赤にしていた。


「何言ってんの、ありがとうだよ、危うく降り損ねるところだった」

「あ、うん。そうだね」


それからいつもより少しだけ早足で陽が歩き始めたので、私もそれに合わせて歩く。


改札を抜けて、学校行きのバスを待っていると、不意に嗅ぎなれた塩素の匂いがしてきた。そういえば、近くに夏季限定で営業するプールがあったな。小さい頃はよくここへ家族と遊びにきていたのを思い出す。


「今年は少し寒い日が多かったから、プール開き、遅かったんだね」


すんすんと鼻を鳴らしていた私に気付いたのか、陽がそんなことを言った。なるほど、今年の営業を開始したから匂いがするのか。独特の臭気。実験室や保健室みたいな、薬品の匂いが風に乗って私の所まで。


「プールの匂いってさ、陽の匂いって感じがするんだよね」

「えっ!? あたし、こんな臭う?!」


私が言うと、陽が突然大きな声で慌てだす。そして自分の身体をくんくんとあちこち嗅ぎまくる。犬みたいだと思ってちょっと笑ってしまった。


「いや、そういうことじゃなくってさ。陽っぽいというか……」

「そ、そうなんだ……」


露骨に落ち込んでいる。確かに、花の女子高生からこんな薬品の匂いがしてきたらちょっと嫌だよなと思い、フォローしてみる。


「イメージの話ね。例えば私が一人で町歩いてて、この匂いがしたら、あ、そう言えば陽今なにしてるかなぁってなる、みたいな」

「あ、あぁそういうことね。確かにあたしら、プールにいる時間長かったもんね」


今度は勘違いしたことが恥ずかしいのか、手で顔を仰ぎながらあははと乾いた笑い声を上げた。朝から元気だよなぁ陽は。


そんなこんなでバスに乗り込む。すし詰めにされた車内で、私は再びゆったり流れる景色を見つめた。朝早くから車や自転車が忙しない。時間を守るというのは、そんなに大切なことなのだろうか。別に一分二分遅れたくらいじゃ、何も変わらないと思うのだけれど。まぁ、電車やバスはその時間じゃないと乗れないというのはあるか。



放課後、私は体操着で屋上にあるプールへと向かう。外に出ると、まだまだ元気な太陽が自己主張を続けていて、うんざりする。もともと私は外に出て遊んだりするタイプではない。幼少期は家でお絵かきかゲームをしていた。そんな私が水泳をすると言った時の両親の顔は今でも忘れられない。鳩が豆鉄砲を食らったような、とはまさにあれのことだろう。


「千秋ー!」


後輩に囲まれていた陽が、私に振り返り手を振った。後輩たちは私に気が付くとこんにちはと元気な声で挨拶をしてくれる。これまで先輩後輩との絡みが一切なかったせいで、結局三年間このこそばゆさに慣れることはなかったな。


「準備早いね、さすが、気合が違いますなぁ」

「うん、ちょっとね。皆が話したいって言ってくれたから」


私が陽に近付くと、後輩たちは自分たちの練習メニューに入ったようだった。そりゃあエースだし、後輩にも慕われるか。


「じゃあ、練習頑張って」

「うん、ありがとう」


陽はそう言って、飛び込み台を蹴り、水に吸い込まれていった。私はそれを後輩たちの邪魔にならないよう、隅の方で見守る。綺麗なフォームだ。かき分ける水の飛沫さえ美しいと思う。どうすればあんな風に泳げるのだろうか。後輩たちも何人か陽を見ている。それくらい惹き付けられる魅力が、陽の泳ぎには秘められていた。


「お疲れ、後は体ほぐして終わる感じかな?」

「ありがとう。うん、そうだね。あんまり根詰め過ぎてもだし」


練習を終えた陽に、タオルと飲み物を渡す。その顔はやはり浮かない顔だった。

タイムが、少しずつ落ちてきている。はっきり言って、この状態でインターハイに臨んでも、良い結果は得られないだろう。しかし、フォームの乱れもない。途中少しだけ練習を見ていた先生も、頭を抱えていた。


「スポーツって、そんなものだよ。だからあれこれ考えるよりはいつも通り、いつも通りって考えてるんだ、あたし」


二人でストレッチをしていると、陽がそんなことを呟いた。正直タイムを気にして泳ぐ余裕なんて私にはなかったから、その気持ちは理解してあげられない。ふぅんと聞き流すと、陽は笑った。


「ごめん、なんか千秋が不安そうな顔してたから、もしかしてあたしのタイムのことかなって」

「え、すごい。なんでわかったの……ていうか、ごめん。陽自身が一番気にしている筈なのに」


気の利いた言葉一つ言えず、暗い顔をしてしまうなんて。これじゃあなんのために手伝っているのか分からない。

けれども陽はううん、と首を横に振った。


「嬉しいよ、こんな風にあたしを応援してくれている人がいてくれて。千秋があたしの代わりに落ち込んでくれるから、絶対もっと速く泳げるようになろうって、頑張れるんだよ」


そうは言っても、立つ瀬がない。そっかと気の無い返事を返し、陽は着替えに向かった。

私の両手には、陽の香りだけが残った。



まだ練習している後輩たちに声を掛けて、二人で家路に着く。

なんとなく気まずくて、遠くを眺めてみる。夕日が、私達の正面にあって眩しい。景色を見ようにも、その殆どが紅い光に包まれて、はっきりと見ることが出来なかった。


「ね、千秋。一つお願いがあるんだけど」


陽が呟くように言った。私は何、と短く返す。


「もしあたしがインターハイで良い成績残せたらさ、一個だけお願い、きいて欲しいんだけど」

「なにそれ。まぁ良いけど。あんまりお金掛かるのはなしね」

「うん。ありがとう」


そう言って笑った陽の顔は、夕日に邪魔されて殆ど見えなかった。





結局、陽のタイムは伸びず、インターハイも出場した競技全てで表彰台に乗ることは出来なかった。

私は陽が泣き崩れているのを、観客席からずっと眺めていた。

あんなに頑張っていたんだ、そりゃ悔しいだろう。

でも、ここまで来ているというだけで、もう十分凄いことだ。

あの悔し涙の理由は、やっぱり私には良く分からなかった。


「ねぇ、結局お願いってなんだったの?」


応援団と解散し、最後、二人きりの帰り道。

私は、陽の頑張りに免じて、お願いくらい聞いてあげようと思い、そう声を掛けた。


「気にしないで、冗談だから」


陽はそう言って力なく笑った。


「まぁそう言わずにさ、陽が頑張ったのはずっと見てたし、私に出来ることなら叶えてあげようって話。ほれ、言ってみ?」


私が促すと、陽は少し恥ずかしそうに一言、小さな声で言った。


「それじゃあ……ずっと一緒にいて、千秋」

「なんだまたその話か。もちろん、卒業したって進路違ったって、なんにも変わんないよ」


私が笑って答えると、陽は悲しそうにそうだよね、とだけ言って、それきり俯いて、黙ってしまった。

二人沈黙したまま、誰もいない道を歩く。


風が吹くと、陽の匂いがした。

ひぐらしと、これはコオロギの鳴き声だろうか。

涼し気で、少し寂しい音。


もうすぐ夏も終わる。

この匂いとも、しばらく会えないのかと思うと、少し寂しい気がした。



読んでいただきありがとうございます。

今後も色々書いていきますので、仲良くしていただけたら幸いです。

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