都は強い吐き気を感じて、立ちどまった。近くのコンクリートの壁に手をついて呼吸を整える。
それでも、支えきれずに足元から崩れ落ちた。
見慣れて景色が、歪んで見えた。
「都。しっかりして」
「少し静かにしてくれ」
耳元で騒ぐなと。
「今、助けを呼ぶから」
「――大丈夫」
都は和江を呼ぼうとする美和をとめた。ふらつく身体を、壁にあずけて立ちあがる。
先ほどよりも、多少楽になっていた。
「――美和」
帰ろうか?
「話してくれるの?」
「隠していることを、全部話すよ」
美和に倒れかけられたところを、見られていた以上、隠し通すことはできない。
逃げずに美和たちと、向き合うしかない。
それに、奈美と夢の中で会いつつみ隠さず、話す覚悟はできていた。
「あのさ、都」
「――何?」
「手をつないでもいいかな?」
「ごめん。無理だ」
美和の純粋さを奪う気がして、手をつなぐことはできない。美和は何も言わすに、都の手を握った。
壊れ物を扱うような優しさに、都はふりはらうことができない。互い無言で手をつないで、自宅まで帰った。
デザインズ・ベイビー報告書
妻・奈美妊娠
バイオ水槽稼働
都誕生
この頃から奈美が研究に、反対するようになる。
都・一歳、一時解放
はっきりと意思表示ができ、大人とかわらぬ会話ができるようになる。
知能は高いが体力がないことが判明する。
そこが、これからの課題となるだろう。
原田隆
きっと、鈴がメモを残してくれたのだろう。
帰ってきたら一冊のファイルが、ポストに入っていた。
「僕の父親は原田隆。それだけは、変わらない事実」
「薄々、気がついていたわ」
「――私も」
隆がテレビや雑誌に、でている時の都の瞳はどこか冷たかった。
冷えきっていた。
美和と買い物をする時は、少し離れて歩いて、あの淡々と生活していた都が、自らのコントロールができないぐらいに、隆に対し憎悪を全面的にだしていた。
唯一、都が感情を露わにした時でもある。都の肩に手をおいた時に、怖がっていた理由がわかった。
ずっと、隆の陰に怯えていたのだろう。
いつ、追手がくるかわからない日々を、すごしていたに違いない。
美和と和江を守るために、都は神経をとがらしていた。
「なぜ、黙っていた?」
知っていたなら、嘘をついていた都を責めることでできたはずだ。
この家から追いだすこともできたはず。
研究所に引き渡すことだってできたはずだ。
それどころか、相田家の人々は都を家族として迎え入れた。冷たい態度をとっているにも関わらず、美和と同じように愛情を注いでくれた。隔てることなく、ここまで育ててくれた。
「あなたの口から直接聞きたかったの」
話してくれることを、信じて待っていたのよ。
「隠す必要はなかったということか」
都の被っていた仮面が、簡単に剥がれ落ちていく。
美和と和江と実の前では、仮面を被る必要はなかったのだと。
自分を作らなくてもよかったのだと実感した。
僕を一人の「人」として、見てくれていた。知ったうえで家族として、受け入れてくれていたのだった。
三人の懐の深さに、都はかなわないと思った。
「ごめんなさい。あなたの心が、壊れてしまわないか心配だったのよ」
「都が背負っているものを、少しでも軽くしたかったの」
「乗り越えないといけなかったのに、僕が逃げていただけです。三人は悪くない」
どうせ、すぐ裏切るのだろう。
離れていくだろうと、三人を信じきれていなかった。
「実の母親はどうしたの?」
「父の部下に、目の前で殺されました」
今でも、遺品すら見つけられていない。遺体も隆に部下に、回収されているだろう。
「都は強いわ。会いにいくつもりでいるのね」
和江は都の成長が嬉しかった。
ちゃんと、向き合おうとしているのね。
「会いにいきます。逃げるのは、やめました」
本来、人は母親から生まれて、歳をとっていくもの。
遺伝子操作を容認し――自然の摂理を、狂わせるわけにはいかない。
自分のような子供を、増やさないためにも自分が動かないと何も始まらない。
かわることはない。
同じような思いをさせないために、相打ち覚悟で隆をとめるつもりでいた。
「それに、今を逃すと二度と会えなくなります」
遺伝子崩壊が始まっている今――自分に残された時間は少ない。
これが、間違いなく最後のチャンスだった。
「一つだけ約束をして」
「約束ですか?」
「人を殺さないで」
もう、手を汚す理由はない。
私たちなら、大丈夫よ。
呼吸がとまるぐらいに、和江は都をきつく抱きしめた。
「――お母さん」
都は引き取られて、初めて和江のことをお母さんと呼んだ。今の自分にできる精一杯の愛情表現だった。
「忘れないで。都は相田家の子供よ」
「一生、忘れません」
今まで、大切に育ててくれてありがとうございました。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
和江に抱きしめられて、都は目を閉じる。
そして、和江の身体を抱きしめ返した。
その間、美和が無言なのは、泣いてしまうからだろう。都が解放されて、美和の横を通った時に耳元で囁く。
大好きだよ。
お姉ちゃん。
初めて見せた笑顔を残して――。
都は住み慣れていた家をあとにした。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!