「別離」
「起きて」
女性は眠っている男の子を起こした。
靴を履かせて荷物を持たずに、部屋をでる。
緊急事態だと察したのだろう。
男の子は何も言わずに、あとをついてくる。
昨日、セキュリティーを壊しておいた。これで、少しは時間が稼げるだろう。
一刻も早く窮屈な場所から逃げだしたい。
これ以上、苦しい思いをしたくない。
男の子とともに、平穏な日々を送りたい。
女性はそう思った。
やめて、私の子供を返して。
普通の生活に戻して。
研究が認められるのに、嬉しくないのか?
嬉しくないわ。
この実験は間違いだったのよ。
忘れるなよ。
お前も共犯者だ。
いつでも、殺すことができると。
命を奪うことができると。
思いだす冷徹な瞳。
男の子と女性を案じていた優しい夫の姿は、どこにもなかった。
この人はすでに、壊れてしまったのだと。
夫婦としての修復は不可能だと。
楽しかった日々にはもう戻れない。
自分の声は届かない。
きっと、届くことない。
男の子の命を守るためには、逃げるしかなかった。全部を投げ打ってでも、研究所からの脱走を決意した。
「おい……いたぞ」
「逃げられると思うなよ」
二人を追っているのは、夫の部下たち。
追われる立場となり、反逆者となる覚悟はしていた。
連れている男の子にも、無理をさせていることはわかっている。デザインズ・ベイビーとして生まれてきても、他の子供と変わらない。
ただ、遺伝子操作の関係で体力には限界がある。
この先、長生きはできないだろう。
だから、外の世界を知ってほしかった。
見てほしかった。
自然を感じてほしかった。
色々なことを学んでほしかった。
この身が滅びてもいい。
朽ちてしまってしまってもいい。
もしかしたら、自己満足なのかもしれない。
そう言われてもいい。
思われてもいい。
嫌われてしまってもいい。
母親失格だと言われても、最後まで男の子と一緒にいたかった。
この小さな命を守りたかった。
次世代への未来を託したかった。女性が蒔いた種はいずれ花となり、いつか咲き誇る時がくるだろう。
いくつもの銃弾が横を通りぬけていく。
その衝撃で握っていた手がはずれた。
お母さん。
男の子は女性を助けようと、手を伸ばす。男の子が手を伸ばすより先に、女性の身体が血に染まっていった。
逃げて。
少しでもいい。
生き延びて。
それに、あなたは自由よ
どこにでもいけるわ。
さようなら。
私の愛しい子。
愛しているわ。
視線の意味を理解した男の子は、走り始める。
一気に追手を引き離していく。
素足で逃げている子供を不審に思ったのだろう。
逃げている時、どうした? 何があった?などと声をかけてくる大人もいたが、気にする余裕がなかった
あと、ここが田舎ではなく都心でよかった。
男の子はわざと、人通りが多い場所を選んだ。人通りが多い場所を通れば、追手は母親を殺したように銃やナイフが使えない。
男の子は高層ビルの陰になっている公園に逃げ込んだ。男たちからは見えにくい場所にあり隠れるには、ちょうどいい場所だった。
やがて、男たちの気配が遠ざかっていく。
男の子は緩く息を吐きだした。
痛い。
足の痛みで現実に引き戻された。
気がつけば靴は脱げて、素足で逃げていた。
大丈夫?
けがをしたの?
見せて。
けがの回復は早いとわかっていても。
女性はいつも心配してくれた。
傍にいてくれた。
抱きしめてくれた腕や温もりはすでにない。
全部、失ってしまった。
幻のように消えてしまった。
手のひらからこぼれおちてしまった。
今は何も考えたくなかった。
疲れた。
少し休もう。
木々のざわめきを感じながら男の子は瞳を閉じた。
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