目を開けて鳴き声のする方向を見上げると、そこには自分に向かって急降下してくる装甲を付けたライトアーマードラゴンより少し大きい漆黒のドラゴンが見えた。
「――ッ!? あれはッ!!」
ドラゴンはエミルの真ん前に着地すると、尻尾と翼でエミルの周りに群がっていたモンスター達を吹き飛ばす。
呆気にとられているエミルは、その光景をボーっと眺めている。このドラゴンは以前、影虎を乗せていたドラゴンで間違いない。しつこく追い回されたから、その時のことは昨日のことの様にはっきりと覚えていた。
っと、突然ドラゴンがエミルに向かって覆い被さる様にしてのしかかってきた。
その直後、別のドラゴンの咆哮が辺りに轟き、地面を激しい炎が数回にわたって照射され、エミルにもその轟音と熱気が伝わっていた。
エミルの体を覆っていたドラゴンがゆっくりと起き上がると、その姿が消失する。それは撃破されたわけてはなく、故意に消されたのだ。何故ならその後すぐにエミルの前に真上から影虎が降ってきて、彼女の体を抱え上げてジャンプすると、それを漆黒の巨竜が地面すれすれをやってきて回収して直ぐ様、上空に急上昇した。
「――いいタイミングだ。ファーブニル」
――グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
影虎の声に応えるように、漆黒の巨竜ファーブニルが咆哮を上げる。だが、エミルが一番驚いているのは……。
「……あなた。今までいったいどこに行ってたのよ」
「ああ、いや。この街に着いてすぐ、お前を探してから部屋を決めようと探していたら、お前の連れのあの着物を着た紫髪の女に強引に近くの部屋に押し込まれてだな。鍵まで掛けられて監禁されていたんだ……」
表情を青ざめ、鬼気迫る声音でそう告げた影虎に向かってエミルは目を細めて訝しげな顔で言った。
「――イシェがそんな事するわけないわ。……どうせ、私の気を惹こうって魂胆なんでしょ? その手には引っかからないわよ」
全く信じていないエミルに、逆に影虎の方が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
まあ、エミルがイシェルに全幅の信頼を置いているのは、エミルの前ではイシェルが常に従順であるがゆえのことだ。現に、イシェルはエミルの前では決して彼女の発言も行動も否定しない。
それだけではなく。どんなに困難だと思えることにも、その身を挺してまでも協力してくれる。しかも、エミルにとってはリアルでもゲームでも、イシェルは唯一の理解者と言ってもいい存在だ――そんな彼女をそれほど深い関係もない人物に否定されれば、その人物が嘘をついていると考えるのは当然だろう。
全く信じる様子のないエミルに、影虎は大きなため息を漏らすとファーブニルにその場を離れて街に戻るように命令を下す。
突然、街に向けて方向を変えたファーブニルに、エミルは驚き目を見開く。
「ちょ! ちょっと待ちなさい! どうして街に戻るの!? 加勢に来てくれたんじゃないの!?」
完全に戦うものだとばかり思っていたエミルは混乱する頭でそう叫ぶと、影虎は理解できないと言った表情で首を傾げている。
「――何をバカな事を言っている北条。あの数を2人でなんとかできるわけがないだろう? お前ももうボロボロじゃないか、ここは上策通り撤退しかないだろう?」
その彼の言葉を聞いた信じられないと言った表情でエミルは目を見開き、声を荒らげながら反論した。
「バカはあなたでしょ! 遠距離攻撃手段である上級ドラゴンを持っていながら、なんで撤退なんて考えられるの! これだけ数が減ったのよ? ここは殲滅するのが最も得策だって分からないのッ!?」
エミルの進言を聞いても影虎は「撤退する」と自分の意志を曲げようとしない。
その彼の言葉にエミルは「理解できない」と呆れ顔で小さく毒づくと、震える手でコマンドを開いて目の前に表示されたウィンド画面から2本の剣を取り出すと、それを腰に差した。
覚束ない足取りで立ち上がると、真下を見つめ静かに呟く。
「……私はこのまま敵を駆逐するわ。ドラゴンの高度を落として……」
「おい! 正気か!? そんなフラフラな状況で戦えるわけがないだろ!」
「いいから高度を落として! あなた私の事が好きなんでしょ? なら、私の言うことを聞いてよ! そうじゃないとここから飛び降りるわよ!!」
一歩前に踏み出し、影虎の方を振り返って『飛び降りる』という脅し文句を口にしたエミルの顔は真剣そのものだった。
普段なら彼女が絶対にこんなことを口にするはずがない。しかも、相手が自分へ好意を向けていることまで利用するような言動を、エミルが口にするのは今までにない。
互いに視線をぶつけながら無言のままその場に立ち尽くしていると、エミルがため息混じりに頷く。
「……そう。あなたの考えは良く分かったわ」
残念そうに俯くと、そのままエミルの体がゆっくりと後ろに傾く。
っと咄嗟に影虎がエミルの腕を掴んで、地面に落下しそうになる彼女の体をドラゴンの背中に引き戻す。
手と膝を突いて項垂れているエミルの肩が小刻みに揺れる。
「……どうして……どうして、分かってくれないのよ……」
涙を流しながら、そう告げたエミルを、影虎は無言のまま見下ろしている。
エミルは掠れた声で更に言葉を続ける。
「……やっと、ここまで敵の数を減らせたのよ……もう少しでこの戦いも終わらせて、あの子をこの悪夢から解放してあげられるのに……お願いよ。お願いだから……今回だけでいいから……力を貸してよ。……どうして、まだ子供のあの子が意識を失うまで戦わないといけないの? もう、優しいあの子が辛い思いをするのを見ていられない………私が……私達が守ってあげなくちゃいけないのよ……なのに、私はなんて無力なの……」
力なくその場に膝を突いて泣き崩れるエミルの体は、すでにボロボロだった。
自慢の鎧は無数の刀疵で傷付き割れていて、今にも剥がれ落ちそうだ。それから推測するに、耐久値も限界近くまで減っているだろう。戦闘中に消滅しなかったのは、もはや奇跡としか言いようがないほど無残な状態だ――。
誰が見ても彼女が、死と隣り合わせの壮絶な戦いをしてきたのは疑う余地もないだろう。
それは影虎も理解しているつもりだが。だからこそ、今の彼女を戦場に戻すわけにはいかない。
戦場に戻ればエミルは必ず死ぬ……それは惚れた彼女を失うことになり、彼が一番望まない結末だ。しかも、彼もまたドラゴンを失うわけにはいかない。たとえ数時間だけの消失とはいえ、敵が甚大な被害を受け、同じ固有スキルの持ち主でありエミルは主要なドラゴンを失っている。使用者本人がこれほどの傷を負っているというのは、即ちそういうことだ。召喚した者が大ダメージを受けると、ドラゴンも消滅するのはスキルを使っている者なら常識。
しかもそれだけではなく。影虎が向かって来た理由には、リントヴルムZWEIの消滅を確認したからということも含まれていた。
空腹の中。ギルドホールの一室でそれを見た影虎は、視界が激しく乱れた状態……つまり。三半規管が乱れた酷いめまいの状態で思うように動かない体で、地面を這いながら助けを求めて数時間に渡って叫んでいた。すると、扉の鍵が開き。中に一切れのパンが投げ込まれ、それを食べて空腹症状を解消してから急いでここまで向かってきた。ということなのだ――。
エミルが泣いているのを無言のまま見つめていた影虎だが、街に向かうファーブニルには戦場に戻るようにと命令は出さなかった。
いや、出せなかったのだ――影虎からすれば、エミルが守りたい人物よりもエミル本人の方が大事であり。それを失うくらいなら、今まで通り敵対する方を選択するのは当然なのだ。
2人を乗せたファーブニルは街の外れの広場に着陸し、意気消沈しているエミルを地面に降ろす。
「ほら、突いたぞ。もう、あんな無茶はしない方がいい……」
「……ええ、あなたの言う通りね……助かったわ。ありがとう」
掻き消えそうな声でそう影虎に告げると、エミルは俯き加減に重くゆっくりと覚束ない足取りで歩き出すと、ギルドホールの方へと向かって消えて行った。
影虎と別れた後、ギルドホールの前まで来ると、エミルはギルドホールの入り口に入れずに、暗く重い表情で近くの家の外壁に凭れ掛かっていた。
ボロボロになった鎧は少し割高だったが、千代の街のプレイヤーの経営する鍛冶屋で直してもらった。
シルバーの美しい西洋甲冑から体のラインがくっきりと出る形のブルーのワンピースに変わっていたが、普段着に着替えていつも、星のいる部屋どころかギルドホールに入ることすらできなかった。
決死の作戦だったのだが、結局は失敗に終わってしまった。しかも、エミルは今回の作戦が成功するのを見越して、星にすぐバレるような嘘までついたのだから目も当てられない。そんな状況だ――今、星に会ったら間違いなくエミルは泣いてしまうだろう……。
途方に暮れたエミルが、落ち込んだ様子で俯き加減に地面を見つめていると、紅蓮達と一緒にギルドホールを出てくるイシェルとデイビッドの姿が見えた。
イシェルはエミルの姿を見つけると、ゆっくりと彼女の方に近付いてくる。だが、エミルは徐々に近付いてくるイシェルと目を合わせることができず、更に深く俯いた。
何かあったと察したのか、イシェルがそっとその場を離れようとしたその時、エミルが突然去ろうとしたイシェルの背中に抱き付いてきた。
「なんや? エミ――」
「――ごめんなさい。イシェ……もう少しだけ、もう少しだけ……このままで、いさせて……」
声を詰まらせながら言ったエミルの声は震えていた。
イシェルは体を反転させると、彼女の耳元で「うちはエミルの味方やよ」と呟くと、涙を流しているエミルの顔を自分の胸に押し付けるようにしてゆっくりと彼女の体を抱きしめて、その腕でエミルの顔付近を覆い隠した。それを横目に微笑みを浮かべると、デイビッドはゆっくりと歩き出す。
「おいおい。今から作戦なんだぜ、こんな場所で時間食ってる暇は――」
「――さあ、その通りです。時間がありません。行きますよメルディウス」
「ちょ! そこを引っ張るなよ紅蓮!」
文句を言っていたメルディウスを、腰の鎧の隙間に後ろから小さな指を滑り込ませた紅蓮が強引に引っ張っていく。
バランスを崩しそうになりながら後ろ向きで、その場を離れていく彼等に続いて作戦に参加する者達も抱き合っている2人を気に留めることもなく紅蓮達の後に付いていく。
泣くエミルに対してその理由すら聞こうとしないイシェルは、ただただ彼女が落ち着くのを待っている。
やっと落ち着きを取り戻したエミルは、イシェルから数歩後退って離れると、手で涙を拭った。
「――イシェとデイビッドも紅蓮さん達に同行するの?」
「そうなんよ~。でも、すぐに片付けて帰ってくるから少しだけ待っててな~」
「ええ、あなたなら心配いらないとは思うけど、気を付けてね……」
心配そうに告げるエミルに、イシェルは微笑みを浮かべながら深く頷く。
その後、振り向くことなく歩いていくイシェルの背中が見えなくなるまで見送っていた。
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