それは今朝の話だ――。
エリエが目を覚ますと、昨晩一緒に寝室で眠っていたはずのミレイニがどこにも居なかった。
『まあ、目覚ましに顔でも洗いに行ったのだろう』
そう思って始めはそれほど気にしていなかったのだが、いつまで経っても戻ってくる気配のないミレイニに、徐々に不安が募り星の一件もあってか、どこかに逃亡したのではないか……っと思った。
現に、昨晩はエミルが星と2人で出掛けたことにむしゃくしゃしてマカロンをやけ食いしていたところを、ミレイニに食べようとしていた最後のマカロンを取られたことで怒ってしまった。
「やっぱりちょっと心配…………探しに行こう!」
ベッドを飛び出してモコモコした羊のパジャマから装備に着替え、外に出るとことのほか早くというか城を出た直後に彼女の衝撃的な姿を目の当たりにした。
なんとミレイニはまだ空が薄暗い早朝から、目の前にある湖の中を泳いでいたのである。しかも、パンツ以外何も身に着けない状態で……。
それが普通と言えば普通なのだが、この世界はゲームであり。リアルの普通はそれには適用されないものだ。
第一この世界でも現実世界でも、誰も居ないにしても。湖をパンツ一枚で泳ごうと考える女の子はまずいないだろう。そしてよく見ると、その下に大きな黒い岩の様な物が確認できた。しかも動いている……。
っと、突如その岩の様な何かが水面から、まるでクジラが飛び出すかの如くド派手に姿を現す。
その物体の全貌を見た瞬間、エリエは思わず言葉を失う。いや、その表情は引き攣っていた。
それもそうだろう。水面から飛び出してきたのはクジラではなく、とても大きな山椒魚だった。
驚き目を丸くさせているエリエをミレイニが見つけ、大きな声で手を振った。
「やっほ~、エリエ~」
巨大な山椒魚に乗りながら満面の笑みで、ブンブンと振っているミレイニを見てエリエは呆れ返って顔を覆う。
「全く……どうしてあの子はいつも…………ちょっとこっちに来なさい! ミレイニ!」
「ん? ――ッ!!」
どうしてエリエが怒っているのか分からずにきょとんとしているミレイニだったが、エリエが手をわきわきさせているのを見てビクッと体を震わせ、すごすごと岸に向かって戻ってきた。
まあ、これ以上怒らせるよりも。早めにお仕置きを受けた方がいいという判断をしたのだろう。
岸に着くと、巨大な山椒魚はその大きな体を、ドカンと陸地にへたり込むようにして2人をその大きくてつぶらな瞳で見据えている。
近くで見ると、その大きさを再確認させられる。例えるなら、樹齢千年を超えた大木の様に太い胴体と全長は下半身は湖に沈んでいて分からないが、尻尾まで含めると相当な長さだろう。
その背中から降りたミレイニがおずおずとエリエの前に出てきた。
「……な、なんだし?」
腕組みしてかんかんになって怒っているエリエに、ミレイニが怯えながら顔色を窺うようにして尋ねた。
エリエは怒った表情を崩さずに無言のまま、ほぼ全裸に近い彼女の体を指差す。
その指先が差す場所を目でなぞって、ハッとしたように自分の姿を見下ろし、慌ててミレイニが弁解する。
「こ、これは……水に入るから脱いだし」
「どうして水に入るから脱いだのか、詳しく理由を教えてくれる?」
拳を強く握り締め、にかっと微笑みを浮かべるエリエ。
だが、ミレイニはその笑顔にエリエが許してくれたと勘違いしたのか、堂々と言い放つ。
「そんなの決まってるし! もちろん! 気分だし!」
「ほぉ~。気分……ねぇ~」
清々しいほどに屈託のないその笑顔に、エリエの中で抑えていた何かが弾け飛んだ。
直後。エリエの両手がミレイニの頬を摘み上げる。
「いはい! いはいひ~!!」
「――私も今……すっごく、ミレイニの頬を引っ張りたい気分なのよねぇ~」
両手をバタバタと動かし、暴れているミレイニの頬を不敵な笑みを浮かべたエリエが更に強く引っ張った。
どうしてこれほどエリエが怒っているかと言うと、フリーダム内のゲームシステムでは服などは汚れたり切れたりしても装備し直せば元通りになる。
また、服のまま水に入ると濡れはするものの。水の中で服が重くなり動きが鈍るなどはなく、水中でも裸体で水に入った時となんらかわりのない動きを取れる仕組みになっている。
だからこそ、エリエは裸で湖に入る必要はないのに、パンツだけで湖に入ったミレイニにこれほど怒っていたのだ。そして、彼女の格好以上に気になるのは……。
今、隣で横たわっている巨大な山椒魚を横目で見た。
ミレイニの頬から手を放し、腰に手を当てながら横にいる山椒魚を見上げた。
「それにしても……これ大きいわよね」
「でしょー。この池で見つけたんだし! 一度は食べられそうになったけど、なんとかテイム……できた……し」
自慢げに話していたミレイニの瞳に、目を吊り上げて手をわきわきさせているエリエの姿が目に入り顔を引き攣らせる。
その直後、ミレイニの不安が現実なものへと変わり、再びエリエに頬を引っ張られた。
「いはいひ~」
「どうしてそんな危ない事をするのかな~? あなたは~!」
「へも~かあひひかあ~」
「どんなにかわいくても、危ないことはダメでしょ~?」
ミレイニの頬をグリグリと引っ張りながら、エリエの目と眉が更に釣り上がる。
「ほら、ごめんなさいは?」
「ほえんなはい! ほえんなはい~!!」
ミレイニが謝ったことで、仕方なくエリエは頬から手を放す。諦めたような小さなため息の後に短く「早く服を着なさい」とだけ告げた。
瞳を潤ませ頬を撫でていたミレイニはまた頬を引っ張られたら堪らないと、慌てて装備欄を開いて服を装備した。
「こ、これでいいし?」
っとエリエに尋ねると、エリエは満足そうに頷く。
そして、もう一度巨大な山椒魚の方を見て困り顔で眉をひそめた。
「でも、私もエミル姉のマイハウスには、事件前からちょくちょく来てたけど、こんな大きいの見たことないんだけど……」
巨大な山椒魚を見上げてわずかに顔を引き攣らせていることから、エリエは爬虫類系は嫌いなのが見て取れる。
その後、巨大な山椒魚の体からは想像もできないような小さくつぶらな黒い瞳がキラキラと輝きながらエリエを捉え、エリエの背筋に悪寒が走った。
「ちょっとミレイニ! その大きなトカゲ、しまいなさいよ!」
エリエは少し裏返った声で言うと、ミレイニはどうしてしまわなければならないのかと言わんばかりに首を傾げていた。
彼女にとっては、このオオサンショウウオのようなルックスにつぶらな瞳の一見妖怪の様な容姿のこの生物に、他のペットと同じ情を持っているのだろう。
気持ち悪いとは思いつつ、ミレイニを傷付けないようにできるだけオブラートに包んで伝えなければ……と捻り出した言葉は「このままじゃ、体が乾いちゃって可哀想でしょ?」だった。
その言葉を聞いたミレイにも納得したのか、ポンっと手の平を叩いて巨大な山椒魚の方を向いた。
「それじゃ、また後でね。ナポレオン」
巨大な山椒魚は無言のまま、ゆっくりと巨大な体を回転させるとのしのしと重い足取りで湖の中へと戻っていく。それを呆然と見つめながら『湖に戻るのかよ……』と思いながら、そっと巨大な山椒魚を記憶の中から消去した。
まあ、こんな妖怪か怪獣の類のまさにモンスターにも歴史上の偉人の名前を付けるとは……。
っということがエミル達の居ない間に起きていたのだ。
事の次第を説明し終えると、エリエはエミルに同意を求める様に。
「もう信じられないでしょ?」
そう詰め寄ると、エミルも困った様子で苦笑いをしながら「それはさすがにね」と仕方なく相槌を打つ。
この時のエミルの心の中には『エリエも対して変わらない』という思いがあったが、それをエリエに告げることはなかった。すると、エリエは「ほら」とミレイニに告げる。
ミレイニは渋い顔をして俯いたが、このままでは自分の立場が悪くなると感じてすぐに反論を始めた。
「だって! 湖に入っちゃえば誰も見てないし。それに、別に男子に見られたってどうって事ないし! エリエは自意識過剰過ぎるし!」
売り言葉に買い言葉で放ったミレイニの『自意識過剰』という言葉に、エリエの頭からブチッと血管の切れる音がした。
「うわああああああああああああああッ!!」
直後。エリエが顔を真っ赤にして、まるで赤鬼の様に荒ぶりながら拳を振り上げる。
その様子に驚いたミレイニがその後にくるであろう出来事を予想し、バスタオルを巻きつけたの姿で脱兎の如く走り去っていく。
「だから、服を着なさいって言ってるでしょ~!!」
エリエはバスタオルがはだけそうになりながら、部屋の中を駆け回るミレイニを追いかけ回す。
すると、騒ぎを聞きつけ。キッチンで料理をしていたイシェルがエプロン姿のまま出てきた。
何故か、その手には包丁が握られている。
「うるさくしたらあかんよ? 2人共、大人しくしてな~」
笑顔でそう言ったイシェルだったが、その笑顔とは裏腹に手に持たれた包丁は不気味に輝いていた。
エリエもミレイニもその場でピタリと止まり、ゆっくりと後退りしてエミル達の方へと戻っていく。それを見て、イシェルはにっこりと微笑みキッチンへと戻っていった。
イシェルの姿が消えた直後、笑顔を浮かべるその体から放たれている殺気に、2人はガクガクブルブルと震え出す。
普段からどこか影があるイシェルは、本当にやりかねないと思ったのだろう。まあ、イシェルは掴み難い性格をしているのは事実だが……。
そうこうしているとマスターとカレン、デイビッドが現れる。
彼等は険しい表情をして廊下を歩いてくると、マスターがその表情を崩さずにエミルに告げる。
「おう。帰っておったか、エミル。悪いがすぐに今後の対策について話がしたい」
その場の雰囲気からして深刻そうな重苦しさに、エミルには断るという選択肢は元からなかったのだろう。
彼女は小さく頷くと、ひどく神妙な面持ちでリビングのテーブルへと歩いていく。エミルの後ろ姿を見ていれば、星にも事の重大さを容易に察することができる。
星は肩に乗っているレイニールの方を向いて表情を曇らせた。だが、レイニールは微笑みを浮かべるだけで。
「大丈夫じゃ! 我輩はなにがあっても主の味方じゃ!」
「うん。ありがとう、レイ」
レイニールの言葉に不安だった心が、少しだけ和らいだ気がした。
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