その頃、城の屋根の上ではマスターとメルディウスが盃を持って酒を酌み交わしていた。
城を含めた街を取り囲むように、多くのモンスター達がすでに所狭しと並んで獲物を待つように不気味な赤い眼光を放っている。
口元に微かに笑みを浮かべたマスターが、ゆっくりと立ち上がると。
「さて、儂はそろそろ行くとしよう……」
「……ギルマス。明日の戦闘は俺の全てを掛けるぜ!」
拳を突き出したメルディウスのその気持ちの入った言葉に「期待しているぞ」と言葉を返して微笑むと、マスターがその場を後にした。
「――ふん。美徳か……」
そう小さく口にして、彼が姿を消した後もメルディウスはその場に残り、酒を呷っていた。
メルディウスの場所から離れたマスターが次に向かったのはカレンの所だった。
食事を終え、城から離れた湖畔で日課である食後の運動と称した修行を行っている。未だに固有スキルが発動しないカレンにとって、この日課はとても重要なものだった。
レアな固有スキルになればなるほど、発動条件が特殊なことが多いというデメリットはあるが、その代わりとても強力なものになる。
彼女の固有スキルもマスターと同じ『明鏡止水』なのだが、言葉の意味を察するに心を落ち着かせなければ発動できないと考えられ、カレンの修行には精神力を鍛える瞑想もあるのだが、一向に発動する気配を見せてはくれなかった――。
カレンはこれをゲームの中に閉じ込められてから毎晩行っている。こういうところをみると、カレンの真面目な性格が見て取れる。
『継続こそ力なり』これがカレンの座右の銘であり『努力を継続できる者こそが本物の天才である』というマスターの格言を素直に受け取った結果の賜物なのだ。
月明かりが降り注ぐ湖畔で、ただただ拳を前に突き出していた。額を流れる汗を気にする様子も全くなく、凄い集中力だと感心するばかりだ。
「ほう、精が出るな。カレン」
「――ハッ!? 師匠。こんなところに来るなんてどうしたんですか? メルディウスさんとの話はもう良いのですか?」
マスターの姿を見つけ、慌てて拳を引っ込めるカレンに優しい微笑みを浮かべ歩み寄る。
普段なら『集中できないだろう』と、練習を見にくることのないマスターが突然現れたことで、困惑の色を隠せないカレンを余所にマスターは湖と向かい合うと勢い良く拳を構えて振り抜く。
すると、マスターの拳を包むように突風が巻き起こり、拳から発生した衝撃波が辺りの水面と木々を大きく揺らす。
カレンはそれを羨望の眼差しで見つめていた。
「……どうだカレン。久しぶりに稽古をつけてやろう」
「えっ!? ど、どうしたんですか? そんな、稽古だなんて……」
うろたえるカレンの顔は、どこか緊張で強張っているようにも見える。
いや、それも無理もない。マスターに言われ、幼い頃から形を覚える為に幾度となくマスターに稽古をつけてもらい。後は実戦で覚えていけというお墨付きをもらっていた。
そんなカレンが稽古をつけられるというのは、自分に至らないところがあったということだ――そうなれば『稽古』という言葉を聞いて緊張するのも当たり前のことだろう。
緊張で肩を強張らせるカレンに、マスターは優しい声音で言った。
「なに、気が向いただけだ。深い意味などない」
「……は、はあ」
間の抜けたように返事をするカレンに向かって、マスターが拳を構える。
すると、カレンも一瞬で真剣な表情に変わり、拳を構えて強く握り締めた。
「――ゆくぞ!」
「――はい! お願いします!」
掛け声と共に地面を蹴って、まるで消えたように瞬時にカレンの目の前に移動したマスターがカレンの顔目掛けて素早く構えた拳を振り抜く。
カレンはそれをギリギリで左腕で払い除けると、直ぐ様右手でマスターの脇腹を狙う。しかし、カウンターで放った拳は当たる直前にマスターの腕に防がれた。
っとその直後、マスターが突き出していた右手を瞬時に縮め、素早く二打を腹部と顔付近に繰り出す――が、その両方ともカレンの体には当たらず、既の所で止まり当たることはなかった。
もちろん。彼の攻撃をカレンが防がなかったわけではなく防げなかったのだ――常人の反応速度では、二連打がほぼ同時に放たれたようにしか感じないだろう。
カレンがほっとしたのも束の間、すぐにマスターの檄が飛んだ。
「カレン! 攻撃に集中しすぎるな! 攻守は常にせめぎ合うものぞ!」
「は、はい!」
返事を返すと、今度は息つく暇もなく上段にマスターの回し蹴りが炸裂する。
カレンは瞬時に両腕で防いだが、その蹴りの威力に押され吹き飛ばされた。だが、空中でなんとか体勢を整え、何事もなかったかのように見事に地面に着地した。
「なにをしておる! あの程度の攻撃。素早くかわし、懐に飛び込んで敵の中段に己の拳を叩き込まんか!」
「はぁ……はぁ……は、はい!」
(師匠がいつも以上に厳しい。どうしてしまったんですか? 師匠……)
普段との違いに困惑するカレンだったが、すぐに冷静さを取り戻し拳を構え直して、マスターを見据える。
そして、カレンの体が一瞬青く輝いた。これは基本スキルのスイフトを使って、自身の攻撃速度と移動速度をアップさせたことを意味していた。
相手が自分の師だと思うから集中できなかったが、一度それを意識から切り離せば、今のカレンと固有スキルなしで戦えば勝てるものはそう多くない。
ダークブレットの鉤爪の男と戦った時は四足歩行の想定外のモーションアシストに苦しめられたが。しかし、あの時よりもカレンが更に腕を上げているのも要因にはあるものの、それ以上にマスターの弟子であるということが大きい。
マスターはカレンがスイフトを使用したのを見て、口元に不敵な笑みを浮かべると地面を蹴る。
視界から一瞬消えた彼の姿がカレンの目の前に現れると、今度は攻撃を受ける前に即座に数回後ろに跳んで距離を取った。だが、即座に地面を蹴りマスターはそれを追撃する。なおも後ろに跳んで逃げるカレン。
っと、その時。逃げていたカレンが地面を蹴り、今度は一転して前に飛び出す。その急な動きに、さすがのマスターも虚を突かれたのかほんの少しだけ体制が崩れる。
カレンはその一瞬を見逃すことなく、拳を硬く握り締め。
「はあああああああああッ!!」
咆哮を上げながら勢い良く突き出したその拳が、マスターの腹部目掛けて飛んでいく。マスター相手に乾坤一擲のこの一撃が通れば、この勝負の勝率はグッと高まる。
が、そう簡単にマスターに拳が届くとは思えない。しかし、カレンの突き出したその拳は予想と異なり、呆気なくマスターの腹部に炸裂した。
「ぐッ……」
痛みに微かに眉を歪めたマスターが地面を転がり、すぐに立て直すと腹部を押さえた。
あっさり決まったことに攻撃を放ったカレンが一番驚いているようで、目を大きく見開きしきりに瞬きをしている。
「な、なにをしておる……敵が弱っているうちに畳み掛けねば、勝機はなくなるぞ……ほれ、次々と攻撃してこんか!」
「は、はい!」
慌てて腹部を押さえるマスターに突進したカレンは、続け様に攻撃を放つ。
その攻撃も呆気なくマスターの体を捉え、マスターは攻撃を辛うじて防ぐが、まさに防戦一方の状態に追い込まれた。
カレンは『始めて師匠に勝てる』と核心にも似た何かを感じ取った直後、体が浮き上がった感覚とともに突然視界が切り替わり。星の散りばめられた夜空が目の前に広がっていた。
その刹那、顔の上にマスターの手が覆い被さっていた。
一瞬のことで困惑していたカレンだったが、どうやら攻撃に気を取られた挙げ句、足をすくわれ地面に倒されたらしい……。
自分の顔に覆い被さる手の平の指と指の間から、マスターの不敵に笑う顔が見えた。
「――カレンよ。攻撃に集中し過ぎて、足元がお留守になっておるぞ? これがダークネスの状態ならば、勝負は決まっていたな」
驚くカレンの腕を掴み体を起こさせると、マスターがそう告げて微笑みを浮かべる。
立ち上がったカレンは体に付いた砂を落として、胸の前で腕を組んだマスターの顔を見上げた。
「単調な攻撃では敵に見切られ、簡単に返されてしまう。重要なのは、攻撃に緩急を付けることだ」
「……師匠。もう一度お願いします!」
立ち上がり拳を構え直すカレンに、マスターも満足そうに深く頷いた。
それから一時間みっちりマスターに扱かれ、精も根も尽き果てたというくらいにくたくたになっていたカレンが地面にへたり込んだ。
肩で息をしながらマスターの方を向くと、カレンとは対象的に腕を組んだ彼はまだ余裕があるのか、息を切らしている様子もない。
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