エミルが病室を出ていった直後、岬は急な息苦しさを覚え力無くベッドに倒れ込む。
徐々に呼吸が苦しくなり、もう肩で大きく息をしなければ酸素が吸い込めない。
闘病人生で何度も味わった苦痛……それは紛れもなく喘息の発作だった。
岬は苦しさを紛らわせる様に布団を強く握り締める。もうそれしか、この状況を耐える術はないのだ――。
「や、やだ……こんな時に……まだ……姉様が近くにいる……のに……」
岬は悶えながらも、酸欠で薄れていく瞳で壁に下げられた時計を見遣った。
もう限界は等に超えている。それは自分が一番良く分かっているが、自分の体だ分からない方がおかしい。
だが、苦しくなるに連れて苦しさ以上に、今まで姉のしてくれたことが鮮明に思い起こせる。
長年の闘病生活を365日。休みの日だけじゃなく、毎日学校終わりに見舞いに来てくれているその苦労と苦悩に比べれば、今の自分の苦しみなど毛ほどのものでもない。
一番は今まで尽くしてくれてきた姉に、これ以上の心配を掛けたくないという思いが強かった。それだけで、今は持ち堪えている状況だ……。
(……せめて、姉様が病院を出るまでは我慢しないと、姉様に余計な心配は掛けたくない……)
岬はシーツを力一杯に握り締めながら、咳と息苦しさを必死に耐える。
今、人を呼んでしまうと、医師や看護師が物々しくこの病室にくるのは間違いない。
そうなると、せっかく笑顔で別れた姉にまた心配を掛けてしまう。
岬にとって、それはこの苦しみよりも更に辛いことだったのだ。
(……もう。いいよね……)
喘息の発作が起きてから約10分後。なんとか保っていた意識が遠退く中、枕元のナースコールを押したのと同時に岬は完全に意識を失う。
そんな妹の一大事など露知らず。エミルが自宅マンションに着いて玄関のドアを開けようと鍵を探した時、やっとスマートフォンに着信が入っていることに気が付いた。
それを確認してエミルの表情が一変した。着信元を見た彼女の顔が真っ青に染まる。
「病院から?」
(――まさか、岬に何かッ!?)
不安に押し潰されそうになりながらも、スマートフォンを手に持ち急いで電話をかけ直す。
病院からの内容は『岬が発作で突然倒れ、今も意識がなく危ない状況なので至急ご両親に連絡して欲しい』という要件だった。
それを聞いて、エミルは慌てて両親に電話を掛けるが……繋がらない。
「どうしてこんな緊急時に繋がらないのよ!」
そう声を荒らげてスマートフォンの画面に向かって叫んだが、そんなことをしていても仕方ないと、エミルは留守電にメッセージを残し。タクシーを呼んですぐに病院へと舞い戻った。
病院に戻ったエミルは、一心不乱に病院内を駆け抜けた。
制服のままでスカートが大きく揺れるのも構わず、まるで自分の方に高速で向かってくる様に流れる人をかわしながら。
「院内は走らないでください!」
っと、看護師にそう注意される声も気にかけずに、一目散に岬の病室へと飛び込んだ。
「……岬ッ!?」
肩で大きく息を繰り返しながら、病室の中に入ったと同時にエミルが叫ぶと、看護師が様々な機材を操作しながら2人立っていた。
その光景を目の当たりにして、心臓の鼓動が早まり。まるで、世界が止まっているかスローモーションの様に感じた。
ベッドの上で呼吸器を付けたまま眠っている妹の姿を見て、慌てて看護師達に詰め寄った。
「――岬はッ!? 岬は大丈夫なんですかッ!!」
「えっ? は、はい。ご家族の方ですか?」
「はいッ!!」
今にも泣き出しそうな顔をしたエミルが看護師の顔を見て返事をすると、深刻そうな顔で看護師が口を開く。
「様態は今は持ち直して落ち着いていますが、いつまた発作が起きるか分からない状態です。もし何か変化がありましたら、すぐにナースコールで呼んで下さい」
「…………」
それを聞いたエミルは無言のまま頷くと、2人の看護師は一礼して病室を後にする。まさに状況は最悪だった……。
知らせを聞いて何も考えず全力で病室まで飛んできたが、心のどこかでは信じられなかった。頭の中では、妹がいつも通りの元気な姿で出迎えてくれる気がしていたのかもしれない。だが、その考えそのものが幻想で、今目の前に広がる光景が紛れもない現実だ――。
まるで魂が抜けた様子で意気消沈したまま、岬のベッドの隣の椅子に腰を下ろす。
ベッドの中の岬は薬が効いているのか、落ち着いた表情ですやすやと寝息を立てている。
そんな彼女とは対照的に、岬の周りには様々な医療機器が置かれていて、その全てが忙しく動いていた。
「はぁー。さっきまであんなに元気だったのに……どうして……」
そんな妹の顔を見ていると、自然と涙が湧き上がってくる。その顔を覗き込んだまま、エミルは掠れた声で呟く。
目の前に眠っている妹と、数時間前の楽しそうに会話する妹の姿が重ならない。それどころか、数時間前のことがまるで夢だったかの様な錯覚に襲われる。
本当はもっと前から妹は昏睡状態で、自分は都合のいい夢を見ていたと……ふと、ゴミ箱に目をやるとさっきまで2人で食べていたケーキの包み紙が捨ててあり。
突然現実に引き戻され、更に強い罪悪感がエミルを襲う。
「――岬……どうしてあなたは苦しい時に苦しいって言わないの? そんなんじゃ具合が悪いか分からないじゃない……」
そう言ってと酸素マスクをかけたままの岬の頬を優しく撫でると、その頬が湿っていることに気が付き、胸の奥が苦しくなる。
(この子はいつもそうね……人の居ない場所で泣いて、人の前ではなるべく明るくいようと努力してる……そうか! あの時……)
エミルは数時間前、ケーキを2人で食べた時の岬の言動を思い出した。
「……あの時にはもう具合が悪かったんじゃないの? あの時、岬は『今日死んでもいい』て……私がもっと……もっと早くに気付いていたらこんな事には……」
エミルは小さな声で呟くと、自己嫌悪から椅子に座ったまま声を抑えて泣き続けた。
それから数時間後。薬の効果で眠っていた岬が目を覚ました。
(あぁ……あたし気を失って……なんだかすごく息苦しい……)
見慣れた白い天井を見上げていた視線を辺りに向けた。
そこには、物々しい機材が所狭しと並んでいた。
(こんなにたくさん……先生も大袈裟すぎるよ……あっ、姉様?)
その中に姉の姿を見つけると、思わず笑みがこぼれる。だが、どうやら寝てしまっているらしく。エミルは目を閉じたまま椅子に凭れ掛かっていた。
そんな姉の姿を見て、笑みを浮かべていたその表情が一瞬にして曇る。
(姉様……疲れているのに、心配かけてごめんなさい。でも……また、小さい頃のように、夜遅くまで姉様とお話しできますね)
岬はそう心の中で呟き暗かった表情から微笑みを浮かべると、寝ているエミルに向かって声を掛けようと懸命に口を開いた。
しかし、出るのはヒューヒューという呼吸音だけで、最愛の姉を呼ぶことすらできなかった。その時に始めて、今の自分が置かれている状況が理解できた……。
(あぁ……もうダメなんだ。声も出せないなんて……あはは……ほんと、どうしようもないなぁー。あたしは……でも、これが最後になるならせめて、姉様に感謝の気持ちを伝えたい――私の精一杯のありがとうの思いを……)
手を伸ばしベッド横に掛けられた白い布製の物入れを引き寄せると、中から紙の張り付いたボードとペンを取り出した。
それは岬が何かの時に書き留めておけるようにと、エミルが持って来てくれた物だった。
今までそれほど役に立ったことはないものだが……今思えば、この時の為にあったのかもしれない。
途切れそうになる意識を必死に保ちながらも、ぼやける瞳で時折、姉の寝顔を見つめて岬はペンを進めていく。
どんなに苦しくても、姉の顔を見れば不思議と今までの優しい日々の記憶が苦しさを紛らわせてくれた。
そして1時間近く掛けてようやく書き終えると、ボードから紙を剥がし、それを4つ折りにして枕の下のマフラーに挟んだ。
(――これで良し……でも、この言葉だけは自分の口で伝えたい……最後に、後悔しないように……)
岬は持っていたペンの先を持って、エミルの方へと右腕を伸ばした。
エミルの体にギリギリ届くかどうかのところで、必死に手の先に持ったペンを伸ばす。
(……お願い! 届いて……)
しかし、懸命に伸ばしたペンは無情にも岬の手を離れ地面に転がった。
その直後、頭が真っ白になり。岬の中で絶望の色が濃くなっていく。
(あっ……終わった……)
心の中で呟いた直後、強張っていた全身の力が抜けて脱力する。
その時、体の上に置いていたボードが地面に勢い良く落ちて、バンッと大きな音を立てる。
「……な、なにっ!?」
その音に驚いたエミルが勢い良く椅子から跳び起きた。
それを見て岬は声は出せないものの、微かな笑みを浮かべる。
もしも神様がいるとすれば、岬の今までの長い闘病生活を見ていて最後に少しだけ力を貸してくれたのだ――と、そう岬は感じていた。
だが、貪欲なもので、姉の顔を見た途端。さっきまでは一言だけでいいと考えていた思いが『姉様と話したい』という強い思いに変わった。
飛び起きたエミルはすぐに目を覚ました岬の顔を覗き込むと、安堵したようにほっと胸を撫で下ろした。
「はぁ~、このままもう目を覚まさないかと思って心配したわよ……」
エミルは情けない声を上げると、脱力したように椅子に腰を下ろす。
そんな彼女に岬が目でボードとペンを取ってくれるように訴えた。
「えっ? なに? ……ああ、これ? ちょっと待ってね……」
それに気付いたエミルはボードとペンを拾い上げて、予備の紙をボードに張り付けると、岬の膝の上にそっと置いた。
満足そうに微笑んだ岬が震える手で、徐にそのボードとペンを掴んで何かを書き出した。
その様子を見てエミルが思わず呟く。
「岬。あなた……」
エミルは彼女の姿に、声が出せないことを悟ったのだろう。
瞳に涙を浮かべながら、最愛の妹の懸命にペンを走らせる姿を見守っていた。
そんなエミルに気付いて姉を安心させる為か、岬は無言のまま微笑むとそのまま書き続ける。
しかし、その笑顔とは裏腹に徐々に岬の顔から血の気が引いていく。
手は震えて、上手く文字を書くこともできていないように見えた。
「……岬」
エミルはそれでも懸命に手を動かす妹の姿を見つめながらも、その手を止めることができなかった。
いや、止められるはずがない。それはもう彼女の死期が近いのを悟っての行動だと、直感的に感じ取っていたからに他ならなかった……。
岬は紙に書き終えると、ほっとした表情でそれをエミルに手渡した。
エミルはそれを受け取ると震える声で読み始める。
「……私のお姉ちゃんでいてくれて? この後の言葉って……」
エミルがそう言って岬の方を向くと、にっこりと微笑んでいる岬の口が微かに動いた。
その口の動きで、何を言おうとしているのか分かると、エミルの瞳から大粒の涙が持っていたボード落ちて、大きな丸い染みを作っていく。
彼女のその言葉に応えようと口を開こうとした直後、岬は荒い呼吸を繰り返し横に置いてある機器からブザーが鳴った。
エミルは慌ててナースコールを押すと、廊下からエミルの両親が勢い良く扉を開け同時に叫んだ。
「「――岬!!」」
そこには黄色い瞳に水色の短髪の男性と着物姿の長い黒髪に青い瞳の女性が顔を真っ青にして立っていた。
「岬! お父様とお母様が来たわよ! ……岬?」
両親を見て叫んだエミルが岬の方を振り返ると、そこには微笑えみながら瞳を閉じている彼女の姿があった。
エミルは心電図に目をやると、脈打っているはずのその波は一本の棒のように流れ続けている。
それを見た瞬間、全てを理解できた。
理解はできたが、だからと言って諦めきれるわけがない。エミルはそんな妹に必死に叫んだ。
「――岬! まだダメよ!! お父様とお母様にもお別れを言わないとでしょ? それに……まだお姉ちゃんが、岬にお礼言ってない!!」
エミルはベッドに前のめりになって叫ぶが、岬は目を開ける様子もなく安らかな寝顔をしている。
「私こそ……私の妹に生まれてくれてありがとう!」
その後も何度も何度も耳元で「ありがとう」と叫んだ。
意識が遠退く中、その声は岬にも届いていた。
(姉様は心配性ですね……何度も言わなくても聞こえていますよ……嘘でも嬉しいです。でもやっぱり姉様は凄いです。最後にお父様とお母様の声が聞けた……これも姉様の持ってきてくれた紫陽花のおかげですね。最後に家族が揃っちゃうんだから……ありがとうございました。姉様……)
結局。その後、岬が目を覚ますことはなかった……。
人が死んでしまうと病院とは非情なところで、次の患者に備える為にすぐに病室を空けなければならない。
その為、遺族は慌ただしく私物を持ち帰ったりしなければならず。故人を思って感傷に浸っている時間すらなかった。
両親が忙しく動き回る中、エミルだけは岬の私物を運ぶのを頑なに拒んでいた。
それは、今さっきまで生きていた岬の生きた証を自分で削り取ってしまう気がしたからだ。
何年も毎日お見舞いに通ったその出来事の全てが、まるで昨日の出来事の様に鮮明に思い起こされる。
エミルが廊下の床に腰を下ろし。うずくまっていると、後ろから母親が声を掛けてきた。
「これが岬の枕の下にあったの。きっとあなたにだと思うわ。……私は、あまり。あの子の側に居てあげられなかったから……」
「……お母様」
母親はエミルに丁寧に畳まれたマフラーを渡すと、悲しげにそう言って病室の中へと戻っていった。
その瞳には、微かだが涙が溜まっていたように見えた。
エミルの母親はいつもは感情を表に出さない非情な人だが、さすがにこの時ばかりは涙を見せずにはいられなかったのだろう。
渡された青いマフラーを見つめると、一度は収まっていた涙がまた溢れてきた。
エミルは膝に置いていたマフラーを濡らさないようにと抱きかかえ、床に四つ折りにされた紙が地面に落ちる――。
それを拾い上げたエミルはゆっくりとその紙を広げた。
【姉様へ。この手紙を姉様が読んでいるということは、私はやっぱり助からなかったんですね。
本当は言葉で伝えたかったけど無理そうなので手紙にします。
伝えたいことはたくさんあるけど、そんなにたくさんは書けないと思います。
姉様。病室に2人でこうしてると昔のことを思い出しますね。毎晩遅くまでお話してよく母様に怒られました。でも、すごく楽しかった。
姉様はあたしが病気になってからも、ほとんど毎日のようにお見舞いに来てくれて、とても嬉しく心強かったです。ありがとうございます。
でもそれが姉様の重荷になっているのではないかとあたしはいつも心配で、だからこれでやっと姉様に迷惑を掛けなくてすむと思うとちょっぴり嬉しいです。
でも姉様はそんな事言うと怒りますよね?
せっかく姉様が毎日お見舞いに来てくれたのに最後の最後に自分の声で話も出来ないような出来の悪い妹でごめんなさい。
マフラーは時期が来てから使って下さい。
最後まで要領悪くてすみません。
最後に出来の悪い妹の最後のわがままを1つ聞いてください。
姉様。岬の分まで幸せになってください。岬は笑っている姉様が大好きです。ずっとずっと大好きです。最後になりましたが、お体に気をつけて私の分も長生きしてくださいね。岬】
その手紙はところどころの文字は歪んでいて、読むのも困難な状態だったが、そこから岬の伝えたいという思いを感じ取ることができた。
手紙の中に『最後』という文字が多く使われていたのも、彼女が最後の力を振り絞り書いたのだろうということを窺い知れる。
エミルはその手紙を読み終えると、溢れそうになる涙を天井を見上げることで堪えて、手紙に視線を落とし小さく呟いた。
「……昔から、感情を表に出す時に自分の事を名前で呼ぶのは変わらないんだから……私も大好きよ。岬」
エミルは胸に抱いていたマフラーを更に強く胸に押し当てると、小さな声でささやいた。
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