この世は寂しい。そう思うようになったのはいつからだろうか。この荒涼とした世界でぼくだけがただ一人、見知らぬ誰かを、探している。
雑踏の中、ぼくだけが足を止めて君の姿を探している。あたり一面灰色の世界。その中で、唯一鮮やかな色を与えられた君。美しくぼくを魅了する。
ぼくは君に手を伸ばす。決して手に入らない、その手を握り締めることなんてできないと知りながらも、ぼくは手を伸ばさずにはいられない。ぼくと君との間にある大いなる隔絶を引き裂こうと、力いっぱい開かれた掌が宙を舞う。
「ダメだ、殺してしまう」
気がつくと、ぼくと君との間には灰色の人壁ができていて、ぼくが君の元へと辿り着くのを阻もうとする。彼らには顔が無い。のっぺらぼうの様に目鼻が失われた頭部に横に一筋、割れ目があり、そこから声を発しているのだった。
「ダメだ、殺してしまう」
ぼくにはその言葉の意味が分からない。
何故ぼくを拒むんだ。こんなに愛しいのに、こんなに近くにいるのに、何故あなたはぼくなんかいないみたいにそっぽを向いているのだ。
ぼくはぼくを見ようとしない彼女に問いかける。彼女はぼくに背を向けて、光の彼方に歩き始めた。それは異次元に開いた破孔だった。ぼくの知らない世界に彼女は連れ去られようとしていた。
瞳から涙が流れ落ちる。ぼくは慟哭した。誰だってぼくを救ってはくれない。ぼくはただ一人、灰色の都会の渦の中にいる。ぼくは君の何を無くしたんだろう。
誰もぼくを救えない。
誰だって。
誰だって。
でも、それでも。
魂を溶かす様な激情が在った。
それはぼくにこう囁きかけてくる。望むものが得られないのなら、全て壊してしまえばいい。痛みも、絶望も、全てお前のものだ。それを奴らに分からせてやれ。お前以外の全てを死の淵に叩き込め。考えるな、心が全てを選ぶ。怒りを冷たい鋼鉄に封じ込め、放て。
お前は、《《殺さなければならない》》。
ああ、分かってるさ。何故ならぼくは殺すために生まれてきた。
闇の怒りから力が流れ込んでくる。それは右手に宿りぼくに力を付与する。これでぼくを阻むものを駆逐する。他人顔で素知らぬ顔してぼくを拒む奴らなんて消えてしまえばいい。
ぼくは灰色のものどもを指差し、糾弾する。裂帛の気合いが口の端から漏れた。真紅の怒りに満ちた指の先から燃え盛る銃弾が放たれ、刹那の間に人壁を二つに分かつ。
「ダメだ、殺してしまう」
煩わしい。ぼくはそんな答えを求めてはいない。ぼくの前から、去れ。
それでも再び群がってくる灰色のものどもを、指先から放たれる怒りで焼き尽くしていく。
いつの間にか都会の街並みは紅蓮の炎に囲まれ、黒々とした陰影が楼閣《ビル》を漆黒の石棺に変貌させていた。
「ダメだ、殺して──」
黙れ。
世界が赤熱した。ぼくを中心に巻き起こる爆風が、波形の縞をなして放射状に展開。熱風が灰色のものどもを塵に変え、灰が雪片の様に乱舞する。紅海を分かつモーゼの如く灰色のものどもを怒りの熱で退けていく。
既に灰色のものどもは街を覆い尽くさんばかりに集っていた。それらひとつひとつが、殺してしまう、という言葉を虚ろに唱え続け、いつしかそれは天に轟く大合唱と化した。
だけどそれらの言葉は、虚しくぼくを通り抜け明後日の方角へ消える。目指すは君、ただそれだけ。
灰色のものどもを退けたぼくは、いよいよ彼女へ到達する。手を伸ばし、君の肩へ触れる。真紅の時を乗り越え、やっとの思いでたどり着いた君に。
振り向いて欲しい、ぼくを救えるのは君だけだ。君に会うためだけに力を振るった、多くのものを壊した。だから、もうこんな力は必要ない。君に、会えたんだから。
君の肩を引き、振り向かせる。長い時を経て埋まる隔絶。もう離さないと抱きしめる。
ああ、やっとたどり着いた。
君は────破砕した。
抱きしめた先から、君はガラスへと変貌する。膚は硬質な冷たい無機質へ。瞳は何も写すことなく時を止めた。
何故?
そう問う間もなく君は音を立てて崩れ去る。まるで砂の城の様に砕け、時の波にさらわれていく。
絶叫した。指の間を零れ落ちていく彼女の破片を取り返そうと必死に宙を掻くけど、それらは腰の高さまで迫った漆黒の波に飲み込まれて消えた。
気がつけばあたりは漆黒の海原《うなばら》と化しており、ぼくのいた都市もあの灰色のものどもも等しく波に飲み込まれていた。
ぼくはその世界の中心で慟哭する。
──《《殺してしまった》》。
ぼくの歩むところ全てに死は蒔かれる。いつしかそれは発芽し、この世界を喰らい尽くしてしまうのだ。それもこれも──
ぼくは今や熱を失い、ほんの僅かに赤熱する右手を見つめる。
この力のせいだ。これが全てを奪う。全てが遠く、霞み、消える。父も、母も、友も──君も。
全てがあの異次元への破孔に吸い込まれていく。
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