「ほれ。獲物を取ってきたぞ」
「いつもいつもありがとうごぜえます、前田様」
尾張国にある小さな農村で、老人に狩ってきた獣を渡す利家。
鳥やきつね、野うさぎなど様々な動物が籠に入っている。
老人は「これだけになります」と米や野菜を彼に渡した。どうやら獲物と交換するらしい。比率としては妥当なものであると傍目からも分かる。
「こっちこそ、いつもありがとうな。これでまつに美味しい飯を食わせてやれる」
「そっちの立派な猪は家に持って帰るんですか?」
渡した籠とは別に、利家の後ろには血抜きした猪が横に置かれていた。
利家は「ああ。精をつけてほしいからな」と胸を張って言う。
「この前、おふくろから味噌貰ったから、鍋でも作ろうと思っている」
「そうですか。それはよござんすねえ」
それから二三のやりとりを終えて、利家は村外れにある沢彦相恩の庵に戻った。
中から赤ん坊の声がする。思わず顔がにやける利家。
がらりと戸を開けて「今帰ったぞ!」と家に入った。
「お帰りなさい。利家」
早足で玄関にやってきたまつの腕の中には、小さな赤ん坊がいた。
利家とまつの娘、幸である。
まつの身体は幼く出産も危ぶまれたが、こうして母子ともに健康になれたのは望外の喜びだった。
「お、おい。大丈夫なのか、もう動いても?」
「何度も言っているではありませんか。私は元気ですって」
「まだ実家にいても良かったんだぞ? 親父だって引き止めてくれたじゃないか」
利家は気遣いのつもりで言ったのだが、まつは悲しげに「私と一緒にいたくないのですか?」と目を伏せて呟く。長身の利家からは角度的に見えなかったが、目が真っ黒に暗くなっていた。
「そうじゃない。お前と一緒に暮らしたいに決まっているじゃないか。でもな、お前の身体が心配なんだよ」
「……そうですか。てっきり私が邪魔になったのかと」
「ふざけんな。邪魔だと思ったことは一度も無い」
まつが利家の傍に居たがるのは、悪い虫がつかないようにするためだった。まつから見て利家は魅力的な男だったので、言いよる女がいると思ったからだ。
実際、利家は美男子だったが元かぶき者の浪人に言いよる女などあまりいない。
ましてや今は猟師のようなことをしていて、関わる女など皆無だった。
「それより猪取ってきたから飯にしようぜ。この前味噌貰ったからそれ使ってくれよ」
まつの胸中など分からない、鈍感な利家は猪を見せる。まつは「随分と立派ですね」と笑った。
「時間かかりますから、幸の面倒を見てください」
「おう。それと鉈は――」
「いつも準備しているので、大丈夫ですよ」
包丁では解体は難しいと思ったので、利家は鉈を用意しようと思って言ったが、まつは分かっていたように答えた。
何故『いつも準備』しているのか、利家は少し疑問に思ったが、幸を受け取ると一気ににやけた。
「幸は可愛いなあ。一緒に遊ぼうなあ」
「……利家。私と幸、どっちが好きなんですか?」
まつ自身、子供に嫉妬するのはお門違いだと思ったが、訊ねずにいられなかった。
ここで解答を間違えれば利家の身に危ういことが起こったが「まつは俺と幸、どっちが好きなんだ?」と問う。幸に夢中になっていて無意識に出た質問だった。
「……先に猪を運んでください」
「うん、あ、そうだな」
まつは再び幸を抱いた。
利家は本当にずるいなと思い、惚れた弱みよねとも思った。
しばらくして料理が出来上がった。血抜きの処理は終わっていたので、必要な分を切り取って鍋にする。残りの肉の解体はご飯を食べ終えてから利家がするらしい。
「美味い! おかわりくれ!」
「そんなにがっつかなくても、おかわりはありますから」
ぐつぐつと煮えた猪鍋から具をよそい、利家に手渡すまつ。
多めに作った鍋だったが、あともう少しで底が見えそうだ。
まつは「今後のことですけど」と話を振った。
「織田家に再仕官できそうですか?」
「ああ、実を言うと明日、柴田様がここに来る。何か話があるらしい」
「それはつまり……」
「想像のとおりだ」
まつはほっとして「それは良かったです」と頷いた。
「そろそろ銭が無くなりそうでしたから」
「無くなったら猟で稼いでやるよ」
「利家が強いことは分かってますけど心配です。もし熊にでも遭遇したら……」
「そしたら熊肉食べられるな」
のん気なのか豪快なのか分からない利家に思わず苦笑するまつ。
幸がぐずり始めたので、まつは自分の乳をあげようと着物をはだけた。
授乳している最中は、利家は何も話さない。気恥ずかしい気持ちが強かったからだ。
「御免! 前田様はいらっしゃいますか!」
玄関のほうから大きな声がした。
聞き覚えのある声だったので、利家は「俺が出る」とまつに言う。
「外で話すからゆっくりでいい」
「分かりました……幸、おくびなさい」
幸の背中をとんとんと叩くまつを置いて、利家は玄関に向かって戸を開けた。
そこには木下藤吉郎がいた。風の噂では小者頭から足軽組頭に出世したらしい。身なりが少しだけ綺麗になっている。
「ああ。藤吉郎。久しぶりだな。何かあったのか?」
「お久しぶりです、前田様」
「様なんて止してくれ。俺は浪人の身だ」
「いやいや、それはできませんよ。それより酒を持ってきました。良ければ」
酒瓶を利家に手渡す藤吉郎。あまり上物ではないが、その厚意は嬉しかったので「ありがとう」と礼を言う利家。
「今、まつが乳をあげているんだ。少し待ってくれ」
「いえ、長居するつもりはありません。手短にお話させてください」
「なんだ、話って」
藤吉郎は「それがしが小耳に挟んだところ」と話し出した。
「今川義元が尾張国を攻めにくるようです。近いうちに」
「……あの今川義元が?」
利家でも噂は聞いたことがある。
今川家は織田家よりも兵力があり、尾張国に野心を向けていると。
「今、殿と重臣の方々が策を練っているようですが、どうなるか……」
「ふむ。なるほどな」
「しかし、前田様が手柄を立てて復帰できる好機でもあります」
藤吉郎は利家のことを尊敬していた。
だからまた一緒に織田家で働きたいと思っていたし、そのためなら何でもすると心に決めていた。
好機という言葉を使ったのはそれが理由だった。
「前田様が今川家の敵将を討ち取れば、再仕官できるかもしれません」
「確かに、そう考えれば好機だな」
「でしょう? ですから――」
「しかし、どうやって戦に参加する? まさか勝手に出るわけにはいかないだろう?」
その言葉に藤吉郎は「そうですなあ」と同調した。
それに今の困窮した状態を見るに、具足や槍が用意できるとは思えない。
「それがしにもっと地位があれば、隊に紛れさせるのですが」
「気持ちだけ受け取っておこう。お前に迷惑はかけたくない」
「め、迷惑だなんてそんな!」
「……ありがとうな、藤吉郎」
利家はにっこりと笑って藤吉郎に感謝した。
「浪人の俺にここまで気遣ってくれて。嬉しいよ」
利家からすると、藤吉郎は自分に便宜を図っても意味はないと考えている。
しかし藤吉郎からして見れば、利家は尊敬している恩人である。
こうして会って元気付けるのは当然の行ないだった。
「水臭いことを言わんでください。それがしは好きでやっているのですから」
「それでは気が済まない。そうだな、何か俺にできることはないか?」
「うーん、実はそれがし、気になるおなごがいましてね」
「へえ。誰なんだ?」
藤吉郎は「杉原定利様の子女で、今は浅野長勝様の養女、ねね殿です」と答えた。
利家は「ああ、まつから聞いたことがある」と頷いた。
「口説くのを手伝えって言うのか?」
「いえ。もしも婚姻できたら、媒酌人を夫婦でお願いしたく……」
「なんだ。そこまで話が進んでいるのか」
「そういうわけではありませぬが、それを……」
「分かった。それまでに再仕官してみせる」
藤吉郎はにっこりと猿みたいに笑った。
「約束ですぞ!」
「ああ、約束だ!」
二人は固く両手を握り合った。
しかしこのとき、様子を見に来たまつにその場面を見られて、あらぬ誤解を受けることとなってしまった。
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