「君はどうやら間諜のような仕事をしているね」
「ような、ではなくそのものですね」
すっかり日が暮れた真夜中、村井貞勝の屋敷。
成政は村井の杯に酒を注いだ。とくとくと良い音を立てて満たされると、村井はゆっくり味わいながら一口だけ飲む。
「おや。てっきり否定すると思ったのだけれど。よく認めたね」
「あなたには嘘をついても意味がない」
「それは私を過剰に評価しているに過ぎない。騙されるときは騙されるさ」
「ならこう言い換えましょう。私はあなたに嘘をつきたくない」
成政は言い終えると、ゆっくりと酒を飲んだ。前世では味わえなかった酒。しかしいくら飲んでも酔うことはなかった。かなり強いのだろうと彼は考えていた。
村井は肴に手を付けて「どこの家に働きかけているのかは分からない」と呟いた。
「でもね、なるだけ危険なことはしないでくれ」
「……約束出来かねます」
「含むだけでいいよ。君は案外、熱い男だから」
ま、そういうところが気に入ったのだが、と村井は笑って言う。
成政は自分の役目を明かしたかったが、主命を下した信長から許しを得ていなかったので、何も言うことができなかった。
「織田家の置かれている現状は、最悪と言ってもいい。東は今川家、北は斉藤家。二つの勢力に攻め込まれそうになっている。知ってのとおり、尾張国は平地の国だ。非常に守りにくい地形をしている」
「ええ。ですから先手で攻めるしかありません。守りにくいのなら、攻めるしかない」
「私は吏僚だ。戦は得意ではない。だから君のような軍事に明るい若者に頑張ってもらいたいのだけど、それはただの希望に過ぎないのかな?」
成政は「村井様、私は――」と何かを言いかけて、結局何も言えないことに気づき、口を噤んだ。
彼がしていることは織田家を救うことだけど、同時に薄汚い仕事でもあった。他人の心の隙を突き、弱い部分をくすぐって操る。
「成政。今日はそんな暗い話がしたかったわけではないんだ」
「……はる殿の話ですか?」
「ああ。もうすぐここに来ることになっている」
「まことですか? 一体どうして?」
動揺と言うほどではないが、少しばかり驚いてしまった成政。
はる――成政の嫁となる女性だ――には何度も会っているが、未だに彼は慣れない。
前世では女性と付き合ったことがなく、それどころか母親以外の女性と接した記憶が小学校しかなかった。戦国の世に生まれたときも、その記憶のせいであまり関わって来なかった。
「はる殿が――」
「あ、成政様だ! お久しぶりです!」
成政が言いかけた瞬間、障子ががらりと開いて、水色の小袖を纏った女性が入ってくる。歳は十五か十六で、村井のように賢そうな顔つき。しかしどこか幼いところがある。成政から見ても美しいと思える美少女だ。その彼女は成政を見るなり近づいて隣に座った。
「は、はる殿。少し落ち着いて……」
「えへへ。成政様、照れているんですか?」
成政がはるを苦手――というより女性が苦手だ――なのに対して、はるは何故かそんな成政を気に入っている。すぐに顔を赤面させる成政が可愛いと思っているらしい。
「て、照れてなどいない! 私から離れてくれ!」
「嫌です! もうすぐ夫婦になるんですよ?」
成政の片腕に自分の身体を押し付けるはる。決して慎ましやかとは言えない大きな胸の感触で、成政の鼓動が高まっていく。
「ごほん。はる、父上たちは大事な話をしているんだ。少し待ちなさい」
「……はあい。分かりました」
「隣の部屋にいなさい。すぐに呼ぶから」
村井の言うことを聞いて、はるは渋々と成政から離れる。
彼女が部屋を出て行くと「はるのこと、嫌いじゃないよね?」と村井が聞いた。
「……嫌いではありません。些か強引なところがありますけど」
「奥手の君に似合っているよ」
「そんなことより、大事な話ってなんですか?」
姿勢を改めて成政は訊ねた。既に心臓の鼓動は正常に戻っている。
村井は目を細めて「今川家が軍備を整えている」と言う。
「関所を廃していたおかげで入った情報だよ。数年後、今川家は尾張国に進攻してくる」
「……流石、織田家随一の吏僚ですね。物の動きで察知できるとは」
「驚かないってことは、知っていたんだね」
村井の確信した声に成政は頷いた。
彼の薄汚い仕事に関係していることだったからだ。
「あまり無理しないでくれよ。君が死んだらはるが悲しむのだから」
「……承知しております」
釘を刺すためにはるをこの場に連れてきたのなら、村井貞勝という男は相当の食わせ者である。成政は言葉にしなかったものの、目の前の男への尊敬を新たにした。
◆◇◆◇
同時刻、柴田勝家の屋敷。
「――まったく、『槍の又左』の名が泣きますよ?」
「……兄い、それはそうなんだが、もっと言葉を包んでくれよ」
森可成の容赦ない言葉に、利家はひどく落ち込んでしまった。
既に四半刻ほど説教されているのだが、可成はまだ足りないようだった。
その様子を屋敷の主である柴田勝家は呆れながら見ていた。また利家に招待されてこの場にいる木下藤吉郎は「もう、その辺で良いではありませんか?」と仲裁に入った。
「誰にでも得手不得手がありますから……」
「……ま、これくらいにしておきましょう。でも最後にこれだけは言っておきますよ」
可成は利家の顔を穴が空くほど見つめて言う。
「一番つらいのは、利家ではなく、まつ殿なんですよ。それは重々肝に銘じておきなさい」
「……はい」
永遠に続くのではないかと思われるような説教の内容は、利家とまつの関係であった。本来ならば利家は相談するつもりはなかったのだが、柴田に夫婦生活は順調かと訊ねられて、正直に答えたところ、可成に説教されてしまったのだった。
「――皆様、飲みましょう! 柴田様、手が止まっておりますぞ!」
「うん? ああ、すまんな藤吉郎」
場がしらけないように藤吉郎が無理矢理盛り上げようとする。
利家は連れてきて良かったなと自分の杯を飲み干した。
可成は少し言い過ぎてしまったと思ったのか、それ以上何も言わなかった。
「しかし、前田様は流石ですな! 槍の又左と言われるほど御立派な活躍をなされて! それがしもあやかりたいですね!」
「まあな。可成の兄いと柴田様には負けるけど」
槍の又左とは利家の異名である。槍働きが比類なき者ということで名付けられたらしい。
利家は「御ふた方には敵わねえよ」と改めて言う。
「兄いは『攻めの三左』で柴田様は『鬼柴田』。格好いいなあ」
「利家。あなたは槍の又左は気に入っていないんですか?」
「気に入らないってわけじゃねえけどよ。もっと格好いいのが良かった」
前世では『龍』だとか『虎』だとか言われていたと覚えていた。
そんな彼に柴田が「そういうのは己ではなく、他人が決めるものだからな」と言った。
「誰が言い出したのかは分からんが、人は己がそうであると思ったものしか認めない。しかし言った人数が多ければ多いほど、認めなくとも認められてしまうのだ。それが世間と言うものだ」
「柴田殿らしくないですね」
「可成、うるさいわ」
茶々を入れた可成を笑って叱った柴田。彼もまた自分で言っていて似合わないと思ったのだろう。
「あー、要するに、民や世間は流されるものだ」
「なるほど。分かりやすいです」
「だからこそ、家族は大事にせんとな。唯一の味方だからな」
柴田にしては回りくどい言い方で、かなり気を使っているなと可成だけは分かった。
藤吉郎は酒を飲みつつ「とりあえず、添い寝ぐらいしてみればいかがですか?」と提案してきた。
「はあ!? 添い寝!?」
「ええ。手を握るだけでも、奥方は安心すると思いますが」
利家は「な、なるほど」といくらか納得できたようだった。
可成と柴田は顔を見合わせた。
「徐々に肌を合わせていけば、自ずと前田様もその気になれます」
「…………」
「焦らず、一歩ずつやっていきましょう。ささ、御一献!」
藤吉郎に薦められるまま、酒を煽る利家。
次第にその気になっていく。
「分かった! 帰ったらやってみる!」
「おお! その意気ですよ!」
可成は、藤吉郎のやつ、そうなるように仕向けていますねと思い、柴田は、あやつ口が上手いなと感心した。
しかし藤吉郎には悪意などなかった。日頃世話になっている利家の恩に報いるために乗せてあげようと思っただけだった。
利家は三人の考えなど分からず、酒を飲み続けた――
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