信長が美濃国の守護代、斉藤利政の娘を嫁に貰う。その知らせを犬千代と内蔵助が聞いたのは那古野城の部屋掃除をしていたときだった。教えたのは池田恒興で、以前より敵対していた斉藤家との同盟に犬千代は驚き、内蔵助は驚いたふりをした。
「この話をまとめたのは、平手様だそうだ」
「なるほど。あの人、なかなかやるじゃねえか」
恒興の補足に犬千代は偉そうに応じた。それに対して「あまり見くびるんじゃない」と内蔵助は壺を磨きながら言う。
「あの人は織田家家老であり、外交上手な吏僚だ。お前ごときに計れるお方ではない」
「……てめえはいちいち人を馬鹿にしねえと喋れないのか?」
犬千代と内蔵助が睨みあう中、恒興は「一つ気がかりなことがある」と不安そうに言う。二人は再び、恒興の話に耳を傾けた。
「利政の息子、高政がこの婚姻に反対しているのだ」
「なんでだ? 同盟を結べば余計な争いしなくていいじゃねえか」
犬千代の単純明快な考えに「それは織田家側の理屈だ」と内蔵助は壺を飾る。犬千代は恒興が来る前からさぼっていた。後でこっそり信長に報告しようと内蔵助は心に決めている。
「四方に敵がいる織田家と違って、斉藤家は派閥があるが外に主だった敵はいない」
「派閥? 外に敵はいない? どういう意味だ」
「斉藤利政は息子の高政と仲が悪い。だから今、親子の間で派閥ができているのだ」
犬千代は「親子同士で争ってんのか……」となんとも言えない表情をした。内蔵助は「だから、利政は織田家を味方に付けて息子と対抗しようとしている」と言う。
「親父の力が増すのを嫌がって、息子は反対しているんだな?」
「簡単に言えばそうだ」
「よく分からねえけど、仲良くやりゃあいいじゃねえか」
犬千代が元服していない子供のくせに、大人ぶったことを言うものだから、つい恒興は吹き出してしまった。犬千代は怪訝な顔で訊ねる。
「な、なんだ恒興殿。俺、変なこと言ったか?」
「ふふふ。ならお前は内蔵助と仲良くできるのか?」
犬千代と内蔵助は互いの顔を見合った。初めは不思議そうな顔をしていたが、すぐに睨みあう形になり、そして答えた。
「できるわけねえよ!」
「絶対したくはない!」
「……違う意味で気が合うんだな」
このとき、内蔵助は語らなかったが、輿入れする利政の娘の帰蝶は高政とは腹違いの兄妹である。また高政にはある噂があった。いや、噂というより醜聞と言うべきだろう。
それは斉藤高政の実の父は利政ではなく、土岐頼芸であるという噂であった。
◆◇◆◇
「若。今日が輿入れの日ですね」
「……ああ、そうだな」
珍しく那古野城の一室に篭もって孫子の兵法書を読む憂鬱げな信長に、空気を一切読まずにいつも通りに声をかけた犬千代。信長は兵法書を閉じて大の字になった。
「この俺が嫁を貰うか。少し早い気もする」
「そんなことないっすよ。普通です普通」
「で、あるか。しかし、あまり落ち着かないものだ……」
犬千代は内心、ははーん、これが結婚する前は憂鬱になるってやつだなと思った。だから「今から気にしても仕方ないですよ」と馬鹿みたいに明るい顔で言う。
「するって決まったもんに怯えたり悩んだりするのは、馬鹿馬鹿しいですよ」
「それは分かるが、相手は美濃のまむしの娘だ。この俺を殺すようにと父親に命じられているかもしれん」
犬千代は首を傾げながら「どうして若を殺すんですか?」と訊ねた。信長は「それは……」と言葉に窮した。
「若ってうつけのふりしているじゃないですか。だから危ないと思ったら殺せとか命じられない気もします」
「逆にうつけだったら殺せと言われたら?」
「そしたら……うつけのふりをやめるしかないんじゃないっすか?」
あまりに大雑把な物言いに信長は唖然として、それから大笑いした。
「あっはっはっは! お前は本当に単純な男だな! 褒めて使わす!」
「あん? えーと、ありがとうございます?」
なんで褒められたのか分からない犬千代だったが、とりあえずは信長の悩みが晴れた様子なので良しとした。
「まあ実際に会わんと――」
信長が言いかけたときだった。部屋の外から「申し上げます!」とかなり緊迫した声がした。毛利新介だと二人は気づき「何があった?」と信長は応じた。
「帰蝶様が何者かに襲撃されたのこと!」
「な、なに!? それは本当か!」
信長は焦った様子で立ち上がり、急いで外へと出た。犬千代は何がなんだか分からぬまま、同じく外に出る。新介は「まことにございます!」と早口で報告を続けた。
「今護衛の者が重傷を負って那古野城に到着しました! その者は野武士に襲われたと!」
「それで、その者は今どこにいる!」
「残念ながら、そう言い残して息を引き取りました!」
信長は顎に手を置き、しばしうろついて「小姓共を集めろ!」と新介に命じた。
「全員、武具を持て! 野武士に襲われた帰蝶を助けるぞ!」
「ははっ! かしこまりました!」
新介は走って小姓たちを呼びに行く。犬千代は「俺たちで野武士と戦うんですか?」と信長に問う。
「無謀だと思うか?」
「いいや。それでこそ、若ですよ」
犬千代は犬歯を剥きだして笑った。
「嫁入り前とはいえ、自分の女を襲われて何もしないのは、男じゃねえ」
「――そうだな!」
信長は大笑いして「具足を着せろ、犬千代!」と命じた。
「はは、かしこまりました!」
このとき、犬千代は気づいていなかった。
自分が今から行くところが、人同士が殺し合う戦場であるということを。
◆◇◆◇
信長の率いる小姓の集団が、尾張国と美濃国の境近くの山道に到着すると、坂の下で護衛の兵と野武士が戦っているのが見えた。しかし素人目から見ても多勢に無勢で護衛のほうが不利だと分かる。さらに小姓たちは鍛えているとはいえ、ほとんどが初陣を済ませていない。
「若様。このまま乱入しますか?」
緊張した面持ちの内蔵助が努めて静かに訊ねる。信長は「是非もなし」と呟いた。もしも戦の経験を重ねた武将であれば躊躇してしまう状況だった。しかし血気盛んな若者である信長は構うことなく号令をかけた。
「野武士共から帰蝶を助けよ!」
小姓たちは各々が出せる大声をあげながら、野武士に向かって突撃した。
驚いたのは野武士である。織田家の軍勢が来るのが早すぎると誰もが感じた。中には早々に逃げ出す者もいた。
「焦るな! 相手は小勢だ!」
野武士の頭のような男が檄を飛ばした。そのせいで逃げ出さずに踏み止まる者が小姓たちと応戦する。
犬千代は初めての戦いに興奮していた。否、周りが見えていなかった。
だから、目の前で刀を構える野武士に容赦なく槍を向けられた。
「なんだ、ガキじゃねえか!」
余裕な台詞だが声が震えていた。犬千代は目の前の大人が怯えていることなど分からず「勝負しろオラ!」と槍を振り回した。
「前田犬千代、推して参る!」
口上を述べながら犬千代は槍を目の前の男に向かって突く。
まるで時がゆっくりと進む感覚。犬千代の槍先が男の腹に吸い込まれていく。
「ぐはっ!?」
男の口から大量の血が吹き出た。犬千代は乱雑に槍を引き抜き「どうだぁ!」と勝ち誇った。自分が何をしたのか、理解できていない様子だった。
「野武士め! お前らなんか――」
死んで当然だと言おうとして、息を飲む。犬千代が刺した男は腹を押さえながら、身体全身を震わせた。
「い、いやだ……死にたく――」
「――っ!?」
男はゆっくりと犬千代へと歩んで、数歩の距離まで近づいた後、そのまま倒れてしまった。
犬千代は、ようやく、自分が何をしたのか理解した。
「お、おい……し、死んだのか……?」
犬千代は槍を投げ捨てて、野武士の男に駆け寄って、抱きかかえた。
虚ろな目。生気の感じられない顔。既に亡くなっている。
「お、俺が、俺が――」
「うおおおお!」
殺した実感を思う間もなく、後ろから雄叫びが聞こえる。
振り返ると目の前に刀を振り回す野武士。
迫る刃に、犬千代は呆然として――
読み終わったら、ポイントを付けましょう!