成政が謹慎を命じられている間、松平家に大きな危機が迫りつつあった。にわかに西三河の一向宗が叛き始めたのだ。元々、従っていないのだから叛くという言葉は適していないが、三河国の主として民に信頼されている松平家康に対して敵意を向けているので、世間ではそうした認識だった。
西三河の一向宗は本證寺、勝鬘寺、上宮寺の『三河三ヶ寺』と呼ばれる三河国で強い勢力を持つ宗教団体である。そこに松平家と敵対している武家が加わりつつあると、佐々家家臣の大蔵長安から報告が成政に来ていた。いつの間にか長安は三河国の事情に精通していた。
早めに手を打ったほうがいいと成政は考えていたが、謹慎の身ではどうすることもできない。また、それよりも彼には重要かつ優先すべき事柄があった。松平家の存亡に関わる戦に発展しようとしている情勢の中、成政が心を配ったのは――
「はる。今日の身体の調子はどうだ?」
「悪阻はあまりありません。お前さまのおかげですよ」
成政の妻、はるはもうすぐ臨月を迎えようとしていた。大きくなった腹を愛おしく撫でつつ、成政の気遣いに感謝していた。
成政のほうもはるに無理をさせないようにしていた。日常の雑事はもちろん、佐々家の用件は全て、長安や他の家臣に任せている。しかし、成政の食事だけは自分で作ると言って聞かないはる。成政は仕方なく、夕食だけ作ることを許可した。
「しかし、お前さまが悪阻の抑え方を知っていたとは思いませんでした」
そう言いつつ、彼女は成政が用意した自分のための料理を口に運ぶ。
未来知識で、悪阻のときは量を少なくして、時間を置いてさっぱりしたものを食べさせることで、無理させずに済むことを知っていた。またはるのために自ら料理を作っている。もし利家がその姿を見たら驚きのあまり口を大きく開けすぎて顎を外すことだろう。
「知り合いの医師から聞いていた。それに産婆からもな」
「そうですか。私にはまるで経験があるように思えました」
「それは気のせいだ。私も妻の妊娠は初めてで、上手く対処できているか不安だ」
自分の妻にも自分に前世の記憶があるとは告げていない成政。
だから少々誤魔化すようなことを言ってしまったが、根が単純なはるは気づかない。
「……ありがとうございます」
「なんで礼を言う?」
「私のために、調べたり、料理を作ってくださったり。感謝しかありませんよ」
はるが少し涙を浮かべて、そんなことを言うものだから「戯けたことを言うな!」と素っ頓狂な声を出してしまう成政。
「つらいのは子を産むお前だろう! 私のしていることは何でもないことだ!」
「お前さま……」
「……苦しかったらすぐに言え。私にできることは何でもするから」
気恥ずかしくなったのか、はるの食べ終えた御膳を持ってその場から去ってしまう。
一人残されたはるは胸に手を置いて成政の優しさを感じ入る。
「お前さまの妻になれて、はるは幸せ者ですよ。絶対に元気な子を産みますね」
◆◇◆◇
成政がはるの体調を慮って、侍女たちに様々な指示を出し終えた頃、彼の屋敷を訪れた者がいた。
「佐々様。ご無沙汰しております」
「うん? ああ、榊原殿か」
本多忠勝と同世代の若武者、榊原康政がちょっととした手土産――饅頭だ――を携えてやってきた。彼は忠勝と同じくらい、仕事の合間を縫って成政に会いに来ていた。
「最近、美味しいと評判の店から買ったものです。良ければ」
「それはありがたい。すぐに茶でも淹れさせよう」
部屋に通した成政は、康政に松平家の様子を訊ねた。饅頭を食べながら彼は「別段、変わったことはありません」と答えた。
「例の一向宗の問題以外は」
「いよいよ本格的に動き出す、か……」
「正直言えば、佐々様がいてくれたらと思います。他の家老様では……」
「私がいても良い案が生まれるとは思えないけど」
「一応、俺の家も仏を敬っていますが、それほど熱心ではありません。しかしどうして皆信仰するのでしょうか?」
成政も前世で疑問に思ったことがあり、一度調べたことがある。自殺する半年前だった。
「信じる者は救われると言うが、実のところ宗教の利点はどんな者にも道徳を教えられることだ」
「道徳、ですか?」
「人を殺してはいけない。人の物を盗んではいけない。そんな当たり前のことを説いてくれるんだ。分かりやすくね」
「民の教化に役立つから……でもそれだけで大名家は庇護するんですか?」
「それ以外にも寺があれば人が集まる。人が集まれば市ができて商売が成り立つ。それがやがて町となり、大名家の税収へとつながるんだ」
康政はなるほどとため息をついた。先ほど宗教は分かりやすく道徳を説くと言っていたが、成政の話のほうが物凄く分かりやすかった。
同時に織田家でかなり勉強してきたのだと康政は考えた。武芸だけではなく学問にも秀でていて、物事を分かりやすく教えるのは並大抵の努力で成し遂げるものではない。
実際は武芸以外、未来知識の比重が大きい。それと分かりやすく説明するのに慣れているのは、彼の悪友である利家の疑問に皮肉交じりで答えていたからだった。
「殿は三河国の統一を目指しています。だとしたら反乱分子の三河三ヶ寺を一掃する必要がありますよね?」
「そうだろうな。しかし戦えば苦戦を強いられることになる。家中にも信者が大勢いるから」
「佐々様ならどうなさいますか?」
成政は茶を啜った後「きれいさっぱり滅ぼすしかない」と至極苛烈なことを言ってのけた。康政は「やはり、そうですか」と頷いた。彼もまた戦国に生きる者だった。
「別に松平家の菩提寺というわけでもない。門徒以外から文句が出ることはない」
「佐々様のお考えは分かりました。しかし手段が分からない。家中の門徒が裏切るかもしれない状況で攻めるのは……」
康政が憂いているのはそこである。
味方か敵か分からない状況。
そして味方だった者と戦わなければならない苦痛。
「戦わなくて済む方法なら、あるかもしれない」
成政の呟きに康政ははっとした。
顔を覗き込むと険しく腕組みをしていた。
「相当難しいが、やってみる価値はある。そのためにいろいろと調べているんだが」
「それはまことですか?」
「榊原殿に嘘はつかん」
成政は「謹慎が明けるのは三日後だ」と告げた。
「そのとき、殿に進言するつもりだ。それまでは言えない」
「……分かりました。聞かないようにします。しかし佐々様」
康政はごくりと唾を飲み込んでから、静かに問う。
「信じても、良いのですね?」
成政は笑った。
康政にはそれがとても悪そうに見えた。
「ああ。信じてほしい。上手く行きさえすれば、私たちの犠牲など無くなる」
◆◇◆◇
三日後。謹慎が解けた成政は岡崎城に登城する。
康政の言ったとおり、城内の空気は悪かった。疑心暗鬼とまでは言わないが、そうなるのには時間はかからないだろう。
家康にお目通りが叶うと、成政はさっそく主君に進言した。
「一向宗のことを一挙に解決する方法があります」
「なんだと? いや、いくらそなたでも……快刀乱麻を断つような方法が思いついたのか?」
半信半疑なのは、家康自身が宗教の怖さを思い知ったからだった。
忠義の塊とさえ言われる三河武士が自分か一向宗か揺れ動いている。人間不信になりかけていたところに、楽観的な考えを言われても、全て信じることができなかった。
「ええ。忍び衆を使えば。それと殿に協力してもらいたいことがあります」
「協力? なんだ、言ってみよ」
成政は「家臣一同に言ってもらいたいのです」と言う。
「自分を取るか、教えを取るか」
「……家臣が教えを取ったらいかがする?」
「別に一向宗と敵対宣言するわけではありません。ただ聞くだけです。そしてその場で『去りたい者は去れ』と言ってほしいのです」
家康は眉をひそめたが「そなたは一体何を考えている?」と理由を訊ねた。
成政は「私に十日ほど時間をください」と言う。
「十日後に、家臣一同を集めてもらえれば。そのとき良い報告ができますよ」
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