「高政が、舅殿に兵を挙げただと……?」
身も凍るような寒い日だった。
その知らせを聞いた信長は瞬時に斉藤道三と自分が危ういと悟った。
もし高政が勝てば道三と誼を通じていた自分と手切れとなる。
さらに高政が信安と信賢、そして敵対している弟の信行と手を結ばれてしまえば――
「殿、いかがなさいますか?」
緊迫した空気、ずらりと並んだ家臣たちの中で真っ先に発言したのは、丹羽長秀だった。
筆頭家老の佐久間信盛、武勇を誇る森可成、信長の乳兄弟の池田恒興は固唾を飲んで信長の発言を待つ。
利家と成政も末席で話を聞いていた。
利家は全て理解していないが、非常事態なのは分かっていた。
成政はとうとうこのときが来たかと覚悟を決めていた。
「……舅殿と高政の軍勢は、どのくらいの差がある?」
信長は答えを示す前に、状況を確認した。
長秀は「道三殿の軍勢は三千」と素早く言う。
「高政の軍勢は――およそ二万」
どよめく評定の間。
いくら当主が高政とはいえ、ここまで差があるとは……
「舅殿からの援軍要請は?」
「未だ来ておりません。まだ戦が始まっていないということもありますが」
信長は険しい顔のまま「どうして援軍を頼まないのだ」と押し殺した声で言う。
「数の差で劣ると分かっているだろう……!」
「そ、それは……」
「いつかの援軍の借りを返させないつもりか! それとも死ぬつもりなのか!」
上座の信長が床を思い切り叩く。
一同が何も言わない中、可成が「道三殿は死ぬつもりなのでしょう」と静かに言った。
「きっと、殿に迷惑をかけぬように、高政に一人で挑むおつもりなのでしょう」
「馬鹿な! 俺は迷惑など思っておらん!」
信長は家臣一同に言い含めるように言う。
「良いか? 舅殿と高政の戦が始まったら、援軍に向かう! 異存のある者は前に出よ!」
誰も出ないと思われた。
無論、道三を救うために援軍を出す意味は、皆重々分かっていた。
しかしそれでも信長が行なうことは信義によるものだった。
利益や打算よりも信義や信条を重んじる風潮がどこかにあった。
だからこそ、敵に自分の大事なものを託すという美談も生まれた。
しかし――
「畏れながら殿。私は反対でございます」
異議を申し立てたのは――成政だった。
思わぬ者からの反論に信長は息を飲んだ。
「理由を言え」
短く問いを発したのは、内心の怒りを出さぬためだった。
成政が内蔵助と名乗っていた頃からの付き合いである。主従の関係とはいえ、そこには情があった。
「戦が始まってから援軍を出す――それでは到底間に合いませぬ」
「…………」
「戦力差は圧倒的。半日も持たずに道三様は負けてしまうでしょう。そうなってしまえば、信安と弟君が隙を狙って清洲城に進撃してきます」
つまり、無駄だから援軍を出すなと暗に言っているのだった。
それに信長は青筋を立てて「舅殿を見捨てよと、お前は言っているのか?」と問う。
「今まで俺を助けてくれた舅殿を、見殺しにしろというのか!」
「…………」
「そのようなことはできぬ!」
激しい怒りを真っ向から浴びても、成政は動揺せず言葉を続ける。
「道三様は援軍を待たずに、攻撃を仕掛けるでしょう。それはひとえに、殿を戦に巻き込まないためです」
「それが愚かだと言っておるのだ!」
「いえ、それは道三様の優しさでしょう。そして意地でもあります」
成政は信長から目を逸らさずに諫言した。
その目に少しだけ信長は怯む。
平手政秀を思い出したからだ。
「尾張国を統一せんとする殿の邪魔をしたくないという優しさ。そして自身の手で決着を着けたいという意地。殿は分かっておいででしょう?」
「…………」
「ですから、戦が始まった後に出陣するのは反対です」
信長は歯軋りしながら「……お前の言っていることはもっともだ」と嫌々ながら認めた。
「舅殿がそう思うのは道理である。だが俺は、舅殿を死なせたくない!」
「……それは分かっています」
「ならば、何故反対する!」
成政は――いや、彼だけではなく、全員が気づいた。
信長の目から、涙が流れていることに。
「……私は、道三様を見殺しにするつもりはありませんよ」
水を打ったように静まり返った評定の間。
そこに小石を投じて波紋を広げるように、成政は言った。
「……どういう意味だ? 今更考え直したと言うのか?」
「戦が始まったときに、援軍を出すのは反対です。それは変わりません」
「であるならば――」
信長が怒鳴ろうとして止まる。
皆が何事かと信長を見る。
「……そうか。そういうことか」
信長は喉奥でくっくっくと鳴らす。
そして、弾かれたように笑い出した。
「あっはっはっは! 成政、お前は本当に回りくどい言い方をするなあ!」
「……そういう性分ですので」
「この大馬鹿者めが! 素直に言え!」
まるで痛快な物語を読んだみたいに、信長の表情は晴れ晴れとしていた。
そして皆に宣言した。
「舅殿は死なせぬ! 俺は援軍を出すぞ!」
「殿? それは――」
「今から出陣する! そして舅殿の軍と合流し、尾張国へ逃がす!」
その言葉に家臣たちは度肝を抜かれた。
道三を助けて高政と戦うのではなく、ただ道三を救うために出陣する。
それではまったくこちらの利がない。
「良いのですか? それでは美濃国は――」
「敵に回るだろうな。しかし、それでも構わん。尾張国を統一したら次の目標を美濃国にすれば良いだけの話」
信盛は一応反論したものの、もはや信長を止められないと分かり、やれやれという顔になる。
「仕方ありませぬな。皆の者、戦の準備を」
「……佐久間様、よろしいのですか?」
「殿の仰せだ。逆らうなどできぬよ」
恒興は不安そうに言ったが、信盛が賛同したので従うしかなかった。
「出陣だ! 舅殿の城、大桑城へ向かうぞ!」
そうと決まれば動きは早かった。
このときには馬廻り衆を筆頭に、すぐに出陣できる軍勢が揃っていた。
「成政。お前……何を企んでやがる?」
評定の間を出て、戦準備に出かけようとした成政の背に投げかけられた問い。
成政は振り返ることなく、その者に答えた。
「何も企んでいないぞ――利家」
疑問を言った者――利家は「てめえはいつもそうだな」と言う。
「平手様が亡くなったときも、事前に調べていた」
「…………」
「まるで前もって分かっていたようにな」
成政は振り返って利家を見た。
自然と睨みあう形になる。
「お前には関係ないだろう」
「あるね。お前が殿に何か吹き込んで、もし何かあったら――」
利家はそれ以上言葉にしなかった。
そのまま、くるりと背を向けて行ってしまった。
「……もし何かあったら、お前は私をどうするつもりなんだ?」
そう呟いた声に少しの寂しさが混じっていたのは、成政も自覚していた。
◆◇◆◇
美濃国、大桑城。
信長が軍勢を率いてやってきたという知らせを聞いて、応対したのは年若い小姓だった。
「猪子兵助と申します。こたびは軍勢を率いてくださりありがとうございます」
「うむ。舅殿はどこにいる?」
信長は一刻も早く道三を連れて尾張国へ帰還したかった。
弟の信行が兵を挙げようとしていると知らせが入ったからだ。
「……我が殿とお会いになられますか?」
「当たり前だ。案内せよ」
「はい。こちらです」
猪子が信長を城内へと招く。
その後に続いて、護衛の利家と成政、可成ら数名が続く。
「殿。織田様がご来着なさいました」
障子越しに猪子がそう言ったが、返事がない。
怪訝な表情になる信長。
「失礼します」
猪子は慣れた様子で、障子を開けた。
そこにいたのは――
「うん? 誰だ? 孫四郎か? それとも喜平次か?」
焦点の定まっていない胡乱な目。
だらしない姿勢。
そしてしまりのない笑み。
「舅殿……?」
「なんだ。お前は。孫四郎ではないな」
あまりのことに衝撃を受ける信長。
その後ろにいた利家と成政も言葉にならない。
「そうだ。わし、良いこと思いついた。油売って金を稼ぐんだ!」
へらへら笑っている斉藤道三。
誰がどう見ても、呆けていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!