「――貴殿を若様に会わせることはできぬ」
飯富の口から出たのは拒絶の言葉。
成政は「理由を聞いてもよろしいですか?」と静かに訊ねた。
悔しさを滲ませたつもりは無かった。しかし飯富には分かるだろうと成政は確信した。
「いろいろと理由はあるが、一番は――貴殿が本心を語っていないからだ」
「本心、ですか。私は義信様を思って――」
「貴殿の言うとおりにすれば、義信様が死なないかもしれない。しかしだ、それを行なうことで、松平家に何の利があるのか。未だに語っていないぞ」
意図的に隠していたのを、すんなりと見破る飯富虎昌。
猛将や知将が大勢いる中で、家老になった男だ。決して舐めていたわけではないが、油断していたのかもしれない。
「……それは失念していましたね」
「さらに言えば若様に直接会わずとも、方策は私を通じて伝えられる。もし本心から助けたいと思うのなら、それで済んだはずだ」
「直に会って話したほうが確実に伝わるとは考えませんか?」
「貴殿は言葉で人を操ろうとしている。それに未来など分からぬはずなのに、確実にそうなると決めつけて話す――信用できない」
飯富は成政を誇大妄想狂だと思っているようだ。
未来の知識を持っているとは思わない――思えないのだろう。
しかし人を操ろうとしているというのは、成政の心に突き刺さる指摘だった。
「私は人を操ろうなどと思っておりません」
「だが勝手に道筋を作ろうとしているだろう? ならばこうも言えるな。貴殿は――道を惑わせる地獄への案内人だ」
成政は肩を竦めて「少し過剰な言い方ではないですか?」と虚勢を張った。
飯富は疑わしそうな目を向けつつ「とにかくお引き取りを」と促した。
「こうして今、松平家の者と会っているだけでも、私や若様のためにならない」
「酷い言いようですが、事実なので引き下がりましょう」
成政は立ち上がって――少し動きを止めた。
違和感を覚えたのだ。
「何か――」
「いかがなされた?」
「……いえ、何でもございません」
けれど違和感は一瞬で消えたので、気のせいだったと思った。
成政は「良い勉強をさせてもらいましたよ」と飯富に言う。
「今回は準備不足でした。次の機会があれば――」
「それはない。貴殿と話すことはない」
「……松平家家老、佐々成政の名を覚えておいてください」
成政は飯富に同情を覚えた。
愚直に主君のために忠義を尽くし、必死に若君のために助命を乞う。
自分が恥ずかしくなるような潔い生き方だけど、結果は滅びへの道である。
「先ほど、あなたは私のことを、道を惑わせる地獄の案内人と言いましたね」
「…………」
「けれど、義信様の道を惑わせることで、生きられるのなら、あなたはどうしますか?」
「地獄で生きろと?」
「極楽に沈むよりマシです。今を生きることほど……いや、それは人それぞれですね」
成政は一礼して今度こそ部屋から退出する。
交渉は失敗に終わったけど、無意味ではなかった。
飯富虎昌という稀代の武将を惑わせることができたのだから。
◆◇◆◇
それからしばらく、成政は甲斐国の城下町を歩いた。
目抜き通りの商品が上等ではない。尾張国の清州の町ならば二束三文も良いところだ。
それが高値で取引されている。おそらく甲斐国では物が十分に出回っていないようだ。
長年、信長の傍に仕えていた成政は、銭を多く集めて上手く使った者が、戦に勝つと分かっていた。いくら兵が強くても、いくら将が戦上手でも、それを維持できる能力――経済力が無ければ意味がない。
成政が工場を優先的に作ったのは、岡崎の地を豊かにすることだった。
いずれ遠江国へ進出するのだから、後方支援に特化した土地にするのが効率的だ。
しかし、先ほどの飯富との会話を思い出すと、寂しい気持ちになる。
工場を作ることも、人の道を惑わすことになるとしたら――
「長安! いい加減にしろ!」
「ひいい!? やめてくださいよ!」
つらつらと考えていたら、辺りは武家屋敷に囲まれている区画に来ていた。
屋敷の門の前で、一人の男が数人に詰め寄られている。
成政は物陰に隠れて様子を窺った。
「殿にどう取り入ったのか分からねえが、武家働きもできねえ屑野郎が偉そうにすんな!」
「そ、そんな……あっしは真面目に仕事を……」
「へらへら笑うそのにやけ顔も気に食わねえ!」
そのうち一人の男が顔面を殴る。
それを皮切りに倒れた男を踏みつけ、蹴り続ける。
これはやりすぎだなと思った成政は「やめないか。一人相手に寄ってたかって」と止めに入った。
「なんだてめえは!」
「どこのもんだゴラァア!」
利家を思い出す物言いだったが、こいつらより迫力はあったなと成政は懐かしんだ。
「武田家嫡男、武田義信様の客人だ。飯富虎昌殿に招かれて滞在している」
はったりだったが、男たちには十分効いたらしい。顔を見合わせて立ち去っていく。
「長安。二度と来るなよ。もし来たら今度は殺すぞ」
男たちの一人が吐き捨てた。
成政は門に書かれた表札を見る――土屋と書かれていた。
「……へへへ。助かりました、旦那」
倒れていた男はゆっくりと立ち上がる――ぐらりと身体が揺れる。
成政は支えて「しっかりしろ」と言った。酷くやられていた。
「こいつはみっともねえ……」
「とりあえず怪我の手当てをしないとな。私が泊まっている旅籠へ行こう」
肩を貸して長安という男と共に歩く成政。
その後ろをつけている者の気配を感じながら――
◆◇◆◇
「怪我の手当てをしてもらった上に、飯までごちそうしてくれるなんて、旦那には頭が上がりませんねえ」
体格はさほどではなかったが、二人前の飯――成政の分も含んでいる――を平らげた長安。
成政は「一体何があったんだ?」と優しく聞いた。普通なら見て見ぬふりをするのだが、飯富に言われたことが感傷的にさせていたのだ。
「へへへ。実はあっし、やりすぎてしまいましてね。他の人から嫉妬されちまったんです」
「ああ。仕事が他の者よりできるからか」
「今のでよく分かりますね。見た目通り賢いお方ですな」
馬鹿にしているのかどうかも分からない話し方も、暴力を受ける理由の一つだろうなと成政は思った。
「えー、確かながやすと呼ばれていたな」
「ええ。長所の長に安心の安で長安って言います」
「……まさかな」
顎に手を置いて考え込む成政。
長安は不思議に思って「どうかしました?」と訊ねる。
「もしかして、猿楽師をやっていたことあるか?」
「……何で知っているんですか? 正確に言えば、親父と一緒にやっていたんですけど」
「なんだと!? ……そうか。そうだったのか」
成政は考える。目の前のなよなよした、にやけ面の小男が、天下の総代官と呼ばれる大久保長安だったのか。
だとしたらこの者を引き入れることは松平家にとって悪いことではない。
「長安殿。もし行くあてがなければ、私に仕えてみないか? もちろん禄は出す」
「はあ。それはありがたい話ですが。あなた様は何者ですか?」
成政は「その話は甲斐国を出てからにしよう」と刀を手に取った。
そして呆然とする長安に言う。
「相当、嫌われたようだな。外に先ほどの男たちがいる」
「本当ですかい? どうしたら……」
「私が何とかする。だから家臣になってくれ」
長安は「もし断ったら?」とこの状況で訊ねた。
案外豪胆だなと成政は思った。
「あいつらに引き渡す」
「……それでは選択の余地ないじゃないですか」
「だが、今家臣になると誓ったら助けてやろう」
長安はしばらく黙って「分かりましたよ!」と喚いた。
「あなた様の家臣になります! これでいいんでしょ!」
「よく決断してくれたな。では出立しよう」
成政は女将に銭を多く支払った。
きょとんとする女将に「傷薬と包帯代だ」と付け加えた。
「それと表が汚れることになる。その詫び賃だ」
成政が外に出ると五人の男たちが「あんた、若様の客人じゃねえな?」と開口一番に言った。
「一応確認取ったが、違うってよ」
「……まあそうだろう」
「騙しやがって! 覚悟はできているんだろうな!」
五人は殺気立っていた。
しかし成政は「あまりできるほうではないみたいだな」と静かに言った。
「てめえ、何言って――」
言い終わる前に成政は刀を抜いて――近くにいた男を袈裟切りにした。
血しぶきを流して倒れる男――絶命していた。
「お、お前何を!」
「殺す気ならさっさと刀を抜け」
続けて足がすくんだ男の腹を刺して、素早く抜く。
八双の構えのまま、残り三人となった男たちの出方を待つ。
「どうした? 三対一だぞ?」
ここでようやく、自分たちがとんでもない思い違いをしていたことに気づく。
成政がはったりをかましたのは、己の身を守るためではない。
武家屋敷が多いあそこで、騒動を起こしたくなかっただけだったのだ。
「く、くそ! 退くぞ!」
三人の男たちは一目散に逃げだした。
懐紙で刀の血を拭った成政は、長安に「もういいぞ」と告げた。
血の気が引いている長安は「へ、へへ……お強いんですね……」と呟く。
「約束は守ったぞ」
刀を納めた成政は、顔が引きつっている長安に言う。
「お前も約束、守ってくれるよな? 長安――」
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