翌日、まつと幸が所用で利家の実家に戻っているときに、柴田勝家が訪れた。
居間で向き合って座ると、酷く暗い顔で「織田家に勝ち目があるのか分からん」と挨拶もそこそこに弱音を吐く。
利家は「何を馬鹿なこと言っているんですか」と困惑しつつ否定した。猛将である柴田が戦う前にそんなことを言うとは思わなかったからだ。
「兵力差が圧倒的だ。二万五千の軍勢に、ただでさえ弱兵と侮られている尾張国の兵が敵うわけがない」
「……そりゃあ俺だって難しいと思いますよ」
「わしは一応、指揮官だからな。戦わずとも分かってしまう」
利家は「兵の士気も低いですか?」と話題に合わせた質問をした。本当は織田家に戻る方法を話し合うつもりだったけど、そんな空気ではないことをなんとなく察した。
柴田は「高いとは言えないな」と酷く曖昧な言葉で濁した。
「わしが言えることは一つ。利家、織田家への仕官は諦めろ。今のうちに他国へ逃げてしまえ」
「……本気で言っているんですか?」
少し苛立ってしまったのは、尊敬している柴田から、そのような軟弱で情けないことを言われたからだ。憧れている柴田なら、たとえ自分一人になっても戦うと宣言してくれると期待していた。
柴田は首を横に振って「すまん。つまらぬことを言った」と謝罪した。
「どうやら、わしは以前より弱くなってしまった」
「……信勝様が原因ですか?」
「あの方が亡くなって以来、大事な者の死が恐ろしくなってしまった」
柴田の表情は戦場のときと違って威厳が無く、くたびれた中年のような顔をしていた。
それでいて大切な玩具を失くした子供のような寂寥感を思わせる。
利家は同情こそするが、上に立つ人間が弱気だと下の者が困ると思った。
「柴田様……俺だって平手様が亡くなったときは淋しくて仕方なかったですよ。これ以上誰も死なせたくないって思いました。今だって、まつと幸を守りたいし、ずっと一緒に居たいと思います」
「…………」
「以前、柴田様は守りたい者がいると強くなれるとおっしゃっていました。それがようやく分かってきましたよ――」
そこまで言葉を続けた後、利家ははたと気づいた。
今の柴田には守りたい者がいないということに。
その証拠に柴田は酷く悲しそうな顔で「立派になったなあ、利家」と微かに笑った。
「本当に強くなった。わしをもう超えているのかもしれないな」
「……どうしたんですか? 柴田様らしくないですよ」
「自分でも分からん。こんなに淋しい気持ちは生まれて初めてだ。そしてこんなに弱くなったのもな」
利家はどうやったら柴田が元気になるのだろうと悩んだ。
対話では無理だ。拳で語り合っても解決にならない。
こういうとき、無力だなと利家は痛感した。
「すまんな、利家。こういう話がしたくて来たわけではないんだが」
「いえ、よく分かっています」
「わしが言えることはそれだけだ」
この場を後にしようとする柴田に、利家は「もうお帰りですか?」と思わず言ってしまった。
「こんな暮らしですけど、酒ぐらい馳走できますよ」
「いや。遠慮しておく」
「今の俺とは酒を酌み返せないんですか?」
「違う! ……お前が織田家に戻るまで、酒は禁じている」
利家の心が熱くなる。
酒が大好物の柴田が願掛けで禁酒するとはよっぽどのことである。
利家は唇を噛み締めた。
「織田家が滅びてしまったら意味はないがな。そのときはあの世で飲ませてもらう」
「……本当に、勝ち目はないんですか?」
柴田は部屋を出る寸前に「お前のよく知る男が、何やら画策しているようだ」と言い残した。
利家の脳裏に浮かんだのは、成政だった。
「あの野郎、何企んでいやがる……」
柴田を見送ることもせず、居間に座ったまま、利家は深く考え始めた。
◆◇◆◇
駿河国から戻ってきた成政は信長の命令通りに、利家の様子を見に行った。
信長からは遠くから見守るように言われていたが、それでは暮らしぶりが分からないと思い、彼にしては珍しく面と向かって会うことにした。
「よう利家。久しぶりだな」
玄関先で鳥の羽根をむしっていた利家に声をかけた成政。
利家は驚いた様子で顔を上げた――そしてにかっと笑った。
「おう。元気そうだな、成政」
「お前のほうは元気が有り余っているようだな」
「はん。てめえの憎まれ口が懐かしいって思うなんて、俺もどうかしているぜ」
「私もお前の馬鹿面が懐かしいと思うよ」
互いに悪口の応酬をしているが、どちらの表情も嬉しそうだった。
嫌い合っているはずなのに、相手がいないと張り合いが無いようだ。
この関係は悪友と評せば正しいのかもしれない。
「それで、一体何の用だ?」
「殿からお前の様子を見て来いと言われたんだ」
「あん? 殿が? おかしいな。殿なら遠くから見て来いって言うんじゃねえのか?」
「……そういう嗅覚は鋭いんだな」
成政は呆れつつ「私も手伝ってやろう」と地面に置かれた鳥を一羽取って羽根をむしり始めた。利家は「ありがとうよ」と短く礼を言う。
しばらく無言のままでいると「柴田様から聞いたぜ」と利家が切り出した。
「何か企んでいるようじゃねえか」
「別に悪巧みなどしていない」
「お前は昔からそうだよな。いつも誰にも言えない秘密を抱える」
利家に指摘に成政は答えなかった。
それどころか「不自由なことはないか?」と利家に訊ねる。
「いや。村の奴らは親切にしてくれるし、家族が食べていける分の稼ぎはある」
「ああ、そう言えば子供が生まれたそうだったな。一応、おめでとうと言っておくか」
「一応は要らねえんじゃねえか? でもまあ、気遣ってくれてありがとうな」
一拍置いて成政は「もうすぐ戦が始まる」と静かに話し始める。
「大きな戦だ。何せ二万五千の大軍勢を相手にするんだからな」
「……そうか」
「もし手柄を立てたら追放処分が解かれるかもしれないな」
利家は鳥を置いて次の鳥に手をかけた。
そして成政に「よく分かるな」と言う。
「俺が戦で手柄を立てて織田家に再仕官しようとしているのを。誰から聞いた?」
「お前の考えそうなことだと思っただけだ。誰にも聞いていない」
「なあ、成政。織田家……勝てると思うか?」
いつになく神妙な面持ちで問う利家に、成政は「勝てる」と断言した。
そして羽根をむしりとった鳥を利家に押し付ける。
「そのために私は――努力している。だが翻ってお前はどうだ?」
「…………」
「浪人生活で身体、鈍っていないか?」
「馬鹿を言うな。何なら勝負するか?」
「お前はすぐに熱くなる。拾阿弥を斬ったときもそうだったんじゃないか?」
利家はぐぬぬと言葉に詰まってしまった。
まさしくそのとおりだったからだ。
「真っ直ぐな性格も悪くないが、できることなら曲がることも覚えないとな」
「けっ。急がば曲がれってことか? 面倒くせえ」
「それでは、私は清洲城に戻るよ」
利家は「おう、またな」と言った。
成政は「ああ、またな」と返した。
二人は短い言葉で再会を約束した。
◆◇◆◇
清洲城に戻った成政はさっそく信長に仔細を報告しようとした。
しかし評定の間には誰もいなかった。
仕方が無いので近くにいた丹羽長秀に信長の所在を訊ねた。
すると丹羽は驚いた様子で「今までどこにいたのだ?」と問い返した。
「殿の命令で遠くのほうへ。それより一体――」
「ならすぐに斉藤道三様の元へ行け」
「……道三様がいかがしましたか?」
丹羽は声を落として「危篤のようだ」と告げた。
成政は一瞬、頭の中が真っ白になった。
分かっていたし、予想もしていたが、実際にそのときが来ると堪えるものがあった。
「急いで道三様の元へ向かえ。今ならまだ間に合う」
「分かりました、失礼します!」
早足で道三の部屋に向かい、中に入ると、信長とその妻である帰蝶が、布団の上で寝ている道三の傍らに座っていた。
信長は黙っていて、帰蝶は静かに涙を流していた。
「……成政か。間に合ったな。舅殿がもうじき死ぬ」
「そう、ですか……」
成政に気づいた信長はそう言ったけど、成政は跪くことなく、呆然と立ったまま答えた。
信長は成政に「こっちに来い」と言う。
「舅殿――斉藤道三の最期の言葉、聞かせてやる」
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