斉藤家当主、斉藤義龍が急死した。
その知らせを受けた信長は、すぐさま美濃国を攻めることを決めた。
死亡の真偽を確かめるのが一番の目的だが、攻めとる好機でもあるという考えもあった。
尾張国から美濃国の西――西美濃へと進軍すると信長は家臣一同に伝えた。
しかしながら兵はあまり出せそうにないと、丹羽長秀から意見が出た。
「馬廻り衆を含めても、千五百ほどしか動けません。美濃国攻略のために何度も出兵しましたから」
「であるか。ま、こたびは大物見のつもりで出陣するとしよう」
平凡な将ならば、兵が少ない時点で出陣を見合わせるか、兵が集まるまで待つだろう。
だが信長は斉藤義龍の死の確認という目的のために、速さを優先した。
これが英断であることを分かった者は織田家家中でも少なかった。
「皆の者、出陣の準備を整えよ!」
よく通る大きな声で一同に命じると、家臣たちは各々の役割を全うするために動いた。
織田家の武将、森可成もその一人だった。戦準備をしようと立ち上がり、廊下を歩いていると「可成」と名だけで呼び止められた。
「柴田殿。どうなされた?」
「うむ。戦の支度はすぐに済むか?」
呼び止めたのは柴田だった。
可成は『あの事件』以来、少しだけ柴田の覇気が無くなったなと感じていた。
「ええ。俺の部隊はいつでも出陣できます」
「流石だな。それで、実は――」
「利家に戦のことを知らせろ、ですね」
可成の見透かした言葉に柴田は「おぬしも同じ考えか」と笑った。
「そうだ。殿は大物見と言っていたが、どこか大きな戦のような気がしてならない」
「手柄を立てる好機であると?」
「わしの勘だ。当たるかどうかは分からん」
戦に関する武人の勘は当たりやすいことを、経験則で知っていた可成は「信じますよ」と即答した。
「木下藤吉郎を使者に出しましょう。あの者は利家と親しいですから」
「そうだな。しかし、どうも利家を気にかけてしまうな。何故だか分からんが」
「それは――」
息子のように思っているからと言いかけて、可成は「禁酒をやめたいからでしょう」と違う理由を述べた。
「早く皆で飲める日が来るといいですね」
柴田が無言で頷く。
可成はさっそく藤吉郎を探しに行った。
ふと空を見上げる。
天気が崩れかけていた。
◆◇◆◇
「大きな戦か。よし、行こう」
可成の伝言を藤吉郎から聞いた利家は出陣を決めた。
既にお腹が大きくなっているまつの悲しげな表情に「そんな顔をしてくれるな」と笑う。
「大丈夫。生きて帰ってくるよ」
「……はい。ご武運を」
利家は「具足を着てくる」と言って別の部屋に向かった。
残された藤吉郎とまつは気まずい空気になった。
雄弁な藤吉郎も、まつと二人きりになると、途端に無口になってしまう。
「……ねねは、元気ですか?」
口を開いたのは意外にもまつのほうだった。
藤吉郎は慌てながら「ええ、元気でございます……」と答えた。
「そうですか。あの子は良い子ですから。きっと良い妻になってくれます」
「そうでしょうなあ。それがしもそう思います」
「私は……悪い子ですから、良い妻になれませんでした」
唐突な自虐に藤吉郎は思わず「どういうことですかな?」と訊ねてしまった。
まつは目を伏せて言う。
「夫が誉れある出陣をしようとしているのに、笑顔で送ってあげられないのです」
藤吉郎は桶狭間のことを思い出した。
「いつか、利家が死んでしまうのではないかと思うと、狂いそうになるのです。私はずっと、利家と暮らしたい。穏やかな日々を過ごせたらと願ったのは何度もあります」
「……では、戦に誘うそれがしのことは、憎いですか?」
どこか覚悟を決めた藤吉郎の言葉に、まつは彼の顔を真っすぐ見た。
その目は澱んでいて、とても少女のものとは思えなかった。
「ええ。とても憎いです。でも、あなただけではありません。森可成様や柴田勝家様。同輩だった毛利新介や服部小平太。そして佐々成政も憎い。そして最も憎いのは、織田信長様です」
「…………」
「でもそう思うのは間違っているのですね。あの人たちは、利家のことをよく思ってくれます。あなたもそうです。浪人の身の上の利家を、ずっと慕ってくれる……本来ならば感謝するべきでしょう」
分かっていても、気持ちや考え方を変えることは、まつには難しかった。
その理由は、利家のことを愛しているからだ。
失ってしまうことの恐怖が、いつも心の片隅でうずくまっている。
「ですから、憎らしい。利家を危険な目に合わせる人を、殺してやりたい」
「それがしのことを、殺すのですか?」
「それは、無理だと確信している口調ですね」
か弱い少女であるまつが、大の大人を殺せるわけがない。
しかし、執念深そうなまつならば、成しえるかもと思ってしまう。
「けれど、それがしたちがいなければ、前田様は生きがいを無くしてしまう。それもご理解なさっていますよね?」
「ええ。口惜しいほどに」
「特に一番殺したいと願っている殿の命が失われたら……殉死してしまうかもしれません」
藤吉郎は目の前のまつのことを、可憐な少女だと思わなくなった。
むしろ、扱いや言葉遣いを間違えたらこちらの命を奪われてしまうと考えた。
「まつ殿にできることは、先ほども述べられたとおり、ご武運を祈ることではないでしょうか?」
「結局、そうなってしまうのですね……」
まつの心に寂しい風が吹き込んできた。
いつの日か見た、父の位牌を思い出すようだった。
「私は武運を祈ることしかできない。でも、藤吉郎殿。私はいつだって、違うことを言いたかった」
「…………」
「生きて戻ってきてと、言いたかった。でも死ぬことが誇りになることだってある。逃げることが生き恥になることもある。だから、私は、ご武運をとしか、言えない――」
◆◇◆◇
「よし。準備が整ったぞ……うん? まつ、どうかしたか?」
利家が戻ってきたときには、まつはもう取り乱していなかった。
それどころか、平静を装っていた。
それまで会話をしていた藤吉郎のほうが焦っていて、利家が戻ったのを見て安堵した。
「いえ。なんでもありませんよ、利家」
「本当か? なんか泣きそうな顔をしているが……藤吉郎、何か知っているか?」
藤吉郎に利家が視線を向けた瞬間、まつが『余計なことを言うな』という顔をした。
それは藤吉郎からしか見えない般若のような顔である。
「いいえ。何も知りません」
「ふうん。まあいい。それじゃあ出かけてくる」
利家はまつの頭を撫でて「留守を頼んだぞ」と優しく言った。
「利家……」
「そんな寂しそうな顔をするなよ」
利家は「行こう、藤吉郎」と促した。
藤吉郎は「まだ時間がありますが」とまつに配慮した。
「もう行かれますか?」
「ああ。桶狭間のときと違って、馬は無いからな。急いで向かわねえと戦場に入れねえ」
利家と藤吉郎が去った後、まつは娘の幸をあやしながら「利家……」と呟く。
「言えなかった。このままの暮らしでもいいと。穏やかに暮らしたいって、言えなかった」
つうっと流れる一筋の涙。
それを慰める者は、誰もいなかった。
◆◇◆◇
利家と藤吉郎が出立し、戦場に着いた頃、織田家の軍勢が西美濃へ進軍していた。
織田家は今まで斉藤家とは小競り合いをしていたが、勝てずにいた。
決定的な敗北こそないものの、この戦で勝ちを収めて、桶狭間の勢いを取り戻したいところだった。
「斉藤家の軍勢、およそ六千! 長井甲斐守や日比野下野守など、名のある武将が陣を構えています!」
信長の元に報告が集まる。
そのとき、空からぽつりと雨粒が降ってきた。
「ええい。このようなときに雨か――」
織田家の武将、池田恒興が愚痴った時、信長は「好機だ」と言う。
「この雨に乗じて、奇襲をかける」
信長は皆に命じた。
「織田家の強さを見せつけてやれ――出陣だ!」
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