利家が織田家に帰参して、しばらく経った頃、小牧山に城を築くとの計画が家中に出回った。美濃国攻略のため、清州城よりも北に本拠地を構える必要があったからだ。
住み慣れた清州の城下町から離れることに、家中からは不満の声が上がったが、森部の戦い以降、いまいち勢いに乗れない情勢を打開するためには必要であると、信長は強く主張した。本拠地と前線を近づけることは戦略的に有効であるのは家臣一同分かっていたため、渋々ながら応じた。
「みなさん。なるべく家具に傷を付けぬように。しっかりと布で保護してください」
そう言った事情で、侍女や下男に指示を出して移転の準備をしているのは、利家の妻のまつだった。少し大きくなったお腹を気にかけながら自身も皿を風呂敷に包んでいる。
「奥方様。こちらは――」
「それは台車で運びます。そっちのものと――」
利家が侍大将として織田家に帰参したのも束の間、こんなに早く引っ越しをしなくてはいけないと思うとほんの少しだけ信長を恨めしく思うまつ。
出世したせいで利家と中々会えなくなったことも腹立たしいと感じていた。
「奥方様、お客人が来ておりますが」
この忙しいのに誰かしらと内心苛立ちながら「どなたですか?」と返すまつ。
応対した下男は困ったように「それが殿のお客人だそうで」と答えた。
「不在であると言ったのですが、中で待たせてもらうと……」
「不躾な方ですね。名乗らなかったのですか?」
「えっと、名前は――」
下男が答える前に「お初にお目にかかります」といつの間にか勝手に屋敷に入った男は言う。
まつは怪訝な顔で、武士らしき恰好をしている男に訊ねる。
「失礼ですが、どなたですか?」
「おそらく、利家からは聞いているとは思いますが――」
男はにこりと微笑んで言う。
「佐々成政、と申します」
「あなたが……あの成政様、ですか?」
利家から話は聞いていたものの、実際に会うのは初めてだった。
驚きで目を見開くまつを余所に、成政は静かに言った。
「利家が帰ってくるまで、待たせてもらってもよろしいですか?」
◆◇◆◇
引っ越しの途中だったので、殺風景になっている客間に、成政は通された。
まつが自ら入れた粗茶を畳の上に置くと、成政は「いただきます」と言って口に含んだ。
「美味しいですね。入れ方がお上手なのでしょうね」
「それで、松平家家老の佐々様が夫に何の用でしょうか?」
まつは目の前の成政が上品かつ優雅な仕草をしているのを意外に思っていた。
利家から聞いた話では皮肉屋で喧嘩っ早い若者という印象だったからだ。
もっとも、利家は成政のことを悪く言うが、決して憎いから言っているわけではなかった。上手く言えないが、悪友のような関係だとまつは勝手に想像していた。
「用、というほどではありません。利家が織田家に帰参したと聞いて、どんな様子かと見に来ただけです」
「そのためだけに、尾張国に来たのですか? お忙しいはずなのに?」
まつの言い方が少しだけ皮肉めいたのは、引っ越しの邪魔をされたからだが、成政は涼しい顔で「いけませんか?」と応じた。
「知ってのとおり、私は元々、織田家にいました。そのときからの縁……まあ腐れ縁ですが、それなりに交流があったのですよ」
「ええ。存じております。物騒なやり取りも聞きました」
「それは否定しません。何しろ、利家とはしょっちゅう喧嘩していましたから」
よく分からないわねとまつは思った。
何が目的なのか。
何の意図があるのか。
それが会話の中で明らかにならない――
「利家の思い出話をするのでしたら、別の機会がいいですね。見ての通り、今は引っ越しの最中ですから」
「あはは。利家以外には辛辣であるという噂は本当だったんですね」
「誰から聞いた噂かは知りませんが、それは真実ですと言っておきましょう」
成政は両手を挙げて「邪険に扱わないでください」と言う。
「実を言えば、あなたに会うことも目的だったんです」
「私に? まさか間男にでもなるつもりですか?」
「いえ。あなたに魅力がないわけではありませんが、私は妻を愛しておりますので」
本気か冗談か分からないやりとりをしつつ、成政は本題を切り出そうとする。
まつも敏感に空気を察して背筋を伸ばす。
「木下藤吉郎という男をどう思いますか?」
自身の親友である、ねねの夫になる男の名が出たのを訝しげに思いながら「口が達者な方だと思いますね」と比較的素直に答えた。
「あなたと一緒で、とてもお上手な方だと」
「一緒にされるのは心外ですが、まあ受け入れましょう」
「違うのは夫を慕っているかどうかですね」
「それにも同意です」
「その木下殿がどうかなさいましたか?」
成政は「近々、彼は大きな仕事を成し遂げます」と真剣な表情で言った。
まつはごくりと唾を飲み込んだ。一気に緊張感が高まったからだ。
「もしかすると、利家を追い抜くほど出世するかもしれません」
「……私にはそれほどの器とは思えませんでしたが」
「大きな器を作るには長い時間が必要です。もしくは大きすぎて全容が見えないこともあります」
「よほど買っているみたいですね。木下殿を」
成政は首を横に振った。
何かを振り払うように。
そして「買っているという言い方は正しくありません」と答えた。
「私は木下殿を恐れています」
「確認しますけど、佐々様は家老なのでしょう? それなのに、どうしてですか?」
「道をまっすぐ進めば、私は彼に殺されていたでしょう」
不思議な言い回しだったので、まつは不可解に思ったが、目の前の成政が怯えていることが分かった。
しかし何故、木下藤吉郎をそこまで怖がっているのか、彼女には分からなかった。
「まつ殿。利家にあなたからお願いしてみてください」
「何をですか? まさか、木下殿を殺せとでも?」
「そこまでは言いません。私が提案するのは、かの者を利家の組下に入れることです」
組下、つまりは配下にせよと成政は言う。
まつはしばらく黙ってから自身の考えを述べた。
「利家の配下にすることで、木下殿の手柄を利家のものにせよと言いたいのですね」
「ご明察です」
「それで木下殿を利家の一家臣として留めておくのが、あなたの狙いですね」
これまでの話を聞いていれば誰でも成政の言いたいことは分かる。
けれども、それをすることで成政にどんな利があるのは分からない。
「利家を出世させるのが目的……ではなさそうですね」
「……しかし、これは叶わないでしょうね」
成政の表情が悲痛に満ちたものになる。
まつが思わず同情してしまうくらい、物悲しい顔。
「利家の性格を思えば、あなたが頼んでも聞き入れてくれないでしょう」
「では何故、私にこのような話を?」
成政は自嘲するように「池に岩を投げ込んでみたかったのですよ。利家のように」と呟く。
「そのためなら、無駄だと思っても、やっておくんです」
「意味が分かりません。あなたは、一体……」
「まつ殿。これだけは分かってください」
成政は覚悟を決めた顔で、自身の好敵手の妻のまつに言う。
「私はどんな手を使っても、幸せになりたいんです」
「…………」
「自分の手が汚れたとしても、最後に栄光を掴めれば、それだけでいいんです」
◆◇◆◇
「はあ? 藤吉郎を組下にする? そんなのできねえよ」
帰ってきた利家にまつはさっそく言うと、成政の予想通り断られた。
「だってあいつ、殿の直臣だ。寄騎ならまだしも組下にはできねえ」
「そうですか……」
「ていうか、なんでそう考えた?」
利家の問いに成政のことを言おうとしたまつだったが、最後の表情を思い出して「いえ、なんとなく思っただけです」と誤魔化した。
「木下殿は出世しそうな雰囲気がありますから」
「そうだな。あいつは良い奴だ。俺よりも出世するだろうよ」
単純な利家は笑ったが、まつは複雑な思いで一杯だった。
結局、利家が帰ってくる前に、成政は去ってしまった。
もしかして、自分に会うためだったのかしらとまつは考えたけど、それこそ考えすぎねと思い直した――
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