「西三河を平定した今、今川家との決別を表明するには、どうしたら良いだろうか?」
岡崎城の茶室に呼ばれた成政は目の前の主君、松平元康の問いに逡巡してから答えた。
「未だ東三河を統一していない現状で、今川家に戦を仕掛けるのは穏やかではありませんね。ですから、まずは名前を変えることでしょう」
「変える? 元康の名をか?」
「聞いた話ですが、殿の『元』の字は今川義元公から偏諱を賜ったものですよね。ですからそこを捨てて新しい名にすれば……」
「なるほど。名案だな」
納得した元康は茶坊主が注いだ茶を啜る。
成政はいよいよあの名前になるのかと、内心期待していた。
西三河はすんなりと平定できた。ひとえに松平家家臣団の成果であるが、工場経営によって豊かになりつつある岡崎城の城下町を目の当たりにした、国人衆や名主たちが配下に加わったのが真実である。それを酒井や大久保は頑なに認めなかったが、当の成政がそれを主張しなかったことで各々の手柄となった。
成政が欲しがったのは元康の信頼である。家老以上の地位となるには、松平家を大きくすることしかない。であるならばその程度の手柄などどうでも良かった。
こうして元康と一対一となり、内々の相談を受けることこそ、彼の望んだことだった。
「そうか。では康の字は残しておこう。そうなると……どの字にしようか?」
「殿がお決めになってください。私と家臣はそれに従います」
「成康とかどうだ? そなたの成を貰ったのだが」
これには流石の成政も「私から取るのは些か問題があるかと」と戸惑った。
元康の毒気のない顔から、他意のないことは分かるのだが。
「一家臣から取るのは、他家に侮られる要因になります。それに私も改名しなくてはいけません」
「ふむ。よく考えればそうだな。では私の宝である、そなたら家臣の『家』の字を取って『家康』としよう。それならば問題あるまい」
さらりと嬉しいことを言う元康――家康に天下人の器を感じながら「それは素晴らしい案ですね」と成政は言う。
そして自分の知っている史実に立ち合えたことに感動していた。
「何故涙目になっているのか分からぬが、そなたが賛成してくれるのなら良いだろう」
「殿。実は私にも相談したいことがありまして」
「うん? なんだ?」
成政は居住まいを正した。
そして「武田家の騒動をご存じですか?」と問う。
「ああ。そなたが遣わしてくれた伊賀者から報告を受けている。信玄と嫡男の義信が対立していると」
「ええ。今川家進攻の是非を巡って、口論しているそうです」
武田家の次期当主である武田義信の妻は、亡き今川義元の娘である。つまり義信にとって今川家は妻の実家なのだ。そこを実父が攻めると主張している。対立は仕方のないことだった。
「今は口論ですが、いずれは内紛になってもおかしくありません」
「そうだろうな。だからそなたは内情を知るために、甲斐国へ行こうと? ……いや、目的はそれだけではないようだな?」
主君の鋭い指摘に、あの若君がよくぞ成長したなと思いつつ、成政は「ご明察でございます」と答えた。
「嫡男の義信をこちら側に引き込もうと思います」
「……それはいくらなんでも難しくないか? 私たちは今川家を攻めているのだぞ?」
家康の言っていることは至極真っ当だった。
信玄はまだ今川家を攻めていないが、松平家は現在進行形で領土を奪っている。
「普通に考えたら無茶でしょうね。最悪私は捕らわれて、今川家に引き渡されて、打ち首になるかもしれません」
「なっ!? それは駄目だ! そなたを失うなど!」
思わず取り乱しかけた家康に「心配無用です」と成政は言う。
その顔は自信に満ち溢れていた。
「分の悪い賭けではありますが――交渉できる余地があります」
「成政……」
「殿、私を信用してください」
成政の決意に満ちた顔を見て、家康はしばらく黙ってから、表情を和らげた。
まるで兄の度胸試しを見守る少年みたいだった。
「そなたはいつも、危険な橋を渡るな。信長殿に殺されかけたときもそうだった」
「あれは、若気の至りです」
「そのおかげで今の私がいる。分かった、許可しよう」
家康は成政に命じた。
「武田義信を松平家に引き込め。成果を期待しているぞ」
「ははっ。主命、拝領いたしました」
◆◇◆◇
無論、成政は武田義信を引き込もうとは思っていなかった。
いくら揉めているとはいえ、今川家を攻めている松平家に組するわけがない。
家康を騙したわけではないが、これからやろうとしているのは、それ以上に危険な行ないだったため、方便を使ったのだった。
成政の目的は引き込むよりも、もっと悪辣なことだった。
そして家康が危惧したように、自身の命を賭けるものでもある。
しかしそうでなければ、松平家を大きくできない。
さらに言えば、成政の運命を変えられないのだ。
「というわけで、私はこれから甲斐国へ向かう」
「お前さま……それは……」
事情を伝えられた妻のはるは、顔から血の気が引いてしまった。
妻とはいえ、全て話すことはできない。だから断片的ではあるが、言える範囲で説明した。だが村井貞勝の娘だからか、非凡な頭脳を持っている彼女には、成政が死地に向かうと分かってしまった。
何か言おうとしたが、どれもが成政の重荷になってしまうと感じたはる。
それを察した成政は「大丈夫だ」と彼女の肩を抱いた。
「十二分に勝ち目がある交渉だ。安心してくれ」
「安心など、できません。戦であれば、お前さまはお強いから生き残れます。でも、あまりに……」
成政は「これは私から言い出したことだ」とはるの肩を擦りながら言う。
「好んで死のうと思ってはいない。分かるだろう?」
「……お前さま。私、伝えなければいけないことがあります」
成政ははるが悲壮に満ちた決意をしたのを感じ取った。
その内容は分からないが、女性の美しい覚悟を彼女の中に見た。
「何でも言ってみなさい」
「言ってしまったら、お前さまの仕事に差し支えるかもしれません」
「気にしなくていい。私たちは夫婦なのだから」
成政がこんなに優しく接するのは、はるだけだった。
同情や友情を他者に向けることは多々あるが、愛情を向けるのは彼女だけだ。
「……子ができたみたいです」
「そ、それは……」
成政はぐっと言葉を詰まらせた後、はるを優しく抱きしめた。
それから「ありがとう」と言う。
「私たちの子が授かったのだな」
「ええ。しかし、今言うことではありませんでしたね」
「いいや。むしろどんな手を使っても生き残ろうと思える」
成政ははるの顔を見つめた。
泣くのを堪えている、寂しげな表情。
それが愛おしく感じる――
「絶対、生きて帰ってくる」
「……成政様」
「はると、子のために。約束だ」
死ねない理由がまた増えたと成政は考えた。
そしてこうも思う。自分は成政に生まれ変わった。しかしそれをなぞるように生きていない。
前世を持っているからだと思っていた。
未来知識を使っているからだと思っていた。
その生き方を変えるつもりもなかった。
けれどこうして今の自分を愛してくれる妻、はるがいる。
自分を信頼してくれる主君の家康がいる。
戦国乱世で生きている理由がそこにはあった。
前世では実の親から見捨てられて、友人もできなかった。
どうしようもない人生だった。
生きていても、死んでいても、どうでもいい人生だった。
それでも、今の佐々成政としての人生は、実りあるものだ。
生きていていいと思える。己の死を厭う人がいる。
一見歪んでいると思われるが、幸せだと成政は思えた。
「はる。私は生きてみせるよ」
「お前さま……」
「生きてやる。死んでも足掻いてみせる。お前を幸せにするために。生まれてくる子を幸せにするために。そして私自身が幸せになるために」
成政の力強い言葉に、はるは安堵を覚えたが、同時に不思議に思う。
私たちは今でも幸せなのに、これ以上幸せを目指してどうするのだろうと。
でも言葉にせず、成政を肯定するように、はるは言った。
「ええ。お前さまなら幸せになれますよ、絶対に」
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