稲生原の名塚砦に信行側の武将、林美作守が攻めかかったという報告が信長の下に入った。
信長は軍勢をまとめて出陣を開始した。
ほぼ馬廻り衆だけで、その数七百ほどだった。
対して、信行の軍勢は千七百である。
内訳は柴田勝家が一千、林美作守が七百だった。
素人目にも信長が不利だと分かる戦力差である。
清洲城で戦仕度をしていた成政。
そんな彼に話しかける者がいた。
「小僧! わしの銭を盗ったか!?」
ぎゃあぎゃあ盗られたと騒いでいるのは、美濃のまむし、斉藤道三であった。
成政はこれが認知症の症状の一つ、物盗られ妄想であると知っていた。
小姓たちが辟易する中、彼だけは辛抱強く世話をしている。
「道三様。あなたの銭を私は盗っておりませんよ」
「なに!? では何故、わしの銭が無くなった!?」
「一緒に探しますから、自室でお待ちください」
道三は「本当におぬしは盗っていないのか?」と疑わしい顔で見つめている。
成政は笑顔で「はい。もちろんです」と応じた。
「ふむ。では部屋で待っておる」
「……戦が始まるので、すぐには行けません」
成政は聞こえるかどうかの声で呟いた。
だが耳に届いていたらしく、道三は「なんだ。戦に行くのか、小僧」と不敵に笑った。
「ええ。道三様は部屋で待っていてくだされば――」
「身内同士の諍いなど、くだらぬな」
どきりとすることを言われ、成政は道三の顔を素早く見つめる。
道三は笑みを絶やすことなく「婿殿は勝つぞ」と断言した。
「正統性がある。数の上では劣るかもしれんが、いずれ皆が気づく」
「……何に気づくというのですか?」
いまいち要領を得ない言い方だったので、成政は訊き直す。
何か重要なことかもしれないと思ったからだ。
「……わしの銭、どこにもないのう」
道三は疑問に答えずに、淋しそうに呟いて、そのまま部屋を出てしまった。
成政はその背を目で追っていたが、もうすぐ出陣だと気づき、急ぎ仕度を整えた。
「道三様の背中……どこか切なそうだったな……」
道三自身、息子に叛かれて国を追い出された身だ。
身内同士の戦に何か思うところがあるのだろう。
成政はそう考えたが、真相は分からない。
◆◇◆◇
稲生原にずらりと並んだ信長の軍勢。
森可成、池田恒興、滝川一益などの猛将が、信長の指示した配置に着く。
「利家。心の準備はできましたか?」
戦が始まる直前、可成が利家に話しかけた。
隊を率いて戦うのは初めてのことで、少しばかり気負っている利家は「なんだ? 兄い」と言葉数少なく応じた。
「隊を率いるのは訓練でもやったことあるぜ」
「…………」
「なんだその面は。実戦と訓練は違うって言いたいのか?」
「……そうではありません。あなたは、柴田殿と親しかったはずです」
それを考えないようにしていた利家は、動揺こそしなかったものの、可成に向かって「ああ。親しいと言うよりは慕っていたって感じだな」と言う。
「それがどうしたんだよ」
「情で腕が鈍らなければいいと思いましてね」
「はっ。余計なお世話――って言いたいけどよ。ありがとな、兄い」
利家は遠くのほうを見つめた。
その方角から、柴田の兵がやってくる。
「俺ぁ柴田様のことを尊敬している。あの人は真の武人だ」
「……そうですね。俺もそう思います」
「だから、戦わなきゃいけねえんだろうな」
利家の意外な言葉に、可成は感心したように「ほう」と呟いた。
「主家――殿に逆らったんだからよ。どんな経緯があってもさ、けじめ取らねえといけねえんだろうな」
単純だが真理を突いた言葉である。
可成もその考えに頷いた。
「目は覚めているはずだから、俺は柴田様に正しい方向へ目を向けてほしいんだよ」
「…………」
「ガラにもねえかな? 兄い……」
可成は微笑みながら「よくぞ、覚悟できましたね」と言う。
また自分の弟分がいつの間にか成長したことにも驚いていた。
もう自分が説かなくても、答えを見出せている。それは喜ばしいことだった。
「それでこそ、前田利家ですよ」
「ははは。照れ臭いこと言うなよ」
「今回の戦は――かなりの犠牲が出ます」
可成は笑みを消して、険しい顔になる。
利家も同じような顔つきになる。
「あなたの兄君――利玄殿も参戦するらしいですね」
「ええまあ。利玄兄も織田家家臣だからな」
「戦の前に、挨拶はしたほうが良いのではないですか?」
可成がこう言ったのは、何の意図もなかった。
胸騒ぎもしなければ、予感もしなかった。
ただ利家を気遣って言っただけだった。
「いいよそんなの。気恥ずかしい」
「ふふ。兄弟とは良きものですね。俺も子供を持つようになってから――」
可成の言葉が終わる前に、法螺貝が鳴った。
柴田の兵がやってくるようだ。
「それでは、俺はこれで。生き残ってくださいね」
「ああ。兄いもな!」
肉親同士、身内同士が戦う、凄惨な戦。
稲生原での合戦が――始まった。
◆◇◆◇
信長には勝算があった。
林美作守は名塚砦攻略に着手している。
だから初戦の相手は柴田勝家率いる一千の兵のみ。
鍛えに鍛えた馬廻り衆を持ってすれば、寡兵であっても打ち倒せるかもしれない。
その後、林美作守の軍勢を迎え撃つ。
信長はそれができると計算していた。
柴田や林の兵は農兵――農民の兵だ。
戦に慣れた者は少ないはずだ。
だからもし、柴田さえ撃破できれば。
戦に勝つことができる。
そう信じていた――
「弓矢で怯ませた後、槍衾で押し進め!」
その計算は脆くも崩れ去る。
信長は決して柴田を甘く見ていなかった。
むしろ尾張国随一の猛将だと認識していた。
だが、その認識を上回るほど、柴田は戦上手だった。
「悪いな、信長様。わしは信行様を勝たせる。我が身が欠けても、我が身を賭けても!」
柴田は自ら槍を持ち、前線で戦っていた。
織田家の猛将、山田治部左衛門を一突きし、討ち果たすと素早く戦の指示を出す。
もはや稲生原は大混戦となっていた――
◆◇◆◇
「はあ、はあ……なんて戦だ……」
息を切らしながら、物言わぬ亡骸と化した兵から槍を引き抜く利家。
何人倒したのか、詳しいことは分からない。
味方も何人死んだのかも分からない。
「くそ! 殿は無事なのか――」
一瞬の気の緩み。
利家は戦の最中に気を緩めてしまった。
これは利家が未熟というわけではない。
敵を討ち取った後に訪れる、弛緩した気持ち。
誰もが陥る前後不覚の油断――
びっしゅという音。
利家は凄まじい痛みに襲われる。
「がああああああ!?」
利家の顔――右目下に矢が刺さった。
混戦のため、味方はそれに気づかない。
「小姓頭、宮井勘兵衛! その首、もらった!」
利家に近づくその男――宮井は刀を抜いて、駆けてくる。
矢が突き刺さったままの利家は対応できない――
「――待て!」
利家は聞いた。自分を庇う者の声を。
利家は見た。自分を守る者の姿を――
「……利玄兄?」
槍で宮井と戦っている、前田家次男、利玄。
利家は呆然としながら、兄を見ていた。
必死に弟を守ろうとする兄は。
今まで見たことないくらい、情熱的で格好良かった。
「どけええええええ!」
宮井が利玄の胴に蹴りを入れた。
どたんと倒れる利玄とその上に乗る宮井。
「貴様から、その首――」
刎ねてくれると言いかけて――止まる。
怪我を物ともせず、気力で立ち上がった利家が――
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」
武器も持たず、宮井に突進した。
今度は逆に利家が上になった。
「こんのおおおおおおおおおおおおおお!」
利家は――自分の顔から矢を引き抜いた。
溢れ出す血を無視して、その血だらけの矢を。
宮井の口の中に突っ込んで、刺した。
こぽこぽという音がして、血を噴出す宮井。
じたばたと暴れるが、やがて事切れる。
「利玄兄! 大丈夫か!?」
利家が兄の倒れたほうを見る。
「……あー、大丈夫だ」
利玄は上体を起こして、自分の無事を示す。
安心した利家は宮井の上から立ち上がり、利玄のほうへ向かう。
「利玄兄、助かった。ありがとう」
「別にいいよ。弟を守るのは――」
利玄は笑顔で利家に手を振った――
そのとき、一本の矢が、利家と利玄のほうへ、放たれた――
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