尾張国の浮野での戦いは熾烈を極めた。
数で劣る信長の軍は信賢に一時押されていた。
だが信長が当主となった日から、彼らは戦い続けている。
精強さにおいては信賢を圧倒していた。
また、援軍である信清の軍も戦の後半から加わり、一気に戦況は信長有利となる。
総崩れとなった信賢の軍は、居城の岩倉城で篭城戦に入る。
蟻の穴も通さぬ包囲により、もはや織田伊勢守家は風前の灯となる――
「……おかしいな。できすぎている」
本陣にて信長は怪訝そうに呟いた。
すかさず傍らにいた成政が「いかがなさいましたか?」と問う。
「信賢は俺の首を狙っていたはずだ。しかし……」
「敵方の思惑より我らのほうが強かった……というわけではないと?」
「ああ。あいつは暗躍を好む。正面から戦うほど潔くはない」
尾張国を統一する最後の敵として想定していた信賢が、まさかここまで歯ごたえもない者であるとは、信長は思えなかった。
だからこそ、違和感が多すぎたのだった。
「成政。お前はどう思う?」
「……おそらく、何かを狙っているのでしょう」
成政はそう言いながらも、半分くらいは信賢の誤算だったのではないかと考えた。
一千以上の兵を死なせたことも、篭城を強いられていることも、敵にしてみれば計算外だった。
であるならば、信賢は切羽詰っている。
何をしても信長の首を狙おうとする。
「俺の首以外に何を狙う?」
「弟君では?」
「…………」
未来の知識を知っている成政には自明だった。
しかし信長の落胆する顔は予想できなかった。
「この期に及んで、俺を殺すのか」
「その可能性はあります」
「俺が憎いのか?」
「……それは分かりませぬ」
信長は天を仰いで「一度、許してやったではないか」と呟く。
「戦に勝った。度量の深さを見せた。それでも――不満があるのか?」
「それほど、当主の座は惜しいのでしょう」
「であるか……」
信長は「清洲城に戻る」と短く告げた。
「後は家臣に任せる」
「皆には、お身体の調子が悪いと伝えます」
「ふん。お前の察しの良いところは素晴らしいな。そういうところ好きだぞ」
「ありがたきお言葉」
信長は「利家にもう一度柴田を探らせろ」と成政に言った。
「信勝から遠ざけられているらしいが、何も知らぬことはないだろう」
「……かしこまりました」
「なあ。成政」
信長は疲れた表情を見せた。
それは成政だけではなく、見る者全ての胸を締め付けるものだった。
「俺は――弟を殺さないといけないのか?」
◆◇◆◇
「はあ? 柴田様を探れ?」
清洲城に戻った信長が病で伏せている。
それを聞いた利家はどうしたものかと頭を悩ませていた。
しかし成政の口から出た主命で、すっかり吹き飛んでしまった。
利家と成政は信長に従って清洲城に帰還していた。
他にも戻った者は大勢いる。
それは服部小平太や毛利新介など、馬廻り衆の中でも腕利きの者ばかりである。
「ああ。殿からの命令だ」
「なんでだよ。この前行ったときは何も話さなかったぞ?」
「状況が変わったんだ」
成政は仔細を言わずに利家に「さっさと行け」と言う。
そんな上から物を言うのような、偉そうな物言いに利家は苛立ちを見せた。
「てめえ、なんだその言い方は。馬鹿にしているのか?」
「私はいつだって、お前を馬鹿にしている」
「なんだと!」
「いいから行け。殿のことは心配ないから」
やけに冷たい言い方だなと利家は疑問に思ったが、柴田とは会いたかったので「分かった」と短く応じた。
浮野の戦いで手柄を立てたことも褒めてもらいたかったのもある。
「ちゃんと仕事しろよ」
「お前に言われたくない」
いつも通りの憎まれ口で背を向けた利家。
そのとき成政は思わず「気をつけろよ」と付け加えてしまった。
利家は一瞬、おかしいなと思ったが、振り返ることなく馬屋へと向かった。
末森城の武家屋敷にある、柴田の屋敷に向かうと、玄関に下人と侍女が立ち尽くしている。
利家は「何かあったのか?」と下人に訊ねる。
「ええっと、あなた様は?」
「織田家家臣、前田利家だ」
「ご無礼しました。実は御主人様が屋敷からしばらく出ろと」
利家は嫌な予感がした。
それは平手政秀が死んだときと同じ胸騒ぎだった。
「お前たちは入るな! 俺が確かめる!」
下人と侍女にそう告げると、早足で屋敷の中に入る利家。
中の襖や障子を乱雑に開けて、柴田を探す――
「柴田様! どこにいるんですか!?」
喚きながら開けた先に――柴田がいた。
白装束で短刀を持ち、呆然とした表情で利家を見つめていた。
「柴田様! 何をしているのですか!」
利家が近づき、短刀を取り上げる。
柴田はばつの悪い顔で「間が悪かったな」と呟いた。
「下人たちには誰も近づかせるなと言っておいたのだが」
「……どうして、自害をなさろうとしたんですか?」
柴田の悲しげな顔を見て、逆に冷静になれた利家。
短刀を投げつつ「理由を聞かせてください」と座って目線を合わす。
「……信勝様が、また謀叛を起こそうとしてな」
「なっ!? それは本当ですか!?」
「ああ、間違いない。側近の津々木と企んでいた」
「だから死のうとしていたんですか?」
柴田は小さく頷いた。
利家は拳を強く握り締めた。
「わしの死で諌めようとしたのだ。信長様がそれで許してくれるとは思わぬが」
「どうして、ですか。なんでそこまで、信勝様を……」
「わしの主君だからだ」
利家自身、信長に高い忠誠心を持っていた。
だが自分の死をもって諌めようとは考えたことはない。
信長は筋道を立てて説明すれば、考えを改めることがあるからだ。
「そんなの、間違っていますよ! 死んで諌めようなんて――」
「ま、わしが死んでも信勝様は考えを改めないだろうがな」
「尚更、おかしいじゃないですか! なんで死ぬんですか!」
「…………」
柴田は利家に微笑んだ。
利家の何かがぶちりと切れる音がした。
握り締めた拳を振り上げた。
「こんの――大馬鹿野郎が!」
利家が柴田の頬を殴りつける。
まるで貫く勢いで思いっきり殴ったものだから、柴田は部屋の隅まで倒れこんだ。
「ふざけるなよ! 簡単に――死ぬんじゃねえ!」
「…………」
「諦めるんじゃねえよ! 馬鹿じゃねえのか!」
柴田は仰向けに倒れたまま、起き上がろうとせず、利家の言葉を聞いていた。
「どいつもこいつも、死ぬことばかり考えやがって! 平手様もそうだ! あの人やあんたは俺に生き様を見せてくれたじゃねえか! だったらもっと生きろよ! 生きてくれよ! なんであっさり死ねるんだよ!」
「…………」
「俺はそんな格好悪いところ見たくねえんだよ! 馬鹿野郎が! 俺はな、あんたを尊敬しているんだよ! 俺にこんなことを言わせるなよ! もっと格好良いところ見せてくれよ! 大嫌いにさせるんじゃねえよ!」
支離滅裂で何にも筋は通っていなかった。
馬鹿がただ喚いているだけの言葉だった。
でも、心が弱っているときは、こんな熱い馬鹿の言葉がすうっと身に染みる。
「……格好悪いか」
柴田はゆっくりと起き上がった。
頬には青痣ができている。
「わしはどうしたらいい?」
「……そんなの知らねえよ。でも自害よりきっと、やるべきことあるだろ」
利家の真っ直ぐな言葉。
正道を往く前向きな言葉。
柴田は口元を歪めた。どうやら笑ったようだった。
「そうだな。信長様に信勝様の助命を乞おう。己にできることをやってみよう」
柴田は利家に頭を下げた。
「引き合わせてくれ、信長様に。覚悟は決めた」
利家はしばらくじっと柴田の顔を見つめた後――
「――ええ、喜んで」
安心したようににっこりと笑った。
「そっちのほうが、柴田様らしいですよ」
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