「ヒルダ、あなた異世界で光の魔操師の気配を察したことはないの?」
魔王城でヒルダは、ミアにそう質問された。
「いいえ、ないわ。……というより、気配を察知しようとするだけ無駄だから。集中力が削がれるだけだし」
「でも、例のパーティーのメンバーが異世界であなたを捜しているという話もあるわよ? もしかしたら、案外ヒルダに近くにいるのかも」
「まさか」
ヒルダは軽く溜め息をつき、
「私の家の周りは安全よ。それに、もしも光の魔操師が私を見つけたとしても、公衆の面前で魔術なんか使わないわよ」
と、返した。
「そうなの?」
「そうよ。異世界では魔術は迷信とされているの。あんなところで戦闘なんか始めたら、私もあのヒューとかいう魔操師も賞金首になってしまうわ」
ヒルダは「だから」と言葉をつなげ、
「気配を察知するなんていう、わざわざ疲れるようなことをしなくても問題ないの。現に私は、こうして五体満足でいるんだし」
と、強気な笑みをミアに向けた。
他の魔操師の魔力を気配として察知し、その現在位置を特定するというのは能動的な行動である。従って、それなりの気力と集中力を必要とする。しかし日本にいる限り、ヒューは私を見つけたとしても攻撃してこないだろう。奴を探すだけ無駄だ。
先日、ミアから「“橋”を作ることができる光の魔操師がいる」と聞いた時は、確かに動揺した。もしかしたら、例のパーティーが異世界で私に襲いかかるのでは……とも考えた。が、よくよく考えてみるとそんなことはまず不可能だ。日本という国は魔術戦闘ができる環境ではない。酔っ払い同士の喧嘩ですら、警察官がパトカーに乗ってやって来るのだから。
幸いにも、魔王デルガドはヒルダの偵察活動を高く評価している。先日提出した河童に関する報告書は、デルガドや魔王軍幹部たちを大いに驚愕させた。そして今は、天狗の調査を実行している最中。即ち、日本に居続けられる強力な口実があるということだ。
「気をつけたほうがいいわよ、ヒルダ。キシロヌ王国がヒルダの討伐に踏み切ったこと、知ってるでしょ?」
「ええ、知ってるわ。まあ、異世界にいる限り私が討ち取られることは絶対にないわね」
そう、日本にいる以上は安全だ。そしてこれからは、極力日本で生活しようと決めている。闇の地にはほんの時折、短時間だけ戻ってくればいい。
「それに、万が一私が攻撃されたらコウが来てくれるわ」
「“コウ”って、ヒルダが操っている例の奴隷?」
「ええ、コウは私の言うことなら何でも聞くの」
「すごいわね、ヒルダ……。異世界の人間をそこまで洗脳してしまうなんて」
「うふふ、羨ましい?」
そう言いながらヒルダは、左手薬指の指輪を右手で優しく撫でた。
大丈夫。コウがそばにいてくれさえすれば、私は絶対に安全なんだ。
コウがいてくれさえすれば。
私のコウ――。
「……お願い、コウ。私を守って。愛してるから」
「ヒルダ、何か言った?」
「いいえ、何でもないわ」
*****
真夜は自室で絵筆を動かしながらも、モヤモヤとした気分を抑え切れないでいる。
今日は孝介がどこかに出かけている。どうやら例のナントカ富士という先輩と会っているそうだが、それにしても午後6時に出かけるというのは私のことを考えていないのではないか。夫たるもの、日没後は極力妻のそばにいるのが礼儀というか、努力義務のはずだ。
私を家に置き去りにするなんて、コウは非常識よ!
現在時刻は午後9時24分。真夜は孝介のスマホに「早く帰ってきて!」「離婚するわよ!」「私のことが嫌いなの!?」と何度もメッセージを送ったが、何と既読すらつかない。プッシュ通知だけを眺めて放置しているのか。
コウは一体何をやってるの! 帰ってきたら承知しないんだから!
イライラをセーブできなくなった真夜は、絵筆とパレットを持って自室を離れた。今日はもう絵本……いや、挿絵入り報告書の制作は切り上げだ。真夜はベランダに移動し、絵筆とパレットの洗浄を始めた。水を張ったバケツの中に道具を入れる。水彩絵の具だから、水だけで洗浄することができるのだ。
それにしても、水が冷たい。考えてみれば、今はもう9月中旬である。夏の暑さは先週よりも薄らぎ、代わりに秋らしい気候になりつつある。
オープンカーで遠出するには、絶好の季節だ。
*****
『夢国』は完全個室制の居酒屋チェーン店である。
孝介は襖で閉じられた3畳間で、大塚弘子と酒を飲んでいた。
弘子は孝介と同じ42歳だが、肩まで伸びる髪には白い線が目立っている。目元の皺も孝介より多い。十数年ぶりに会った彼女は実年齢よりも5歳は年を重ねている、というのが孝介の正直な感想だ。
「親方の介護は相当なもんだったろ?」
孝介がそう問いかけると、
「そこまででもなかったと思うわ。ちゃんと介護士さんも来てくれたし」
弘子は苦笑しながら返した。
「いや、お前の顔と手を見りゃ大体は想像できるさ。……あれだけの巨漢が倒れたら、そりゃ介護も大変だろ。よく最後まで看てやったよな」
「やっぱり私たちは親子だから、どうしても……ね」
「そうか。……まあ、飲めよ」
孝介は弘子に徳利を向けた。
「今日は遠慮するな。酔い潰れたら、俺が家まで送ってやるから」
「別に帰る必要なんかないのよ?」
「ん?」
「今夜はどこかに泊まっていかない?」
弘子はそう微笑みながら、孝介の徳利にお猪口を当てた。
孝介はピクリとも笑わず、
「……俺は結婚してるんだ」
と、返した。
「ええ、知ってるわ。横綱が教えてくださったから」
「すまん、弘子」
「何で謝るの?」
「俺はお前を捨ててアメリカへ逃げた」
「捨てたって……私はそうは捉えてないけど」
弘子はお猪口の中身を一気に飲み干し、
「謝るのは私のほうよ。父の犯罪に気づくことすらできなかったから」
そう言って、不意に立ち上がった。
弘子はお猪口を持ったまま、孝介の左隣に腰を下ろす。そのまま弘子は彼の左肩に頬を寄せ、腕に抱き着いた。
「孝介さん、今でも私と父を恨んでるんじゃないかと思ってた」
「そんなこたぁねぇさ。そもそも俺は、お前と親方が恨めしいと思ったことは一度もない」
孝介は弘子の左手に自身の右手を添え、
「本当にすまなんだ」
と、もう一度謝罪した。
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