今夜はJR上野駅近くのホテルに予約を入れた松島夫妻。さすがに酒を飲んだ状態でロードスターを転がすわけにもいかない。
ホテルからは徒歩でJR御徒町駅近くの四川火鍋料理店『大虎』へ移動することができる。夫妻が数年前から唾をつけているこの店に、今回は元横綱皐月富士の品山親方こと工藤武史とその妻の光を招待している。
松島夫妻が入店して約10分後、孝介よりも長身で肩幅も広い男と、150cmがせいぜいという短躯の女性が登場した。
「親方、女将さん、今夜はありがとうございます!」
品山夫妻を確認した孝介は椅子から立ち上がり、そう挨拶した。
「よぉ、元気そうだな」
「松っつぁん、久しぶり!」
光は明るく笑いかけ、
「彼女が松っつぁんのお嫁さん? へぇ~、すごい美人じゃん!」
実年齢よりも20歳は若い口調で真夜にも話しかける。
「初めまして! 私は工藤光。気軽に“光”って呼んでいいよ」
「は……はい、光さん」
真夜はそう返しながら光と握手を交わしたが、実はその意識は別のところにある。
品山親方とは初めて会うが、まさかここまで威圧感……いや、威厳に満ちた男が出てくるとは思いもしなかった。
この迫力は、富士山を思わせるものだ。「皐月富士」という四股名の通りの圧が真夜にも迫っている。そしてこれは、もしかしたら魔王デルガドですらも凌駕してしまうほどのオーラなのでは……と真夜は悟ってしまった。
闇の地を統べる絶対権力者デルガド。その命令に逆らおうものならすぐにでも処刑されるという気配が、彼の体躯から常時溢れ出ている。深い闇と絶望の権化、それがデルガドだ。
一方で品山親方は、晴天の空をどこまでも突き抜ける勢いの「大きな存在」である。よく見れば品山親方とデルガドの身長は同じくらいだが、存在の巨大さは身体からもたらされるものではない。仮にデルガドの胴体と腕周りが品山親方ほど太かったとしても、目前にそびえ立つ富士山のようにはならないはずだ。
真夜は緊張と恐怖で、手の震えが止まらない。
それを見かねたらしい孝介が、
「真夜、気持ちは分かるが安心しろ。親方は心も大きな人だ」
と、声をかけた。すると品山親方は「よせよ」と口にし、
「今でも嫁に小遣いをせびる男の心が広いわけないだろ」
落ち着いた口調ながら、機嫌が良いことを窺わせる言葉を発した。
*****
横綱皐月富士の成績は、大相撲のことなどまったく知らない真夜が聞いても「すごい」と感じられるほどだ。
18歳で初土俵を踏んだ工藤は、20歳で十両、21歳で新入幕、23歳で小結に昇進した。孝介が入門した頃には既に関脇で、そこから難なく大関に昇進、そして2場所連続全勝優勝を収めて25歳で横綱に昇進した。
35歳で引退するまでに32回の幕内最高優勝を掴み取った、堂々の大横綱である。
「今夜はお会いできて光栄です。私は工藤武史と申します」
品山親方は礼儀正しく、真夜に会釈した。
「旦那さんとは、ちょっとした縁でして……。まあ、今更説明は不要と思いますが」
「は、はい……。ウチのコウの先輩、ですわね」
「奥さんは旦那さんのことを“コウ”と呼んでいるんですか?」
孝介の向かいの席に座る品山は微笑み、
「なら、私も彼を“コウ”と呼んでしまいましょうか。旦那さんの引退以来、呼び名は今も定まっていないですから」
と、軽口を叩いた。孝介は少し恥ずかしそうに、
「今まで通り“マツ”で構いませんよ、親方」
「だが、大井谷部屋に松本ってのが出てきてな。お前も知ってるだろ? 幕下付け出しから4場所で入幕した奴。あいつも“マツ”って呼ばれてるんだ。混同するのはいけないからな、お前の呼び名を変えようと思ってるんだよ」
「そりゃあ困った」
頭を抱えて苦笑した。そして紹興酒を一口飲み、
「俺のことを知らない関取のほうが、今じゃ多数派なんですかねぇ」
「いや、大松樹をまったく知らないって奴はさすがにいない。ただ、物心ついた時にはもうお前が引退していたっていう奴はいる。……時代の流れってのは恐ろしいな」
「まったくもって」
ふたりの男は心底楽しそうに笑った。
品山親方は麻辣火鍋の牛肉を小皿に分けつつ、
「まあ、昔はいろいろあったが俺はとにかく安心してるんだ。こうして賢そうな奥さんを連れてるんだからな。お前の場合は、人一倍聡明な女性がそばにいたほうが絶対にいい。でないとダメになる」
と、不意に真夜の目を見てこう言った。
「私からも感謝申し上げます、奥さん」
「え?」
「マツ……いえ、大松樹は奥さんもご存じであろう過去を持った男ですが、決して悪い人間ではありません。それを奥さんは、間違いなく見抜いておられる。だからこそ、この男と所帯を持ったのでしょう」
品山親方は優しい笑みを向けながら、
「本当に、ありがとうございます。感謝してもし切れません」
そう言って頭を下げた。
この品山という人物、恐ろしいまでの威厳を放っているが中身は炭火のように温かい。
皐月富士と大松樹は、当初は「関取と付け人」の関係だった。が、実はこのふたりは部屋が違う。皐月富士は品山部屋、大松樹は梅咲部屋だ。この両部屋は同じ一門で所在地も同じ町内、そして当時の品山部屋は小世帯だったから、梅咲部屋から付け人を融通していた。
しかし部屋が違う以上、幕内の本割では皐月富士と大松樹はもちろん当たっている。対戦成績は皐月富士の6戦6勝。真夜も動画でこの両者の取組を視聴したことがあるが、大松樹がどんなに全力でぶつかっても皐月富士はそれを簡単にひっくり返してしまうのだ。そもそも、立会い前からして勝負がついている。皐月富士との取組に臨む大松樹はいつも緊張した顔をしていたが、逆に皐月富士は「どこからでもかかってこい。俺は絶対に負けない」と主張しているような雰囲気が漂っていた。
「格が違う」とは、まさにこのことだと真夜は感じてしまった。この「格」に対抗できる者は、闇の地を含めてどこの世界にも存在しないだろう。
魔王デルガドの気配はどこまでも殺気と恐怖で固められているが、品山親方は実際に話してみると柔和かつ安寧そのものの雰囲気である。言葉の端々から、会ったばかりの異性に気遣っているということがはっきり伝わってくる。それが大横綱皐月富士の「格」の表れであることは一目瞭然である。真夜が35年の半生で知り合った中では、間違いなく頂点に君臨する紳士だ。
彼と話すと、こちらもだんだんと朗らかな気分になっていく。
大横綱とは、ここまで高潔な人格が備わっているのか!
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