孝介は例の居酒屋チェーン店夢国で熱燗を飲んでいる。
案の定、左肩に弘子を添えながら。
この体勢のまま、特に何かしようとするわけでもなくただただ酒を飲む。孝介の左腕に抱き着く弘子は、徳利を傾けて中身を注ぐ。
ふと弘子は、
「孝介さん、子供欲しい?」
と、質問した。
「……子供?」
「もう40過ぎなんだから、そろそろ子供くらい持たないとって焦ったりしない?」
「さぁ、どうだかな」
「私、まだ子供産めるかも」
直後、孝介は明らかに驚いたような目で弘子を見た。だが、
「ふふふ、冗談よ」
と、弘子は孝介をからかう。
が、孝介は気が気ではない。この女のからかい癖は昔からのもので、しかもからかいながらもその内容に対して本気だったりする。逆に言えば、本気だからこそからかうのだ。弘子は己の心情を言葉で表現することができない、不器用な女である。
それに、孝介の左肩に頭を添える仕草も同棲時代から何も変わらない。
そう、何も変わっていないのだ。弘子は俺に対して、あの頃と同じように接している――。
「孝介さん、今夜まだ時間ある?」
そう問われた孝介は、
「すまんな、家で嫁が待ってるんだ」
と、返す。
「あと10分ほどでここを出ねぇと」
「今夜は帰らなきゃダメなの?」
「この前は早く帰らなんだせいで、嫁が機嫌を損ねちまったのさ。次は顔を引っ掻き回されるかもしれねぇ。ここがアメリカだったら、俺のみぞおちに12ゲージを食らわせるんじゃねぇかってほどの怒りっぷりだ」
「日本に銃刀法があってよかったわね」
弘子は孝介の左腕を強く抱きしめ、
「なら、私と一晩過ごしても命は取られないということでしょ? だったら……今日は私と過ごさない?」
と、問いかけた。
*****
結局、孝介は弘子と一夜を過ごすことはしなかった。
が、その代わりに帰宅時間がずれ込んでしまった。玄関のドアを開けたのは、午後11時54分。そして案の定、怒りに満ちた顔の真夜が仁王立ちで待っていた。
「……約束破ったわね?」
「ああ、すまなんだ」
「“すまなんだ”じゃないわよ!」
真夜は大きな足音を立てて孝介に歩み寄り、
「今夜は11時までに帰ってくるって、私と約束したでしょう? なのに1時間も遅くなったって、一体どういうことなの? ねぇ!」
と、両手で孝介の胸倉を掴んだ。
その時、彼のワイシャツから嗅ぎ慣れない香りが発生した。
孝介もたまにオードトワレを使用するが、今日は何もつけていなかったはず。それにこの香りは、紛れもなくレディース用のパルファムだ。
「……コウ」
「何だ?」
「他の女と会ってきたの?」
そう言われた孝介は、ほんの一瞬だがはっきりと目を大きく見開いた。秘密がバレた、というような表情である。そして、
「……まあな。物書き仲間と一緒に、ちょっくらキャバクラへな。まあ、これも仕事の肥やしだ。文句言うな」
と、打ち明けた。
「キャバクラ……?」
「カネ払って姉ちゃんと飲むところだ。抱いてはいないから安心しろ」
孝介は未だワイシャツを掴む真夜の手を優しく解き、
「それよりもシャワー浴びさせてくれ。いい加減汗だくでな」
そう言いながら、ワイシャツのボタンに手をかけた。
真夜は耳を疑った。
この世界の「キャバクラ」というところがどういう店かは、彼女も知っている。が、そんなことはどうでもいい。問題は「他の女と会ってきたの?」と問い詰めた直後の孝介の表情だ。
彼は図星を突かれたような顔を見せた。
そしてその後に説明したキャバクラ云々は、明らかに嘘である。もう10年も付き合っているのだ。嘘をついた時の仕草くらい、ちゃんと把握している。
つまり孝介が今夜会った女は、本当に「女」かもしれないということだ。
<ヒルダと大松樹・終>
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