帰宅直後、真夜は寝室で服を脱いだ。
先ほどのドライブの最中で年齢の話が出てきてから、やたらと下腹部が気になって仕方がない。
真夜の出身世界にはない「ガードル」というものを初めて履いたのは、半年前のことだ。その日以来、真夜は異世界の便利な発明品に完全に頼り切っている。これは本当にスグレモノだ。下腹部も尻も程よく持ち上がる上、骨盤の歪みも矯正してくれるからとても楽。さらに言えば、気温の下がった日もガードルを履いていれば暖かい。が、同時にこのガードルは若い娘が履くものではないということもよく知っている。
平たく言えば、自分の下半身に弛みが出てきたということだ。
タイトスカートとストッキングだけを脱いだ真夜は、前面に見事な花柄刺繍が施されたベージュ色のショートガードルをじっと睨んだ。自分が年を取ったことは認めたくない。が、これに頼らない生活はもはや考えられない。他の魔操師仲間には言ってないが、既に3枚ほど闇の地に持ち帰っているほどだ。
真夜は1回大きくため息をつき、ベッドの上に腰を下ろした。
今は下腹部のことなんかどうでもいい。それよりも、ジョーから借りた天狗の本を読まなくては。
*****
真夜が寝室で読書に耽っている頃、孝介はリビングでスマホを耳に当てていた。
通話相手は元横綱皐月富士の品山親方である。突如、向こうから電話をかけてきたのだ。
「お、お世話になってます横綱! いや、親方!」
孝介の特徴でもある粗野な口調はどこへやら、今は緊張に満ちた丁寧な言葉遣いを口にしている。
「悪いなマツ、突然電話かけちまってよ」
「いえ、とんでもない!」
「どうだい、結婚生活は?」
電話の向こうの品山親方は、その顔を見なくても笑っていると分かるほどの上機嫌な口調だ。
「は、はい。まあ、何とか上手いことやってるかと……」
「そうかそうか、そりゃよかった。で、式の段取りは決まったのか?」
「え?」
「式だよ、結婚式。今年中にやるのか、それとも来年にするのか」
そう問われた孝介は、
「い、いえ……式はまだ考えていません」
と、申し訳なさそうに返した。
「考えてないって、そりゃどういうことだ? 籍はもう入れたんだろ?」
「ええ、そうですが……」
「なのに式をしねぇってのは、そりゃ嫁さんが可哀想じゃねぇのか? それともお前、式を挙げない理由でもあるのか?」
その問いに続いて品山親方は、
「まさか、まだ弘子さんのことを引きずってるのか?」
と、言った。それに対して孝介は「い、いえっ!」と若干動揺しながら返事する。
「そんなことはありません。そ、そんなことは……」
「おいおい、何だか慌ててるじゃねぇか。図星か?」
「親方、俺は弘子とはもう長いこと会ってません。互いの連絡先も知らないくらいです」
「そうなのか? それじゃあ――」
品山親方は引き続き上機嫌な様子で、
「先月、先代の梅咲が亡くなったことも聞いてねぇのか?」
そう問いかけた。直後、孝介は膠着してしまう。
先代即ち15代梅咲は、大松樹の師匠である。
が、もし梅咲親方がこの世を去ったのであればスポーツ新聞にそのことが載るはずだ。無論、孝介の目と耳に届かないはずがない。ところが現実は、ここで品山親方に聞かされるまで孝介はその事実を知らなかった。
「まあ、仕方ねぇことだ。弘子さんは先代梅咲のその後のことをマスコミに公開しなかったからな。式も密葬でやったらしいから。俺には一通りの連絡だけくれたが、それだけだ」
「……そうですか……」
「脳梗塞に糖尿病、あと大腸癌まで発病してたってのは聞いた。最後の3年ほどは、弘子さんが付きっきりで介護してたらしい。……本当によく頑張ったと思うよ、彼女。どこにも顔を出せなくなっちまった親父さんを、仏になるまで看てやってたんだから。あの親父さんのせいで今も所帯も持てずに——」
「弘子は結婚してないんですか?」
孝介は即座にそう問い返した。
「ああ、お前との婚約破棄以来ずっと独りを通しているらしい。他の男を探す暇がなかった、ということだろうが」
「……やっぱりあの時、俺があんなことをしでかしたから――」
「お前のせいじゃねぇよ、マツ。むしろお前は協会を変えてくれたじゃねぇか」
品山親方は孝介を慰めるような口調で、
「お前が犠牲になってくれなんだら、ハワイ生まれの三川丸さんが理事長になることもなかっただろ。俺たちの悪癖が世間一般で議論されることも、今のような風通しのいい両国を作り直すこともなかった。それでいいじゃねぇか」
「ですが、親方……」
「何ならお前、弘子さんに会ってみるか?」
そう言われた孝介は、急激に心拍数を上げた。それを見越しているかのように品山親方は、
「彼女の電話番号、教えてやるよ。何なら俺が事前に話をつけてやってもいいぜ」
と、付け足した。
が、そこへ2人の会話に割り込むように、
「コウ、コウ! ちょっとこれ見て! この本、すごいことが書かれてるわよ!」
孝介のいる空間から、元気な女の声が湧き起こった。寝室で読書をしていたはずの真夜である。
「コウ、これを読みなさい! 天狗は異世界へ行く能力の持ち主って書いてあるわよ! ほら、ここよここ!」
などと興奮する真夜の格好は、上半身こそ白いブラウスを着ているが、下はタイトスカートを脱いだ状態。ベージュ色のショートガードルが、ブラウスの裾の端から露わになっている。そんな姿で本を片手にはしゃいでいるのだから、孝介は頭を抱えてしまった。
「真夜、電話の邪魔すんじゃねぇ! 俺は今、誰よりも偉い人物と深刻な話をしてるんだ」
「あら、それは誰なの?」
「いいからベッドに戻ってろ!」
「なっ! 私をコケにする気!? 許さないわよ!」
「うっせぇ、とっとと向こうに戻れ!」
通話を終了しないまま夫婦喧嘩を始めてしまった後輩に、
「おお、なかなかのおしどりっぷりじゃねぇか。これなら俺が心配してやることはねぇか」
品山親方はそう話しかけた。
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