割烹みかみの店主、三上麻由子は求人募集の貼り紙を作っている。
筆ペンで「従業員<板前見習い>募集」と書いたのはいいが、そこからペンが止まってしまった。数分間思案し、
「ねぇセンちゃん、やっぱり見習いさんはなるべく若い子がいいかなぁ?」
と、カウンターで柳刃包丁の手入れをする黒崎仙次に質問した。
「見習いでござんすか? そうさねぇ……あたしとしては、別に自分より年上でもよござんすが。一番大事なのは、やっぱりやる気でしょうから」
「センちゃんより年上の人が板前の見習いをやりたいって、なかなかないと思うけど」
麻由子は苦笑しながら、
「やっぱりこれは、若い子に的絞ったほうがいいよね? 私としては、10代の子を雇いたいなって思ってるの。だって、できるだけ若いほうが覚えもいいでしょ?」
と、返した。
「そりゃそうでござんすが……今の時期に職を探してる10代ってなぁ、あまりいるとは思えませんなぁ。高卒予定の子なら別でしょうが、すぐに雇えるってぇなると話は違ってくるんじゃねぇでしょうか」
「ハロワに求人出すべきかなぁ?」
麻由子がそう言ってため息をついた時。
出入口の戸がカラカラを開いた。まだ開店15分前だが、今日は松島夫妻が開店時刻から着席するということで承っている。
「ごきげんよう、麻由子さん」
そう声をかけながら入店したのは、松島真夜だった。
「いらっしゃい! 真夜ちゃん、絵本の制作は順調?」
「まあ、今のところはね。来週あたり、編集部に原稿を提出できるかも」
「へぇ~、すごい!」
麻由子は真夜をカウンター席に導きながら、
「ところで、コウちゃんはまだ仕事なの?」
と、質問する。
「ええ、出版社に呼ばれたとか何とかで。もうすぐここに来ると思うわ」
「今日の予約は3人分でしょう? コウちゃん、お友達でも連れてくるのかな?」
「多分ね。コウの仕事仲間だと思うけど」
そこへ仙次が、
「真夜さん、今日はちょうど特別のカツオが入ってきましてね。高知県にいるあたしの知り合いの漁師が釣ってきたものでして、正真正銘の産地直送でさぁ。松島先生がお出ましになったら、すぐにでも新鮮なタタキをご用意致します。へい」
と、真夜に声をかけた。
「期待してるわ。センの料理は、私の生き甲斐のひとつなの」
「ははは、そう言っていただけるとあたしも助かります」
そう言葉を交わした直後、出入口の戸が再び開いた。
「よぅ、待たせたな! 厄介者のお出ましだぜ」
いつもの口調でいつもながらの皮肉を言いながら、松島孝介がみかみに入ってきた。
そんな孝介の後ろから、彼よりも遥かに若い男が続いた。まさに「青年」と呼ぶべき年頃で、顔に若干の幼さが残っているほどだ。傍から見ても明らかに緊張している様子で、みかみの暖簾を遠慮がちにくぐった。
「あら、いらっしゃい! コウちゃん、その人が今日のVIPさん?」
「まあな。俺のダチだ」
「へぇ~、随分若い友達ね!」
「まだ19歳だ。篠原竜也ってんだ。みんな、仲良くしてやってくれ」
孝介は竜也の肩を叩きながら、店内の一同にそう呼びかけた。
真夜は竜也の顔を見て、唖然とした。
彼は光の魔操師ヒューだからだ。
「真夜、お前はこの兄ちゃんを知ってると思うが……まぁ、優しくしてやってくれないか。こいつはな、以前のことを謝るためにわざわざ中野の自宅から神保町まで来てくれたんだ。それに――」
孝介は真夜の目を見つめ、
「俺とこいつとは、もうダチなのさ。だから、な? そのつもりで竜也に接してほしい」
と、嘆願した。
驚愕の顔で竜也を見ていた真夜は、軽くため息をついた。そして目を閉じ、数秒かけてそれを再び開ける。真夜の表情は、若干の苦味を滲ませた笑顔になっていた。
*****
竜也にとって、これが初めての割烹である。
仙次がカウンターテーブルに置いたカツオのタタキを、竜也は恐る恐る口にする。生姜とポン酢の香り、そしてカツオ本来の旨味が絡み合い、竜也の舌を楽しませた。
美味い。これは冗談抜きで本当に美味い!
「どうだ、悪くねぇだろう?」
孝介にそう問われた竜也は、
「はい!」
と、素直に答えた。「悪くない」どころか、こんなに美味い料理は生まれて初めて口にしたというのが本音である。
「竜也、これちょっと飲んでみろ」
孝介は竜也の前にお猪口を置いた。麻由子が持ってきたばかりの熱燗を傾け、
「三朝正宗だ。美味いぞ。騙されたと思って飲んでみな」
と、竜也に勧めた。
「え? これは酒……ですよね? 俺、まだ19歳だから……」
「もう19歳、だろ? いいじゃねぇか、あと1年もしねぇうちに20歳になる予定なんだからよ。とりあえず一口飲んでみて、酒が苦手なようならやめりゃいいだけさね」
竜也は孝介に言われるがまま、お猪口の中の三朝正宗に口をつけた。
彼にとっては初めての日本酒である。一体どういう味なのか、まったく見当がつかない。しかし孝介の言葉を信じて液体を口内に流し込み、舌の感度を最大限に上げて味を確認する。
それは間違いなく、未知の体験だった。辛さだの芳醇さだのという単語の意味は分からないが、刺身と極めて相性のいい味わいということだけは分かる。とにかく「美味い」としか言えない。己の語彙の少なさが憎らしくなるほどだ。
お猪口の中の三朝正宗を飲み干した竜也は、
「……すいません、もう1杯いいですか?」
と、孝介に要求した。
*****
「私は当分の間、お酒は控えないといけないの」
真夜は麻由子と仙次にそう説明しつつ、自身の下腹部に左手をあてがった。
「真夜ちゃん、もしかして――」
「昨日、検査しに病院へ行ったの。そしたら……まぁ、そういうことだったわ。来年の夏が楽しみね」
直後、麻由子と仙次が歓声を上げる。
「本当!? 真夜ちゃん、おめでとう!」
「これはこれは! いやぁ、めでたい! あたしからも、何かお祝いをさせてください」
それに対して真夜は笑顔を見せながら、
「ありがとう。自分が母親になるだなんて、昨日まで全然想像できなかったんだけど……。ああ、それと急なスケジュールになってしまうけれど、1月に式を挙げることになったの。あなたたちにも招待状を送るから、検討してみて」
と、話した。
「検討するも何も、必ず行くわ。ねぇ、センちゃん?」
「さようでござんすとも。雨が降ろうと槍が降ろうと、式には必ず行かせてもらいます」
ここで仙次は「それにしても」と付け足し、
「松島先生も水臭い人だ。電話で予約する時にそのことを言ってくれりゃあ、先生のためにもっと腕を振るっていたのに」
そう言われた孝介は「はっ!」と笑い飛ばし、
「それじゃあ、まるで俺が乞食みてぇじゃねぇか。それに今夜は竜也のための宴会だからな。真夜の中にいる小僧のための宴会は、本人がこの世へ出てからだ」
と、お猪口を傾けた。そこへ、
「あ、あのっ! お、俺からもお祝いを言わせてください!」
三朝正宗で顔をほんのり赤くした竜也が、
「奥さん、ご懐妊おめでとうございます!」
と、真夜に向かって頭を下げた。
若干驚きつつも真夜は、
「ありがと」
笑みを浮かべ、そう返した。
*****
竜也をみかみの最寄りの駅まで見送った松島夫妻は、腕を組んで夜の街を散歩することにした。
「あの彼、話してみると案外いい子ね」
「だろ?」
「“向こう”で何度か会ったけど、それは敵同士としての対面だったから」
真夜は孝介の左腕に自身の右側頭部をあてがい、
「……コウ、ひとつ聞いていいかしら?」
「ん?」
「コウ、もしも異世界へ転生したら何をしたい?」
「転生? 何だそりゃ?」
「この世界での命を終えて、別の世界へ生まれ変わること……と言うべきかしら。それか、今の孝介のまま異世界へ転移するパターンでもいいけれど。とにかく、この世界とは全然違う世界へいろいろな能力を帯びた状態で生まれ変わるとしたら、どんな人生を送りたい?」
すると孝介は、
「はっ! そんなのはお前ぇ、とっとと自分で首吊ったほうがマシさね」
と、吐き捨てた。
「俺の親父の家は浄土真宗の檀家で、お袋の家は浄土宗なんだがな……。生まれ変わった先が人間界ってのは、あまりいいことじゃねぇんだ。世界とやらがどこだろうと、人間としてのしがらみがある限りはどう贔屓目に見てもそこは人間界さ。俺が目指すのは極楽浄土。それだけさね」
「ゴクラク……ジョウド?」
「近いうちに築地本願寺に連れて行ってやる。京都のお西さんにも行くか」
「……コウは異世界には興味ないのね?」
「ああ、微塵もねぇな。俺は生きてる限り、日本という国で家を構えるつもりだ。俺は日本が何だかんだで一番好きだし、それ以外の国で生きるための根性もねぇからな」
孝介は寝待月が輝く10月の夜空を見上げながら、
「そもそも俺は、この世界が好きなのさ。人間も好きだ。己の寿命が尽きるまでは、いつまでもこの国で暦を数えて毎日気ままに暮らしてらぁな」
と、真夜の腰に左腕を回した。
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