「篠原さんという方が、松島先生にぜひお会いしたいとのことです」
大手出版社大衆文芸館の『趣味の歴史研究』編集部から、そのような電話があった。
孝介は篠原とやらにまったく聞き覚えはないが、編集部曰くその人物は上野の神社と鎌倉で孝介と話した……とのことらしい。
それに該当する孝介の知り合いは、ひとりしかいない。
早速明日、神保町の大衆文芸館ビルに行く約束を編集部と取り付けた。
*****
大衆文芸館ビル7Fの会議室。
そこには孝介の知っている顔がいた。自分のことを「大松樹さん」と呼んでくれた、例の青年である。
「おう、上野の兄ちゃん! あれからどうだ、元気にしてたか?」
孝介は満面の笑みを浮かべながら、篠原竜也に歩み寄った。
「こんにちは、大松樹さん」
「また会えて嬉しいぜ。あれから俺は、お前ぇさんのことが気がかりだったんだ。何せ名前を聞き忘れてたからな。篠原竜也、でいいのか?」
「は、はい……」
竜也は椅子に腰を下ろさず、孝介の前で申し訳なさそうな表情をしながら立っている。そして、
「大松樹さん、本当にごめんなさい!」
と、突然頭を下げた。
「ん?」
「俺は奥さんを傷つけました。それに、上野の神社で会った時に大松樹さんに嘘もつきました。俺、本当は大松樹さんの記事読んだことなかったんです。なのにファンだなんて嘘を咄嗟に……」
すると孝介は「はっ!」と笑い、
「何でぇ、そんなことか。竜也、お前ぇさんそのために神保町までわざわざ来たってぇのか? ……まぁ、座れよ」
と、竜也を会議室のパイプ椅子に座らせた。
「お前ぇさん、家は都内か?」
「はい、中野区です」
「それじゃあここまで来るのに大した苦労はしねぇな」
孝介も椅子に腰を下ろしながら、
「俺の嫁は元気にしてるぜ。最近じゃ絵本描くのに必死では、この出版社から1冊出す予定なのさ。そのせいか、食事の量も前より増えてやがるほどだ。……だから、竜也もこれ以上気にするな。あの時のこたぁ忘れちまえ」
優しく声をかけた。
「それで、今はどうなんだ?」
「え?」
「俺の記事、読んでくれてるのか?」
その問いに竜也は、
「はい!」
と、元気よく答えた。
「大松樹さんの記事、とても面白いです! 河童とかデイラボッチとか、あと天狗とか。天狗に弟子入りした少年って、本当にいたんですね」
「ああ、江戸時代にな」
「それに、自分の住んでる場所の近くにもいろんな史跡があるってのは意外でした。どんな土地にも伝説や言い伝えがあって、深い歴史もあることを大松樹さんの記事で勉強しました」
「実はな、河童もデイラボッチも天狗も俺の嫁が発案したネタなのさ。あいつ、日本の妖怪に興味があってな。今度は雪女について調査したい、とか何とか言ってるが」
「それじゃあ、取材は奥さんと一緒に?」
「まぁな。大抵はクルマに乗って現場に行くんだが」
「マツダのロードスターですよね? 最初の1,600ccのやつ」
「お前ぇさん、クルマ好きか?」
「はい! 俺、働いてカネを貯めたらNDが欲しいです」
「NDか、 あれもいいな! 試乗したことあるが、NCより軽くなってる分だけよく動くんだ」
孝介は上機嫌な笑みを竜也に見せ、
「ところで竜也、今夜暇か?」
「え? はい、俺はこの世界じゃまだニートだから……」
「メシでも食いに行くか? 俺が奢ってやるよ。お前ぇさんの家からは少し遠いかもしれんが、帰れねぇ距離じゃねぇぞ」
さらに孝介は、こう付け足した。
「俺の行きつけの割烹なんだが、どうだ? そこで思う存分クルマの話しようぜ」
「割烹……?」
「今から予約して、板前に何か旬の魚でも捌かせるかねぇ。……そういや仙次の奴、今年は戻りガツオが大漁だとか何とか言ってたな。お前ぇさん、カツオのタタキは食えるか?」
「は、はい! 俺、割烹とか日本料理の店に一度行ってみたいと思ってました」
「そりゃちょうどいい。……待ってろ、今からその店の主人に聞いてみるから」
孝介はズボンのポケットからスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
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