赤を基調にしたアロハシャツの男が、夕焼けに照らされながらこちらに向けて歩を進めている。
そのアロハシャツは、今にも破けんばかりに張っている。男の太い腕と分厚い胸板のせいだ。首から18金の鎖型ネックレスを下げ、白蛇の革靴を履いた強面の元関取――。
「真夜、お前一体何を……」
剣と魔術の戦闘に何の前触れもなく割り込んだのは、他でもない孝介だった。
ヒルダは自分の現在地を、孝介には一切伝えていない。そもそも、彼女のスマホはとっくに電池切れを迎えている。だが……いや、だからこそなぜ孝介がここにいるのか、ヒルダは見当がつかなかった。
しかしそれ以上に、ヒルダは奇跡が起こった瞬間を目の当たりにして極上の安堵感を味わっている。
コウが来てくれた……!
「お前ぇさん方は……?」
孝介はヒルダを包囲する4人を見渡す。やがて彼の目は、見覚えのある青年に釘付けになった。
「お前ぇさん……上野で会った兄ちゃんかい?」
ヒューにそう呼びかけながら、彼のそばへゆっくり近づく。ここは砂浜で、しかも孝介は革靴履き。にもかかわらず、身体の中心軸が全くブレない歩行でヒューに接近した。
「そう……間違いねぇな? お前ぇさん、あの時の兄ちゃんか?」
そう問われたヒューは
「は……はいっ!」
と、緊張と恐怖を顔に滲ませながら答える。
直後、孝介の表情が柔らかくなった。
まるで熱した鉄板の上に置いた氷のように、元関取の顔が柔和になっていく。そして、
「そうか、やっぱりあの兄ちゃんか! 会いたかったぜ!」
と笑顔で呼びかけ、石のように膠着したヒューの両肩に手を乗せた。
「お前ぇさん、俺のつまらねぇ講釈を真面目に聞いてくれてたよな。今日は何だ? 鎌倉や北条得宗家のことを勉強しに来たのか、えぇ?」
「あ、い、い、いや……そ、その……」
しどろもどろのヒューは、口で答える代わりに仲間のいる方向へ目を向ける。
孝介はそれに従った。そこにいるのは砂浜に崩れ落ちるヒルダを追い詰めた、キシロヌ王国のパーティーである。もちろん、孝介は異世界のことなど何も知らないが。
セシリアは未だヒルダにレイピアの先を向けている。そのモーションのまま、突如現れた孝介に険しい視線を当てている。
そんな彼女に、孝介は歩み寄った。
「よう、姉ちゃん――」
そう呼びかける孝介に、
「な、何だ貴様は!?」
と、セシリアはレイピアを突き出す。しかし孝介は全く動じず、ヒューに向けたのと同様の笑顔をセシリアにも見せながら、
「姉ちゃん、何だか邪魔しちまったようで悪ぃな。……そのおばさんはな、俺の嫁なのさ。この前所帯を持ったばかりの、俺にとってはかけがえのない女でな」
孝介はまさに嘆願するような口調で、
「何があったのかは知らねぇが、もし揉め事の最中ってんなら勘弁してやってくれ。いや、こいつは気性が穏やかじゃねぇから、姉ちゃんにもいろいろ手間かけさせたってぇのは分かるんだ。それを承知の上で、こんなスレたおっさんが中身の詰まってねぇ頭下げて頼むんだがな……。許してやってくれ、な?」
セシリアに呼びかけた。
「ば、馬鹿なことを言うな! 貴様もヒルダの仲間なのだろう? 魔王の手先は誰であろうと、私が討伐してくれる!」
女騎士はそう返し、引き続きレイピアを孝介に向ける。が、レイピアを握る彼女の右手は震えている。それは1秒毎に顕著に、そして激しくなっていった。
ヒューはセシリアの気持ちを余すところなく理解している。
元前頭大松樹は、その四股名の通り庭園に佇む1本松のような存在感を発揮している。それは攻撃的な威圧感ではなく、この先自分たちがどんなアクションを起こそうとも全てを無効化してしまうような「人の大きさ」だ。レイピアの刃先を目の前にしてもまったく動じず、むしろ敵愾心剥き出しの相手を優しい心で包んでしまうこの雰囲気――。
そうだ、これが関取なんだ! 皐月富士さんの太刀持ちをやってた時と全く同じ雰囲気だ! ヒューは胸の内でそう叫んだ。
「姉ちゃん、お前ぇさん……好きな男はいるのかい?」
孝介はセシリアにそんな質問をした。
「え?」
「寝てる時以外はいつもそいつのことを考えてる、ってほどの男さ。そういう経験は、お前ぇさんにもあるんだろう? どうだい?」
それに対してセシリアは慌てがちに、
「そ、そんな男はいない!」
と、答えた。
「そんなこたぁねぇだろ。顔に書いてあるぜ。お前ぇさんもしっかり恋をしてるってぇことがな。……それと同じさね。俺はそのおばさんに恋をして、ようやく最近所帯を持つことができたのさ。だから、な? そんな物騒なものはしまって、みんなで夕日を眺めながら将来の夢でも語り合おうぜ。姉ちゃん……名前は何て言うんだ?」
「セシリアだ! セシリア・エリスバルト。私はエリスバルト家の後継――」
「セシリア、俺ぁお前ぇさんが誰かに似てるとさっきから思案してるんだがな。何てこたぁねぇ、10年前の嫁によく似てらぁ。目元も、身体も、勝気なところも、それに男どもを片っ端から奴隷にしちまうような色気もな」
すると孝介は、セシリアの隙を突くような摺り足で彼女に急接近した。レイピアの先端を回避し、それを取るセシリアの右手を掴む。
「なっ! や、やめろ!」
セシリアは抵抗しようとするが、彼女のレイピアはいとも簡単に孝介の手に渡った。
「何をする! 返せ!」
「取り上げるこたぁしねぇさ」
次に孝介は、セシリアの腰に下がる鞘を掴んだ。
「えぇと……こりゃあ入れるのに正しい向きでやらなきゃダメかね? これをこうして……ああ、入った入った」
「やめろ! 自分でやる!」
セシリアは孝介からレイピアの取っ手を奪い返し、そのまま刃を鞘に収めた。
「よぉし、それでいい。……そこのデカい兄ちゃんも、その刃物をしまってくれ。こんなところじゃ無粋なだけだぜ。兄ちゃん、お前ぇさんも女にモテたいんだろう?」
孝介はグレゴリーにもそう呼びかけ、
「海ってのはな、ギスギスした気持ちのままで見るもんじゃねぇのさ。何て言うか、こう……テメェが抱えてる不安やら憂いやらを、水平線の向こうに投げ捨てちまうのさ。ほら、兄ちゃんもあそこ見てみろよ」
グレゴリーに歩み寄り、彼の背中を叩きながら孝介は海原の向こうに浮かぶ島影を指差す。
「俺が指差してるところな……ありゃ伊豆大島だ。俺はな、今年の3月にこのおばさんと桜を見に行ったんだ。ソメイヨシノじゃねぇぞ? 白くていい香りのするオオシマザクラさね。それが三原山の麓の樹海にな、まるで雪を被ったかのように広がるのさ。あと、椿の花と富士山……。兄ちゃん、知ってるか? あの島からも富士山が見えるんだぜ。ありゃあ、いくらか銭払ってでも惜しかぁねぇほどの景色だ。俺も真夜も、年甲斐もなく溜め息ついたっけ」
「え? あ、いや……」
「お前ぇさん、名前は何て言うんだ?」
「グ、グレゴリーです」
「グレゴリーか、いい名前だ。面構えも悪くねぇや」
するとそこへ、
「ダイショウジュさん、ですよね?」
と、孝介の背中に玲人が声をかけた。
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