夫妻は言問橋の歩道を浅草側から渡る。
正面の東京スカイツリーを眺めつつ、ゆっくり足を踏み締めるように歩く。隅田川から吹く風が、2人の肌を優しく撫でた。その心地良さに、真夜は溜め息をつく。
「気持ちいいわね、ここ」
そのように言葉を漏らした真夜は、
「ねえコウ、ちょっと待ってて。ここで川を観察してみるわ。河童が出てくるかもしれないし」
と、ショルダーバッグからオペラグラスを取り出した。倍率は10倍。4日前に家電量販店で買ったばかりのものだ。もちろん、遠距離から偵察する目的である。
しかし孝介は、
「真夜、そういうことは橋を渡り切ってからやらねぇか?」
と、告げる。
「どうして?」
「いや、まあ、何だ……。俺はここに来ると、どうしても気が気じゃなくなるんだ」
孝介は頭を掻きながら、
「母方のひい祖父さんと大叔母の最期の場所だからな」
「え?」
「戦争の時、このあたりはアメリカ軍の空襲で焼き払われたんだ。言問橋にも逃げてきた連中が集まってパニックになっちまって、そこへ焼夷弾が降ってきて……ということがあったんだ」
「空襲って、ドラゴン……いえ、飛行機からの攻撃のことね?」
「ああ、焼夷弾が雨のように落ちてきたって祖母さんが言ってたな。ひい祖父さんと大叔母は生きたまま焼かれて炭になっちまったらしい。祖母さんは別の方向へ逃げたから助かったんだがな……」
孝介は重苦しい溜め息をついた。
太平洋戦争のことは、真夜もこの世界の常識として知っている。そして今でもこの戦争が、日本人の心の傷になっているということも。だが、孝介の親族が戦争の犠牲になっていることは今初めて知った。
「真夜、お前この橋を渡る最中に親柱を見ただろ?」
「親柱? ……ああ、妙に黒ずんでいたあの柱ね」
「何で黒ずんでるか分かるか?」
「……いいえ」
「人間の肉と脂が焼夷弾の火で焦げついたから、ああいう色になったんだ」
「えっ……!」
真夜は絶句してしまう。そして先ほど通り過ぎた親柱の方向に視線をやる。生きたままの人間を焼き殺した跡が、今でも残されているの!?
「な、なぜ……?」
「ん?」
「なぜ柱を新しくしないの? そんな恐ろしい痕跡は——」
「撤去するわけにはいかねぇよ」
孝介はそう返し、
「思い返したくねぇ記憶は、忘れちゃならねぇ記憶だったりもする。俺は己の一族がここで無念の最期を遂げたことを絶対に忘れねぇし、子供ができたら必ず語り継ぐ。それが人間の進歩ってやつだ。そういうことをしなくなったら最後、もう一度この橋は焼かれるぞ」
と、静かながら力強く語った。
「……それに、隅田川の河童も空襲を見ていたはずだ。きっと、いや、間違いなくここの河童は人間を馬鹿な動物だと思ったはずだぜ」
「そう……なの?」
「そりゃそうだろ。読み書きと数学のできる大人が、赤ん坊も年寄りも容赦なく焼き殺す戦争を始めやがったんだ。河童はそんなくだらねぇことはしねぇさ。川の中を悠々と泳いで、たまに人間を驚かすために水面から顔出すのが関の山だ」
そう言葉を連ねる孝介は、平静を保ちながらも憤慨しているようだった。少なくとも、真夜はそう感じた。
私はコウと10年付き合っているから、彼の性格はよく知っている。屈強な肉体を持った戦士だけど、人を痛めつけることは大嫌いなのよね。ましてや殺すことなんて――。
真夜は孝介の太い腕を取り、優しく抱き寄せた。同時に、
「だから憎めないのよ、コウのこと」
と、孝介に聞こえない音量でそう告げた。
その時だ。
真夜は視界の端、隅田川の水面に黒い影があることに気づいた。しかもその影から、人のような顔が露出したではないか。
緑色の皮膚を持った人……いや、人型の生物である。
「コウ、あれ……!」
真夜は指を差した。孝介はその方向に目をやる。すぐに彼も、異形の存在に気づいたらしい。
「あれは……何だ!?」
そう言いながら孝介は、言問橋の欄干から身を乗り出した。
直後、顔は夫妻の視線から逃げるように水中へ潜り、影もそのまま消えていった。そして何事もなかったかのように、該当の位置の水面は普段の揺れ方に戻った。
「ねえ、コウ! あなたもはっきり見たでしょ?」
「あ、ああ……」
「間違いないわ。あれは河童よ! 私たち、ついに河童を発見したのよ!」
飛び上がりながら孝介にそう告げる真夜。そして、
「もう一度、もう一度よ! せめてあともう一度、河童の姿をこの目にはっきり焼きつけるわよ! さあ、コウも本腰入れて見張りなさい!」
と、孝介の広い背中を両手で押した。しかし、
「……いや、もう出てこねぇよ」
孝介はそう返す。
「そんなことないわよ。この川の水深って、大したものじゃないんでしょ? まだ遠くには行ってないはずよ。さあ!」
「そういう話じゃねぇさ。あの河童は……恐らく俺と同じことを思い耽ってたのさ」
「え?」
「この橋の過去を思い返していたのさ。だから少しの間だけ顔を出したんだ。……そういうことにしてやれよ、真夜」
孝介は真夜の身体を半ば強引に抱き寄せ、
「そろそろ行くぜ。俺ぁ腹減っちまった。橋の向こうに着いたら、どこか適当な店で食わねぇか? 今日は隅田川の河童に乾杯してやろうぜ」
と、真夜の耳元で告げた。
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