入った部屋は、レティシアのために用意された部屋の五分の一もない、ベッドと椅子とテーブルが置いてあるだけの、一人用の客室だった。
ベッドメイキングされ、掃除の行き届いた白い清潔な部屋で、窓からはドミール帝国自慢の広大な庭園が見える。
「この部屋がどうかしたか」
別の部屋に入ってどうしようとまで、レティシアは考えていなかった。ただ、罠にはめるような行為は正しくないと思っただけだ。
「そんな深刻な顔は、お前には似合わない」
頬にヴェルガーの手が添えられ、長い指先で眉間の皺をほぐされる。
「今日のお前は、いつもに増しておかしいな」
いつもおかしいと思われていたのかとレティシアは思ったが、そこに触れている場合ではなかった。
「ヴェルガー様は、この大陸の支配者になるとおっしゃっていました。教えてください、具体的な方法を」
ヴェルガーは、銀色の睫毛を瞬かせる。
「まだ、先の話だ」
「ごまかさないでください」
レティシアは小さな唇を一文字に結び、ヴェルガーを見据えた。
「お前は、わたしのやり方について来る覚悟があるのか? それを尋ねるということは、そういうことだ」
「私は、間違ったことが嫌いです」
「間違っていない。結果的に、多くの民を幸福に導く」
「それは、一時期は混乱するということですか?」
「改革とは、そういうものだ」
レティシアは、ヴェルガーのオリーブ色の手を外した。
「誰かがやらねばならないことなのだ」
レティシアは眉をつり上げ、燃えるようなルビーの瞳で、姿勢よく立つ長身のヴェルガーを射抜いた。
「私と婚姻を結んだあと、私の国を、内部から侵食するおつもりでしたか?」
ヴェルガーはレティシアを見つめたまま、表情を動かさない。
「オルレニア王国の王族を暗殺して、混乱に乗じて、攻め込むおつもりでしたか?」
ヴェルガーの表情が、僅かに強張った。
「やはり、気づいていたのか」
レティシアは否定してほしかったと、内心で落胆した。
「マルセルさんたちの暗殺は、ヴェルガー様の指示ですね?」
「お前はどこまで知っている?」
「ヴェルガー様の計画が、失敗したところまでです」
ヴェルガーは息をはいた。
「お前が助けようとしていたのは、オルレニアの王子だろう。狙撃には成功しているはずだが、助かったのか」
「なんとか命を取り留めました」
ヴェルガーはベッドに腰掛け、長い足を組む。胸まであるプラチナブロンドの髪がサラリと揺れた。
「なるほど、失敗だ」
ヴェルガーは苦笑した。
「国王も狙っていたが、そちらは完全にガードされたようだ。王子には撃たれるし、私の部下もまだまだだ」
「私がマルセルさんのために動けなくなるよう、あの部屋に閉じ込めたんですね」
「まさか、四階の窓から逃げ出すとは思わなかったからな。どんな奇術を使ったんだ?」
レティシアは、ただ首を横に振った。「死神の力を借りた」と言おうと思ったが、幽体離脱以上に胡散臭いので、黙っておく。
「ヴェルガー様は、なぜこんなことをされるのですか?」
「繰り返しになる。それが、この大陸の民のためだと信じるからだ」
「国境をなくす方法は、他にいくらでもあるはずです」
「先導者が多いことが問題なのだと言っている」
ヴェルガーは膝の上で手を組んだ。
「皇帝陛下は、ヴェルガー様の大陸統一の計画をご存知なのですか?」
「いや。しかし、結果を出せば評価をする方だ。兄弟の誰よりも、わたしが後継者にふさわしいと、認めてくださるだろう」
「こんなことをされなくても、評価されていると思います」
レティシアは唇を噛みしめて目を伏せた。兄弟で足を引っ張ったり、手柄を奪い合っているのだろうと、悲しくなったのだ。なぜ仲良く手を取り合えないのだろう。
「ヴェルガー様は、頼れる方はおられますか?」
ヴェルガーは軽く首を曲げてレティシアを見た。その目つきは鋭い。
「何が言いたい?」
「信用されている方は、おられますか?」
「権力争いというのは、腹の探り合いだ。気を許すと負ける」
以前もそんなことを言っていた。だからレティシアは、傍にいるときは少しでもヴェルガーの心が休まるようにと、そう心がけてきた。
レティシアはヴェルガーの隣に腰を下ろし、オリーブ色の手を両手で握った。
「私が傍にいても、その考えは変わらないのでしょうか」
「なぜ、変える必要がある」
レティシアは思いが届かないことを、もどかしく思った。
「まだ、大陸の支配を目指しますか?」
「当然だ」
「ヴェルガー様……」
表情一つ変えないヴェルガーに、レティシアは泣きたくなった。
それと同時に、王たちに聞かせなくて良かったと、レティシアは思った。これでは、極刑も免れないかもしれない。
ヴェルガーの気持ちを変えるには、どうすればいいのか。
人一人の思想を変えるのは難しいだろう。
しかしこのまま、大勢の人たちを混乱の渦に巻き込むと分かっている人物を、野放しにすることはできない。
かといって、命をもって償うべきなのかといえば、今の段階では、そうではないとレティシアは思う。やり方が間違っているだけで、国を思う情熱は強いのだから。
マルセルやギルフォードが死んでしまっていれば、取り返しがつかなかったかもしれない。
しかし、生きている。まだ間に合うはずだ。
「私に、なにができるのかしら」
レティシアは呟いた。
「ただ、わたしの傍にいればいいと言っている」
レティシアのひとり言にヴェルガーは答え、レティシアの後れ毛をそっとなでつけた。
「傍に……」
しかし、それは叶わない。父王は、レティシアたちの婚約を破棄するつもりだから。そうなれば、レティシアがヴェルガーを更生させる機会もなくなってしまうだろう。
「そうだわ」
レティシアは閃いた。
ヴェルガーの両肩を強く掴む。
「ヴェルガー様、今すぐ私を、あなたの妻にしてください」
そう言うと、レティシアは勢いよくヴェルガーをベッドに押し倒した。
「どうした、一体」
ヴェルガーは驚いた表情でレティシアを見上げる。ストレートのプラチナブロンドの髪が、ベッドに広がった。
父王がヴェルガーとの婚約を破棄しようとしているのなら、既成事実を作ってしまおうとレティシアは思った。
王たちには、ヴェルガーが上手く言い訳をするだろう。マルセルが危惧していたように、マルセルの証言と証拠だけでは、罪に問うことは難しいはずだ。
それならばレティシアはヴェルガーの妻となり、傍にいて、常に監視し、これ以上罪を重ねさせなければいい。
そして少しずつ、別の価値観を見出してもらうのだ。
子供ができ、家庭を持てば、また考えも変わるかもしれない。
ヴェルガーは真摯に平和を願っている人だと思う。ただ今は、とても視野が狭くなっている。しかしそれは、時間をかければ変えられるものだと、レティシアは信じたかった。
「私があなたを、変えてみせます」
レティシアは使命感にあふれた瞳で、至近距離からヴェルガーを見つめた。
「この手のことは、嫌がっているとばかり思っていたが」
ヴェルガーのきつい目元が緩み、ダークグリーンの瞳が揺れた。
「お前は本当に、おかしな女だ」
「よく言われます」
「だが、それがなぜか、心地よい」
ヴェルガーの手が首筋に添えられて、ゆっくりと引き寄せられた。
唇が重なる。
色づいたヴェルガーの唇が何度もレティシアの小さな唇をついばみ、深く口づけられると、歯列を割って、生温かいものが奥まで侵入してきた。
「んンッ……」
初めての感触に、レティシアは体をこわばらせた。先日よりも濃厚なそれに、ゾクゾクとした感覚がこみ上げてくる。
力んだ体を解すように、背中を擦られる。腰に手が添えられ、完全にヴェルガーの上に身体が重なった。ダブレット越しだが、全身に引き締まったヴェルガーの肉体を感じる。
角度を変えて口づけられ、逃げようとする舌先が吸われる。とろとろに溶けても更に絡め取られた。
足先まで甘い痺れが走った。
「……ぁっ」
濡れた水音が漏れる。
初めて知る感覚は、恥ずかしくて、気持ちが良くて、おかしくなりそうだとレティシアは思った。
「遠慮するな。声を聞かせろ」
やっと離れたヴェルガーの湿った唇は、丸く小さなレティシアの顎をなぞり、細い首を通って、露出した鎖骨に降りてきた。
袖を落とされた肩に、優しく手が這う。
「あっ……」
自分から申し出たとはいえ、レティシアは未知の体験に震えた。羞恥と、純粋な恐怖だった。
ヴェルガーの柑橘系の香りが火照った身体にけぶり、濃密になって脳を満たしていく。
手をついていたベッドシーツをレティシアが握ると、白い波が広がった。
「ヴェルガー様……」
もう、なにも考えられない。
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