「ここが国境よ」
二人乗りで足場が悪いにも関わらず、馬はレティシアの肩ほどまである壁を飛び越えた。心地のいい浮遊感。
「見てない、聞いてないことにしたいです、わたしは」
医師が後ろで、悲しそうに呻いていた。
「近い未来、先生が三国を股に掛ける国際医師になる時代が、必ずくるわ」
それはレティシアの希望でもあった。
そんな会話を挟みつつも、レティシアの目は真剣だった。急に獣が飛び出してくるかもしれないし、障害物があるかもしれない。落馬をすればただでは済まず、レティシアは医師たちの命を預かっているようなものだった。
山がなだらかになってきた。無事に山のふもとまで下りてきたのだ。
しばらくすると、走りやすい地面になってくる。そのままオルレニアの王宮を目指した。
「よし、ペースを上げるわよ」
そう意気込んだが、町中に入ると、すぐにペースを下げることになった。人々の活動時間になってしまい、通行人が多くなったのだ。
四頭の馬が連なれば目立つ。しかもレティシアの格好は明らかに貴族、それもかなり階級が高いと分かるものだ。さすがに隣国の王女だとは思わないだろうが、町人が不思議がるのは当然だった。
王宮の周辺は見晴らしがよかった。豪華な大門が、遠くに見えてきた。
「ここではまだ、止まらない方がいいわね」
レティシアは、昨日逃げ出した時と同様に、またも馬のまま押し切ってしまおうと考えた。
止まる気配のない訪問者に衛兵はざわめき、数人が槍を取り出した。
「さすがに無理かしら」
この先の王宮まで、まだまだ距離がある。ここで降ろされて追い払われてしまえば、王宮に近づくことすらできないかもしれない。レティシアだけなら無茶をしたかもしれないが、後ろに三頭も続いている。
仕方がないと、レティシアがスピードを緩め、止まるように後ろに合図しようとした時。
「……ぁっ」
レティシアは驚いて言葉を呑み込んだ。
衛兵は槍を下ろし、半分ほど閉まっていた門が開き始めた。
「マルセルさんね」
レティシアは手を挙げて、衛兵たちに感謝を示した。マルセルによる、両親への説得が成功したのだろう。
ドミール帝国ほどの規模ではないが、見たことのない、別の大陸の花が咲き誇っている美しい庭園を抜け、王宮の前までやってきた。衛兵たちはざわめいているが、攻撃的な様子は見られない。
レティシアたちが馬から降りると、上等のダブレットを身に着けた、廷臣らしき初老の男性が、短い階段を下りてやってきた。男は名を名乗り、礼をする。
「レティシア・ド・ガリエンヌ王女殿下であらせられますか?」
「ええ。医師を連れて来たわ」
レティシアは、へとへとになっている五人の医師陣を手で示した。初老の男は静かに瞠目し、「こちらへ」とレティシアたちを促した。
「来たな」
「死神さん!」
姿の見えないセスに声をかけられて、思わず声を上げたレティシアは、注目されてしまった。医者たちに、「なんでもない」とごまかす。
「一晩中走りっぱなしか。ボロボロだな」
包帯を巻いた手のひらを、セスにつつかれる。ジクリと痛んで顔を顰めたが、声には出さなかった。
「これくらい、どうってことないわ」
レティシアは小声で強がった。。
「マルセルさんが説得したからと言って、お父様もお母様も、目覚めたら夢だった、と思わなかったのかしらね」
「たとえ夢だと思っても、二人同時に同じ夢を見たとなれば、意味があると思うんじゃないか? それに死にかけた息子が預言者のように枕元に立てば、捨て置くこともできまい。早朝から重臣たちに、ガリエンヌの王女を通すように伝達していた。門番には、馬で来るだろうことも伝えていたぞ」
だから大門も、問題なく通ることができたのだ。
「しかもあいつは、王女を追い返して自分が死ぬことにでもなったら、末代まで祟ると両親を脅していたからな。信仰の強いこの国じゃ、効果覿面だろう」
「マルセルさんたら、どんな顔でそんな事を言ったのかしら」
柔和な笑顔を浮かべているマルセルを思い浮かべ、レティシアは首をかしげた。
「あいつは、笑いながら人を足蹴にできる男だぞ」
「いやね死神さん、そんな冗談を言うものじゃないわ」
レティシアは眉を顰めた。
「……どんなフィルターをかけたら、お前のように善意しか見えなくなるのか。ここまで来たら、才能だな」
セスはうんざりした声を出した。
「マルセルさんも、今ここにいるの?」
「いる」
「そう。私、間に合ったのね」
レティシアはホッとしたが、セスの微妙な息遣いを感じて眉を寄せた。
「どうかした?」
「生きている霊体は、緒が見えると言っただろう?」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「それが、消えかけている」
「ええっ!?」
レティシアは驚愕して、声を張ってしまった。再び側近や医師たちに注目されるが、今度は気にしていられない。
「それって……」
「相当、危険な状態だ」
「大変! 急いでくださいっ」
レティシアは側近を急かした。
アーチ型の天井から光の入る回廊を駆け足で通過して、七人は三階の西端の部屋に到着した。
日中であるにもかかわらず、以前に来た時と同じように、窓には厚いカーテンがかけられていた。蝋燭の光で照らされた部屋は、鬱々としている。空気まで淀んでいるようだ。
レティシアたちが部屋に入ると二十人程の視線が集まった。霊体で来た時より人が増えているのは、マルセルの予言があったと知った重臣たちが、レティシアたちを見に集まったからだろう。
「マルセルさんのベッドは、あっちよ!」
本当にやってきた隣国の王女に、部屋の者たちがどう反応していいのか迷っているうちに、レティシアは自国の医者たちを促した。
「失礼いたします」
マルセルの傍にいたオルレニア王国の医師と、ガリエンヌ王国の医師が入れ替わった。
「いや、マルセルさん……」
マルセルを見たレティシアは、両手で口元を覆った。
昨日よりも、明らかに容態は悪化していた。ベッドに横たわるマルセルの血の気は失せ、赤みのあるはずの頬も唇も青白く、まるで死人のように土気色だった。
「大丈夫よね? 助かるのよね?」
縋るように、忙しく診察の準備をしているアルフレッドの肩を後ろから揺するレティシア。
「王女殿下、少し離れてください。他の皆様も」
ガリエンヌ王国の医師たち五人以外をベットから遠ざけたアルフレッドは、もう一人の医師に、マルセルの兄であるギルフォードを診るように指示をする。
アルフレッドはマルセルの掛け布団を剥ぎ、包帯を外していく。遠目だが、マルセルの左の肩口が変色しているのが分かった。
「弾痕ですな。弾は貫通」
マルセルも兄同様、銃で撃たれていたのだ。
「しかし問題は、感染症に罹患していることです。こうなる前に、なぜ薬を投与されなかったのですか?」
オルレニアの医師たちがざわめいた。
「感染症の治療薬など、どの国を探してもない」
貿易が盛んなオルレニアの医師は力強く、そして無念そうに言った。
「我が国にはあります」
まさか、そんなと、オルレニアの医師たちがざわめいた。
「しかしこの状態で、間に合うか……」
アルフレッドは小瓶の液体をマルセルにゆっくりと飲ませた。
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