「サファイアさん、大丈夫?」
レティシアはサファイアの広い背中に手を置いた。
「……僕は、マルセルだ」
「え?」
「僕は、マルセル・テュイリエ。……思い出した」
マルセルの碧眼は、知性の光を帯びた。
* * *
雲のない、よく晴れた昼下がり。
マルセル・テュイリエは一部の王侯貴族が参加する狩りに、父や兄と共に参加していた。しかし手にした銃には弾さえ込めておらず、まったくやる気がない。まるで従者のように兄と行動を共にしていた。
「座ったままじゃ、狩りをしたとはいえないよ」
皇太子であるギルフォード・テュイリエは銃を下に向け、油断なく周囲を見回しながらマルセルに話しかけた。
ピントゥ連峰の一つである山の斜面の中腹で、獲物が来るのを待っている。放っている猟犬が獲物を追い立て、逃げるところを待ち構えて撃つのだ。犬たちは鹿や猪や狐などを対象として、人には反応しないよう訓練されている。
仲間たちとは基本的に、銃弾が届かない距離で間隔を空けており、父王は山の反対側で待機しているはずだった。
「狙い通りに飛ばない銃で撃ったって、面白くないもの。外に出ろと父上がうるさいから来ただけだよ。兄さんの獲物を一頭、僕の手柄にさせて」
銃を足元に無造作に置き、膝の上のシロハヤブサをなでながら、木の下で本を読むマルセル。
「なかなか人に懐かないシロハヤブサを手懐けておいて。お前が本気を出せば、狩りだろうとなんだろうと、一番になれるだろうに」
「僕が一番になったって、仕方がないじゃない」
「マルセル……」
ギルフォードは振り返った。
「わたしは思うのだけど、父を継ぐのは、お前の方がふさわしいよ。お前は賢いし、なんでもわたしより器用でよくできる。それにわたしは、政に興味がない」
「やめてよ、僕だって興味がない。それに兄さんみたいに政略結婚もしたくないし」
ギルフォードは昨年、別大陸の姫君を娶った。これから国交を広げたい国のひとつだった。
「妻のいる生活も、いいものだよ」
「結婚したら、次は世継ぎを催促されるんでしょ。そんなの面倒くさいよ。僕は一生、一人身でいい」
「お前を狙っている令嬢方が聞いたら、がっかりして寝込みそうな台詞だな」
ギルフォードは苦笑してから、表情を改めた。
「わたしに遠慮するなよ。お前を担ぎたい輩は大勢いる」
「僕は兄さんみたいな人望はないよ」
「それは、お前がわざと……」
「しっ。あんまり話してると、獲物が近づいてこないよ」
本から目を離さなかったマルセルがチラリとギルフォードを流し見て、唇に長い指を当てて話を打ち切った。ギルフォードがため息をつくのを聞き、マルセルは諭すように表情を緩めた。
「僕は本気で、兄さんのサポートをしたいと思ってる。兄弟で争うなんて、まっぴらだ。臣下の前で自信がないそぶりなんてして、つけこまれないでね。僕たちのことが火種で、国を傾けたりしないでよ」
「……分かったよ」
その時、遠くで銃声がした。残響が山々を跳ねる。
「お、どこかで獲物が出たのかな」
銃声が立て続けに轟き、なにを言っているのかまでは分からないが、人の叫び声も聞こえてきた。木々から一斉に鳥が飛び立つ。
「様子がおかしい」
マルセルは立ち上がった。シロハヤブサが一声鳴いて空に舞う。
再び、銃声と悲鳴。
狩りの参加者が、何者かに狙われているのだとマルセルは悟った。ターゲットとして可能性が高いのは、王族。
マルセルは素早く木の幹に隠れた。
「兄さん、峰側に隠れて! こっちに!」
峰には仲間がいる。ならば山裾から狙ってくるはずだとマルセルは判断した。
「分かった」
銃声が、近くで轟いた。
「兄さん!」
動き出そうとしたギルフォードの胸から銃弾が飛び出し、次の瞬間、勢いよく血が噴き出るのが、マルセルにはスローモーションのように映った。
* * *
「兄さんが、狙撃された」
頭を押さえながら、マルセルが絞り出すような声で言った。
「誰に? サファイア……じゃなくて、マルセルさんも銃で撃たれたの?」
レティシアが訪ねると、マルセルは首を横に振る。
「兄さんが撃たれたところまでは思い出したんだけど、僕がなぜ負傷したのかは分からない。まだ記憶が完全ではないようだね」
マルセルはゆっくりと立ち上がった。
「身体に戻れば、思い出すかな。撃った犯人は許さない。もう捕まっているかもしれないけど、それを含めて知りたい」
「きっと思い出すわよ!」
レティシアも立ち上がり、拳を握った。
「それで、どうやれば身体に戻れるの?」
眠っている身体を触ろうとした手が素通りして、マルセルは諦めて振り返った。
「私は毎晩、身体に近づいたら勝手に、吸い込まれるように戻っちゃうけど」
「この状態は、お前も一度、体験しているだろう」
セスに言われて、レティシアは手を打った。
「そうだわ、初めて身体から抜けちゃったとき、身体が弱り切っていて、すぐに戻れなかったんだ」
「それで、どうしたの?」
「お医者様が来てくれて、身体が回復したから戻ったのよ」
マルセルは首を振った。
「じゃあ、僕は難しいかな。すでに医者は手を尽くした様子だ」
黒いローブを着た医者らしき人物は三人いて、特に何もしていない。確かに治療は全てやり尽くし、あとは患者次第という状況のように見える。
「怪我が原因か、魂が抜け続けたことが原因か。どちらであれ、相当身体が弱っている。そう長くなさそうだな」
「そういう事言わないで!」
現実を突きつけるセスの背中を、レティシアは思い切り叩いた。
「兄さんは、大丈夫なのだろうか」
マルセルは、やはり顔色の悪いギルフォードの顔を覗き込んだ。冷や汗で金髪が額や頬に張り付いている。
「継承権のある者は、今は兄と僕しかいない。兄さえ無事なら、僕は死んでもいい。そのうち世継ぎも生まれるだろうし」
「だから、そういうこと……」
「そういうものだ。僕は兄の代替でしかない。君も王族なら分かるだろ」
淡々とした表情で、当たり前のようにマルセルに言われて、レティシアは眉をつり上げた。
「分からない!」
高い位置にあるマルセルの垂れぎみの瞳を睨みあげた。
「私たちは民のために命を賭す責任と義務があるわ。王族ひとりひとりがやらなきゃいけないの。別の継承者がいれば自分の命は軽いみたいな考えは改めて」
本気で怒っているレティシアにマルセルは瞠目し、苛立たしげに眉間にしわを寄せる。
「なにも知らないくせに。だいたい君は、なぜ、他人にそんなに真剣になるんだ」
「私たちはもう他人じゃないじゃない。ああ、こんなやりとり、前もしたような気がするわ」
レティシアは一度肩を落として、再びマルセルを見上げた。
「いいわ、何度でも言う。私は沢山の人に笑顔でいてほしいと思ってるの。自国民はもとより、毎晩他の国を見てきたから、大陸全ての人に幸せになってもらいたいと考えてる。国境なんて関係ない。でも、私なんてちっぽけよ。大陸全ての人なんて無理。だからせめて、身近な人、目の前の人だけでも幸せでいてほしいの。幸せにしたいの。だって、みんながそう思って行動すれば、世界中のみんなが幸せになれるんだもの」
みんなが身近な人を幸せにすれば、世界の全ての人が幸せになれる。それはレティシアの持論だった。
レティシアが力説すると、マルセルは器用に片眉だけ上げた。
「面倒な人だね。しかも頭がお花畑」
「そんなこと、今まで言われたことないわ」
「お前は面倒な奴だよ」
背後からセスにも重ねられる。
「え、そうなの? ……まあ、私のことはいいわ」
少々ショックを受けつつも、レティシアは気を取り直した。
「それより、マルセルさんを元に戻す方法を考えないと。せっかく身体が見つかったのに」
レティシアは下唇を噛みしめた。
「あとは神のみぞ知る、なんじゃないのかな。セスは僕がどうなるのか、運命を知ってるの?」
「知らない。死んだときが、そいつの寿命だろ」
「死神さんって、神様っぽくないわよね」
「……」
セスは眉間にしわを寄せて、複雑な表情をする。
「もういいよ、君たちはよくやってくれた。素性も分ったし、記憶の一部も戻った。感謝する。でも、僕はここまでだったってことだ」
「だめ! 諦めたら、そこで終わっちゃうじゃない」
「諦めるもなにも、もう終わってるんだよ」
「終わってない、マルセルさんは生きてるでしょ! お願いだから、もっと生に執着して」
「思い出したんだけど、僕は執着って言葉と、遠い所にいるようだよ」
レティシアはマルセルの軽口を聞き流して、頭をフル回転させる。
とにかく、体力を回復させないことには始まらない。今の治療は、本当に最善なのだろうか。
「ねえ、もっと優秀なお医者様はいないの?」
「さあ。兄さんにつけるくらいだから、ここにいる医者が、国で一番の名医なんじゃないかな」
「そりゃ、王族なんだから、最新の医療を受けてるだろう」
セスも頷く。
「……いやよ。死んでしまうなんて、絶対にダメ」
このまま、なにもできないのだろうか。マルセルの死を、ただ見ているしかないのか。
「一番の名医、最新の医療……」
レティシアは何度も繰り返す。
ふいに、空から大陸を俯瞰した映像が浮かんだ。
「あ……っ!」
閃いた。
レティシアの声に、二人の視線が集まる。
「この大陸は一国だけじゃないのよ。ここにいるお医者様は、この国では最高の名医かもしれない。でも私の国のお医者様なら、なんとかしてくれるかもしれないわ」
「君の国の医療の方が優れていると? ドミール帝国ではなくて?」
牧歌的な風景が広がるガリエンヌ王国の文化の発展度合いは、残念ながら大陸一、遅れて見える。
「そう聞いたことがあるわ。秘薬があるの。私が死にかけていた時も、その薬で助かったのよ」
レティシアは、幽体離脱をするきっかけとなった、河原でのことを思い出した。
「授業でも習った。医療は我が国が一番進んでるんだって」
「自国優位な教育なんて当たり前だけどね。でも仮に、その秘薬が優れているとしよう。それでも、僕に投与するのは難しいんじゃないかな」
「なぜ?」
「君も言っていたじゃないか。三国の国交は、ほぼ断絶しているんだ」
しかも二人の王子が意識不明となっている事は、極秘事項のようだ。となると、レティシアが薬を持ち込もうとしても、怪我人などいないと門前払いになる可能性が高い。
「逆に、君がなんらかの形で狙撃事件に関係していると、あらぬ容疑をかけられるかもしれない」
「そんな……」
レティシアは眉を下げた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
正攻法でだめだとはいえ、霊体では薬を運ぶことができない。
レティシアは部屋を見回すうちに、セスと目が合った。
「死神さんなら、実物の物に触ることができるでしょ? 薬を運ぶことも出来るのよね? お願いっ!」
「や、ら、な、い。やれないんじゃないから」
レティシアは両手を合わせて頼むが、セスは見ないふりをした。
「もういいよ。死んでしまうのなら、それは運命だ」
「マルセルさんの分からず屋! もっと足掻いてって言ってるのに!」
レティシアは部屋を出ようと飛び上がった。分かってもらえないジレンマで、泣きそうになっていた。
「レティシア、どうした?」
「帰るの。ここにいたって仕方がないもの。私は秘薬を手に入れて、一刻も早くマルセルさんに届けるわ」
「どうやって?」
マルセルの声は冷静だった。
「そんなの、後で考えるわ!」
レティシアは振り向きもせず、そのまま全力で王宮に戻った。その間に、頭がだんだん冷えて、興奮しすぎたと反省する。
しかし、マルセルの無気力が、命への執着のなさが、レティシアには悲しいのだ。
「私がオルレニア王国に入国できないのなら、薬だけ送るとか。……でも服用してもらえるかしら」
ぶつぶつ言いながら、慣れた仕草で壁を通過し、レティシアは月明かりに照らされた自室に入る。
「……あら?」
いつもなら、ベッドに近づいた時点で霊体が肉体に引き寄せられ、気づくと朝になっているところだ。
しかし、その引き寄せられる感覚がなかった。
レティシアはベッドを覗いた。
「うそ……、どうして?」
天蓋のベッドの中に、眠っているはずのレティシアの身体は、なかった。
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