Triangle Heart~夜の散歩姫~

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二章 サファイアの記憶 2

公開日時: 2020年10月18日(日) 21:54
文字数:4,859

「サファイアさん、大丈夫?」

 レティシアはサファイアの広い背中に手を置いた。

「……僕は、マルセルだ」

「え?」

「僕は、マルセル・テュイリエ。……思い出した」

 マルセルの碧眼は、知性の光を帯びた。

 

*        *      *

 

 雲のない、よく晴れた昼下がり。

マルセル・テュイリエは一部の王侯貴族が参加する狩りに、父や兄と共に参加していた。しかし手にした銃には弾さえ込めておらず、まったくやる気がない。まるで従者のように兄と行動を共にしていた。

「座ったままじゃ、狩りをしたとはいえないよ」

 皇太子であるギルフォード・テュイリエは銃を下に向け、油断なく周囲を見回しながらマルセルに話しかけた。

 ピントゥ連峰の一つである山の斜面の中腹で、獲物が来るのを待っている。放っている猟犬が獲物を追い立て、逃げるところを待ち構えて撃つのだ。犬たちは鹿や猪や狐などを対象として、人には反応しないよう訓練されている。

 仲間たちとは基本的に、銃弾が届かない距離で間隔を空けており、父王は山の反対側で待機しているはずだった。

「狙い通りに飛ばない銃で撃ったって、面白くないもの。外に出ろと父上がうるさいから来ただけだよ。兄さんの獲物を一頭、僕の手柄にさせて」

 銃を足元に無造作に置き、膝の上のシロハヤブサをなでながら、木の下で本を読むマルセル。

「なかなか人に懐かないシロハヤブサを手懐けておいて。お前が本気を出せば、狩りだろうとなんだろうと、一番になれるだろうに」

「僕が一番になったって、仕方がないじゃない」

「マルセル……」

 ギルフォードは振り返った。

「わたしは思うのだけど、父を継ぐのは、お前の方がふさわしいよ。お前は賢いし、なんでもわたしより器用でよくできる。それにわたしは、政に興味がない」

「やめてよ、僕だって興味がない。それに兄さんみたいに政略結婚もしたくないし」

 ギルフォードは昨年、別大陸の姫君を娶った。これから国交を広げたい国のひとつだった。

「妻のいる生活も、いいものだよ」

「結婚したら、次は世継ぎを催促されるんでしょ。そんなの面倒くさいよ。僕は一生、一人身でいい」

「お前を狙っている令嬢方が聞いたら、がっかりして寝込みそうな台詞だな」

 ギルフォードは苦笑してから、表情を改めた。

「わたしに遠慮するなよ。お前を担ぎたい輩は大勢いる」

「僕は兄さんみたいな人望はないよ」

「それは、お前がわざと……」

「しっ。あんまり話してると、獲物が近づいてこないよ」

 本から目を離さなかったマルセルがチラリとギルフォードを流し見て、唇に長い指を当てて話を打ち切った。ギルフォードがため息をつくのを聞き、マルセルは諭すように表情を緩めた。

「僕は本気で、兄さんのサポートをしたいと思ってる。兄弟で争うなんて、まっぴらだ。臣下の前で自信がないそぶりなんてして、つけこまれないでね。僕たちのことが火種で、国を傾けたりしないでよ」

「……分かったよ」

 その時、遠くで銃声がした。残響が山々を跳ねる。

「お、どこかで獲物が出たのかな」

 銃声が立て続けに轟き、なにを言っているのかまでは分からないが、人の叫び声も聞こえてきた。木々から一斉に鳥が飛び立つ。

「様子がおかしい」

 マルセルは立ち上がった。シロハヤブサが一声鳴いて空に舞う。

 再び、銃声と悲鳴。

 狩りの参加者が、何者かに狙われているのだとマルセルは悟った。ターゲットとして可能性が高いのは、王族。

 マルセルは素早く木の幹に隠れた。

「兄さん、峰側に隠れて! こっちに!」

 峰には仲間がいる。ならば山裾から狙ってくるはずだとマルセルは判断した。

「分かった」

 銃声が、近くで轟いた。

「兄さん!」

 動き出そうとしたギルフォードの胸から銃弾が飛び出し、次の瞬間、勢いよく血が噴き出るのが、マルセルにはスローモーションのように映った。

 

*        *      *

 

「兄さんが、狙撃された」

 頭を押さえながら、マルセルが絞り出すような声で言った。

「誰に? サファイア……じゃなくて、マルセルさんも銃で撃たれたの?」

 レティシアが訪ねると、マルセルは首を横に振る。

「兄さんが撃たれたところまでは思い出したんだけど、僕がなぜ負傷したのかは分からない。まだ記憶が完全ではないようだね」

 マルセルはゆっくりと立ち上がった。

「身体に戻れば、思い出すかな。撃った犯人は許さない。もう捕まっているかもしれないけど、それを含めて知りたい」

「きっと思い出すわよ!」

 レティシアも立ち上がり、拳を握った。

「それで、どうやれば身体に戻れるの?」

 眠っている身体を触ろうとした手が素通りして、マルセルは諦めて振り返った。

「私は毎晩、身体に近づいたら勝手に、吸い込まれるように戻っちゃうけど」

「この状態は、お前も一度、体験しているだろう」

 セスに言われて、レティシアは手を打った。

「そうだわ、初めて身体から抜けちゃったとき、身体が弱り切っていて、すぐに戻れなかったんだ」

「それで、どうしたの?」

「お医者様が来てくれて、身体が回復したから戻ったのよ」

 マルセルは首を振った。

「じゃあ、僕は難しいかな。すでに医者は手を尽くした様子だ」

 黒いローブを着た医者らしき人物は三人いて、特に何もしていない。確かに治療は全てやり尽くし、あとは患者次第という状況のように見える。

「怪我が原因か、魂が抜け続けたことが原因か。どちらであれ、相当身体が弱っている。そう長くなさそうだな」

「そういう事言わないで!」

 現実を突きつけるセスの背中を、レティシアは思い切り叩いた。

「兄さんは、大丈夫なのだろうか」

 マルセルは、やはり顔色の悪いギルフォードの顔を覗き込んだ。冷や汗で金髪が額や頬に張り付いている。

「継承権のある者は、今は兄と僕しかいない。兄さえ無事なら、僕は死んでもいい。そのうち世継ぎも生まれるだろうし」

「だから、そういうこと……」

「そういうものだ。僕は兄の代替でしかない。君も王族なら分かるだろ」

 淡々とした表情で、当たり前のようにマルセルに言われて、レティシアは眉をつり上げた。

「分からない!」

 高い位置にあるマルセルの垂れぎみの瞳を睨みあげた。

「私たちは民のために命を賭す責任と義務があるわ。王族ひとりひとりがやらなきゃいけないの。別の継承者がいれば自分の命は軽いみたいな考えは改めて」

 本気で怒っているレティシアにマルセルは瞠目し、苛立たしげに眉間にしわを寄せる。

「なにも知らないくせに。だいたい君は、なぜ、他人にそんなに真剣になるんだ」

「私たちはもう他人じゃないじゃない。ああ、こんなやりとり、前もしたような気がするわ」

 レティシアは一度肩を落として、再びマルセルを見上げた。

「いいわ、何度でも言う。私は沢山の人に笑顔でいてほしいと思ってるの。自国民はもとより、毎晩他の国を見てきたから、大陸全ての人に幸せになってもらいたいと考えてる。国境なんて関係ない。でも、私なんてちっぽけよ。大陸全ての人なんて無理。だからせめて、身近な人、目の前の人だけでも幸せでいてほしいの。幸せにしたいの。だって、みんながそう思って行動すれば、世界中のみんなが幸せになれるんだもの」

 みんなが身近な人を幸せにすれば、世界の全ての人が幸せになれる。それはレティシアの持論だった。

 レティシアが力説すると、マルセルは器用に片眉だけ上げた。

「面倒な人だね。しかも頭がお花畑」

「そんなこと、今まで言われたことないわ」

「お前は面倒な奴だよ」

 背後からセスにも重ねられる。

「え、そうなの? ……まあ、私のことはいいわ」

 少々ショックを受けつつも、レティシアは気を取り直した。

「それより、マルセルさんを元に戻す方法を考えないと。せっかく身体が見つかったのに」

 レティシアは下唇を噛みしめた。

「あとは神のみぞ知る、なんじゃないのかな。セスは僕がどうなるのか、運命を知ってるの?」

「知らない。死んだときが、そいつの寿命だろ」

「死神さんって、神様っぽくないわよね」

「……」

 セスは眉間にしわを寄せて、複雑な表情をする。

「もういいよ、君たちはよくやってくれた。素性も分ったし、記憶の一部も戻った。感謝する。でも、僕はここまでだったってことだ」

「だめ! 諦めたら、そこで終わっちゃうじゃない」

「諦めるもなにも、もう終わってるんだよ」

「終わってない、マルセルさんは生きてるでしょ! お願いだから、もっと生に執着して」

「思い出したんだけど、僕は執着って言葉と、遠い所にいるようだよ」

 レティシアはマルセルの軽口を聞き流して、頭をフル回転させる。

 とにかく、体力を回復させないことには始まらない。今の治療は、本当に最善なのだろうか。

「ねえ、もっと優秀なお医者様はいないの?」

「さあ。兄さんにつけるくらいだから、ここにいる医者が、国で一番の名医なんじゃないかな」

「そりゃ、王族なんだから、最新の医療を受けてるだろう」

 セスも頷く。

「……いやよ。死んでしまうなんて、絶対にダメ」

 このまま、なにもできないのだろうか。マルセルの死を、ただ見ているしかないのか。

「一番の名医、最新の医療……」

 レティシアは何度も繰り返す。

 ふいに、空から大陸を俯瞰した映像が浮かんだ。 

「あ……っ!」

 閃いた。

レティシアの声に、二人の視線が集まる。

「この大陸は一国だけじゃないのよ。ここにいるお医者様は、この国では最高の名医かもしれない。でも私の国のお医者様なら、なんとかしてくれるかもしれないわ」

「君の国の医療の方が優れていると? ドミール帝国ではなくて?」

 牧歌的な風景が広がるガリエンヌ王国の文化の発展度合いは、残念ながら大陸一、遅れて見える。

「そう聞いたことがあるわ。秘薬があるの。私が死にかけていた時も、その薬で助かったのよ」

 レティシアは、幽体離脱をするきっかけとなった、河原でのことを思い出した。

「授業でも習った。医療は我が国が一番進んでるんだって」

「自国優位な教育なんて当たり前だけどね。でも仮に、その秘薬が優れているとしよう。それでも、僕に投与するのは難しいんじゃないかな」

「なぜ?」

「君も言っていたじゃないか。三国の国交は、ほぼ断絶しているんだ」

 しかも二人の王子が意識不明となっている事は、極秘事項のようだ。となると、レティシアが薬を持ち込もうとしても、怪我人などいないと門前払いになる可能性が高い。

「逆に、君がなんらかの形で狙撃事件に関係していると、あらぬ容疑をかけられるかもしれない」

「そんな……」

 レティシアは眉を下げた。

「じゃあ、どうすればいいの?」

 正攻法でだめだとはいえ、霊体では薬を運ぶことができない。

 レティシアは部屋を見回すうちに、セスと目が合った。

「死神さんなら、実物の物に触ることができるでしょ? 薬を運ぶことも出来るのよね? お願いっ!」

「や、ら、な、い。やれないんじゃないから」

 レティシアは両手を合わせて頼むが、セスは見ないふりをした。

「もういいよ。死んでしまうのなら、それは運命だ」

「マルセルさんの分からず屋! もっと足掻いてって言ってるのに!」

 レティシアは部屋を出ようと飛び上がった。分かってもらえないジレンマで、泣きそうになっていた。

「レティシア、どうした?」

「帰るの。ここにいたって仕方がないもの。私は秘薬を手に入れて、一刻も早くマルセルさんに届けるわ」

「どうやって?」

 マルセルの声は冷静だった。

「そんなの、後で考えるわ!」

 レティシアは振り向きもせず、そのまま全力で王宮に戻った。その間に、頭がだんだん冷えて、興奮しすぎたと反省する。

 しかし、マルセルの無気力が、命への執着のなさが、レティシアには悲しいのだ。

「私がオルレニア王国に入国できないのなら、薬だけ送るとか。……でも服用してもらえるかしら」

ぶつぶつ言いながら、慣れた仕草で壁を通過し、レティシアは月明かりに照らされた自室に入る。

「……あら?」

 いつもなら、ベッドに近づいた時点で霊体が肉体に引き寄せられ、気づくと朝になっているところだ。

 しかし、その引き寄せられる感覚がなかった。

 レティシアはベッドを覗いた。

「うそ……、どうして?」

 天蓋のベッドの中に、眠っているはずのレティシアの身体は、なかった。

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