「きゃぁぁぁ! 私が死んでる!」
頭から血を流して倒れている自分の姿を見下ろしながら、レティシアは甲高い声で叫んだ。
「レティシア様、目を開けてください!」
侍女のイザベルは川の水でびっしょりと濡れた、幼いレティシアの身体をゆする。その顔はレティシアに劣らず、蒼白だった。
「イザベル! そっちの私も大変だけど、こっちの私も大変よ! なんかね、浮いてるの!」
屈んでいるイザベルの頭辺りの高さで、ふんわりと浮かんでいるレティシアは、イザベルに訴えた。しかし、反応はない。
「ねえ、イザベルったら!」
イザベルの腕を取ろうとしたレティシアの手は、イザベルの身体を通過してしまった。そこに、なにも存在しないかのように。
「あれ?」
レティシアはもう一度、両手でイザベルを掴もうとしたが、触れることができなかった。
「……」
レティシアは両手を見つめた後、ゆっくりと地面に着地しようとした。しかし、その地面さえ、足先は突き抜けてしまった。
「きゃあっ、気持ち悪い!」
重力を感じない、浮き上がった身体。
身体がどこにも、なにも触れていない状態は初めてで、未知の感覚にレティシアは鳥肌が立った。
「私、変なのよ、イザベル!」
「レティシア様、お医者様を連れてまいりますから、お待ちくださいね」
イザベルは、あくまでも血を流して横たわるレティシアに声をかけて、河原を後にして走り出した。
「イザベルには、私が見えてないんだわ」
七歳のレティシアにとって、十一歳年上のイザベルは姉のような存在で、一人残されて悲しくなった。
正確には一人ではない。倒れている自分がいる。
自分が、二人いる。
「なんで、こうなっちゃっただろう」
レティシアはしょんぼりとしながらも、精密な金襴の胴部に小さな手を当てて、記憶を遡った。
レティシア・ド・ガリエンヌは、ガリエンヌ王国の王女で、長女として生まれた。下の三人は全て男で、世継ぎが決まっている事から、レティシアは王室としては比較的自由に育てられてきた。それは身分制度がありながら、階級意識が希薄な、のんびりとした国風のおかげでもある。王宮内には一般開放されたスペースがあるし、定期的に誰でも国王に謁見できる日を設けてもいた。
両親が差別や区別をすることなく、国民一人一人に耳を傾ける姿を見てティシアは育った。そのため、自分も国民のため、人のためにあるのだと刷り込まれていた。
国風の王女にふさわしく育ってはいたが、レティシアはまだ七歳。そして、おてんばでもあった。
今日はよく晴れた暑い日で、レティシアは川遊びがしたくなった。多くの侍女たちに止められたのだが、第一侍女であるイザベルに頼み込んで、二人だけで王族が居住するルゼリエール宮を抜け出した。
川辺に到着すると、レティシアは対岸に、川にせり出した大きな岩を発見した。ちょうど木陰になっていて、そこに座り、川に足を浸したら素敵だろうと想像した。
スカートを巻くって川を渡ろうとしたのだが、小さいレティシアには危険だと、イザベルに止められた。しかしレティシアの気持ちは、既に岩の上にある。ねだるレティシアにイザベルは逡巡したものの、レティシアを背負って川を渡ることにした。
その途中、イザベルが川底の石に足を滑らせて、転倒したのだ。
「そうだ。それで私は岩に頭をぶつけて、川に流されて……」
口や鼻から水が入り込んで、レティシアはむせた。水を吐き出そうとするが、それ以上に飲み込んでしまう。水を吸ったドレスが重くなり、まるで誰かに引っ張られているかのように、小さな身体は沈んでいった。頭部の痛みや苦しさに耐えかね、レティシアは意識を失った。
その時の恐怖を思い出して、レティシアはブルリと震える。
――そして気がついた時には、川辺で血を流して横たわった、自分の上に浮いていた。
「どうしよう、まさか死んじゃうなんて」
レティシアは、イザベルが結い上げた太陽のような緋色の髪に両手を突っ込んで嘆いた。
「死んではいない」
「きゃあっ!」
後ろから突然声をかけられたレティシアは、文字通り飛び上がった。
「誰?」
レティシアが驚いて振り返ると、黒衣の少年が立っていた。
レティシアと同じか、もう少し年上だろうか。サラリと短いブルネットの髪に、白すぎる肌と大きな漆黒の瞳。そろえられた襟足から細い首が伸び、華奢な体躯をしている。少女にも見える、中性的で愛らしい顔立ちだった。
そして彼も、レティシアと同じように、浮いていた。
「真っ黒な服。……あっ、あなたは死神さんね! 初めて見たわ」
レティシアは少年に近づくと、しげしげとその整った顔を眺めた。はっきりとした二重のアーモンド型の瞳で、少し厚みのある唇は色づいていた。
「俺には、セスって名前がある」
あまりに至近距離で見つめられたセスは、戸惑った表情で後退った。
「私、死んでないの?」
レティシアは、セスの言葉を覚えていた。
「魂の“尾”が見えるからな。死者には尾がない。だけどこのまま放っておいたら、いずれ命は尽きるだろう」
「それは大変!」
レティシアは、横たわる自分に近づいた。
綺麗に結い上げられていたはずの長い緋色の髪はほどけて、顔や体に張り付いている。レースの襟も、宝石が散りばめられたドレスも、濡れて萎んでいた。なにより違うのは、桃色だった頬が蝋のように白くなり、生気がなくなっていることだ。よく見ると弱く呼吸をしていて、頭部の出血は止まっているようだ。
「レティシア頑張れ! 死んじゃだめよ」
レティシアは拳を握り、自分を応援した。
「命が惜しいか」
セスは嘲笑うような、大人びた笑いをした。
「私は王女なのよ。無理を言って連れて来てもらったのに、私が死んじゃったら、イザベルが罰を受けてしまうわ」
レティシアの言葉に、セスは瞠目した。
「イザベルというのは、さっきの侍女だろ? 失敗をすれば、罰を受けるのは当然だ」
「転ぶくらい、誰だってするわ。私なんて毎日よ」
なぜかレティシアは胸を張った。
「そのためにお前は、死にかけているんだが」
セスは腰に手を当て、まるで珍獣でも見るようにレティシアを注視した。
「だから、ねえ死神さん、私を助けて! できるでしょ?」
「そんなこと……」
セスは困った表情を浮かべていたが、懇願するレティシアを眺め、しばらく思案する様子を見せる。
「力を欲するなら、代償が必要だ」
「代償?」
「大切なものを差し出す覚悟だ。死を回避したいのなら、別の魂を差し出すか?」
「誰かを犠牲にしろってこと? 私のために別の人が死んじゃったら、意味がないじゃない! もういいわ」
レティシアは倒れている自分に重なるように横たわってみるなど、身体に戻ろうと試してみるが、どうにもならなかった。
「なぜ私、そこの私と別々になっちゃったの?」
「肉体が受けた衝撃で、霊体が飛び出したんだ。ごく稀にあることだ。戻ろうと思えばすぐに戻れるはずだが、肉体が弱りすぎているせいで、器が霊体を受け入れられないのだろう」
「戻ったら元気になる?」
「いや、魂が戻ったからといって、肉体のダメージが回復する訳じゃない。この様子じゃ、どの道助からないだろう」
「いやーっ! そういうこと言わないでよ!」
ちょこまかと動き、くるくると表情を変えるレティシアを見ているうちに、セスは笑みを浮かべていた。
「お前、面白いやつだな。まるで死にかけている人間には見えない」
その時、複数人の足音と声が聞こえ始めた。イザベルが医者や衛兵、廷臣を連れて来たのだ。
黒いローブをまとった医者はレティシアの脇にしゃがみ込み、険しい表情で診察を始めた。
「王女殿下になにかあってみよ。その罪、お前の命だけではすむまい」
廷臣はイザベルに、親族ともども処罰すると仄めかした。イザベルは一層青ざめ、肩を震わせてしゃがみ込んだ。
「もう、すぐ脅かすんだから。イザベル、そんなことさせないからね、大丈夫よ!」
レティシアは励ますが、その声は侍女には届かない。
「我が王国には、秘伝の薬がございましてな」
医師は止血した後、丁寧に包装されていた膏薬を患部に塗り、布を挟んでレティシアの頭部に白い包帯を巻いた。
「意識が戻られたら、脈も強くなるはず」
更に医師は小瓶に入った液体を、レティシアの薄く開いた唇から注いだ。
「そういえば、先生から聞いたことがあるわ。ガリエンヌ王国が隣国より優れているのは、一見資源に見えるけれど、実は医療なんだって」
教師から聞いたままの言葉を口にするレティシア。家庭教師から様々なことを教わっているが、幼いレティシアはまだ、習った内容の半分も理解できていなかった。
「あら? なんだか、身体が引っ張られている感じがする」
レティシアは頬に手を当てて、小首を傾げた。
「ふうん。薬の効果があったようだな」
セスはつまらなそうに呟いて、漆黒の瞳を伏せながら、腰に手を当てた。治療を受けて横たわるレティシアは先ほどよりも呼吸が安定し、顔色もよくなっている。
「お望みどおり、死に損なったようだ。もう身体に戻れるんじゃないか?」
「良かった!」
ほっとして、レティシアはセスに笑顔を向けた。身体に戻ろうとしたレティシアだが、途中で止まり、膝下まで届くセスの黒い裾を掴んだ。
「ねえ死神さん、もう会えないの?」
「そうだな。なぜそんな事を聞く?」
レティシアは裾を掴んだまま、ルビーのような明るい瞳を曇らせた。
「死神さん、なんだか淋しそうだから。私にもっといてほしい?」
カッと白い頬に朱を走らせたセスは、レティシアを突き飛ばした。
「さっさと戻れ!」
「きゃあっ!」
強く両目を瞑ったレティシアが目を開くと、白い髭を蓄えた医者の皺だらけの顔が映った。
「おお、王女殿下が目覚められた!」
廷臣たちが歓喜の声をあげる。
「あっ……」
声を出そうとしたレティシアは、不快なものが胃からこみあげて、むせながら川水を吐き出した。
頭が重く、ズキズキと痛んだ。吐いた水と共に何かが喉を切ったのか、焼けるようにひりつく首を押さえ、レティシアは涙を浮かべた瞳で廷臣を見上げた。
「お願い、イザベルを叱らないで。私がわがままを言ってここに連れてきてもらったの。これからもイザベルが傍にいてくれなきゃイヤよ」
廷臣たちが動きを止め、視線で会話を始めた。「陛下がお許しになるか」「わたしの一存では」とぶつぶつと言い出す。
「私がいいと言っているのに、誰の許しが必要なの?」
王女殿下がそうおっしゃるならと、殺伐とした空気が落ち着いてきた。
イザベルの咎がなくなりそうな雰囲気に、やっと安心してレティシアは目を閉じた。
「レティシア様!」
イザベルの泣き声が聞こえる。「大丈夫、私が守ってあげるから」と声をかけたかったが、重たい瞼は開いてくれなかった。
「……あれ?」
レティシアは包帯を巻いて河原に横たわる自分と、それを取り巻く廷臣たち、そしてレティシアに縋って涙を流しているイザベルを見下ろしていた。
「また出てきたのか」
「きゃっ」
またも後ろからセスに声をかけられて、レティシアは驚いた。
「なんで私、また身体から出ちゃったの? やっぱり死んじゃうの?」
「一度魂が離脱すると、それが癖になる人間もいる」
セスは迷惑そうな表情を作りながらも、どこか嬉しそうだ。
「私、癖になっちゃったのね」
ふむとレティシアは、改めて自分の身体を見た。霊体は透けたりはしておらず、むしろ横たわるレティシアやイザベルたちの方が色あせて見えた。実際の身体と霊体とでは、見え方が変わるらしい。
「どこまで行けるのかしら」
浮いた身体の高度をゆっくり上げていき、未知の視点での広い視野を堪能した。
川辺はごつごつとした大きな石と葦の群生に囲まれ、青々とした落葉樹が茂っている。大陸にある三国の国境が交わる、ピントゥ連邦の一つである山を源泉としたこの川幅は十数メートルで、やがて海へとつながっていた。支流のひとつは宮殿近くを流れ、王族は移動手段として屋形船を使うこともある。
「こんな景色を見るの、初めて」
ガリエンヌ王国を眺めると、レティシアが暮らしているルゼリエール宮を中心に、囲うように貴族街があり、商人の集まる豪商住居区、市民街と続く。そして広がる田園風景には、緑の大地に放牧される羊や牛たち。それらを興味深くレティシアは見回した。
「すごい私!」
近づくと霧状になる雲の高さまで昇ったレティシアは、自然あふれる王国を俯瞰して、感動した。足の下を通る鳥たちに手を振って「ごきげんよう」と声をかけてみたりする。
「気持ちいいわ。身体が軽くて、不思議な気分。でも風を感じないし、寒くも暑くもない。幽霊みたいになってるのかな」
「なにやってんだ。実体から意識が離れて怯える人間はよく見るが、いきなり上昇する奴なんて見たことがないぞ」
セスが追いかけてきた。
「空を飛べるなんて、夢みたいなんだもの!」
「変なやつ」
セスは片手を腰に当てて、ウロウロと飛び回るレティシアを呆れ顔で眺めていた。
「ねえねえ、死神さん」
しばらく飛び回って満足したレティシアは、セスの傍にやってきた。そして漆黒の瞳を覗き込む。
「なんだ?」
「また会えたね!」
レティシアは太陽を背景に、同じくらい輝いた笑顔をセスに向けた。
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