Triangle Heart~夜の散歩姫~

JUN
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七章 大切な婚約者 2

公開日時: 2020年10月27日(火) 21:04
文字数:2,542

袖を落とされた肩に、優しく手が這う。

「あっ……」

 自分から申し出たとはいえ、レティシアは未知の体験に震えた。羞恥と、純粋な恐怖だった。

 ヴェルガーの柑橘系の香りが火照った身体にけぶり、濃密になって脳を満たしていく。

 手をついていたベッドシーツをレティシアが握ると、白い波が広がった。

「ヴェルガー様……」

もう、なにも考えられない。

 その時、扉が乱暴に開いた。

「そこまでだ!」

 入ってきたのは、息を切らし、左肩を押さえたマルセルだった。

 二人は驚いて動きを止める。

「どうしてここが……」

 レティシアは肩越しに振りかえった。

 白い頬を上気させ、薄く汗ばみ、恍惚に潤んだ瞳で見つめられたマルセルは、荒い息を一瞬止めた。

 レティシアのドレスも髪も乱れている。その姿は、まだ幼さの残る風貌と相まって、余計に淫靡な空気を醸し出していた。

「そんな姿……」

 珍しく苛立たしげに舌打ちをしたマルセルは、レティシアを引き寄せて椅子に座らせると、着ていた胴衣を脱いでレティシアに頭から被せた。

「さっさとドレスの乱れを直して。その顔が元に戻るまで、服を被ったままでいること!」

「その顔?」

 隙間から目だけ覗かせたレティシアは、分からないながらも、マルセルの迫力に押されて頷いておいた。

「まったく、怪我人を走らせるなんて」

 マルセルは明らかに怒っていた。

「君ね、なんで約束の部屋に連れて来ないんだよ!」

「ご、ごめんなさい」

 レティシアは小さくなった。

「しかも、自分からこの男を押し倒すなんて。僕のキスは手で防いだくせにっ」

「え? ええっ? どうしてそれを?」

 レティシアは軽くパニックになって、マルセルの怒りの論点がずれている事に気づかない。

「全部見ていたからに決まってるだろ! 僕だけじゃない、ざっとギャラリーは五人だから」

 五人といえば、三国の王と、マルセルとセスだろう。あんな恥ずかしい行為や声を聞かれてしまったというのか。

レティシアは羞恥で気を失いそうだった。

「お前は誰だ。さっきから、なにを言っている?」

 居住まいを正してベッドに足を組んで座っているヴェルガーが、訝しげな表情でマルセルを見上げる。

「あんた、殺そうとした男の顏も知らないの? だから失敗するんだよ」

 マルセルは嘲笑した。

「お前は、オルレニアの……?」

 ヴェルガーが瞠目する。

「種明かしをしてあげるよ。それなりに、あんたにも分かるようにね」

マルセルは冷ややかな目でヴェルガーを見下ろした。

「あんたの企みは分かっていた。僕は撃たれる前に、あんたが首謀者だって、刺客から情報を得ていたからね。でも証拠が少ないから、レティシアと二人きりにして罪を白状させ、それを別室で聞いていようってことになったのさ。この大陸の三国の王を集めてね」

 だから薔薇の壁紙の部屋に移動させようとしたのだと。

「僕は三人の王と一緒に、レティシアの部屋の隣で待機していた。でも僕はレティシアのことを、百パーセント信じていたわけじゃなかった。レティシアは初めから、あんたを誘導することに抵抗があるようだったし、異常なくらい博愛主義だし、すぐ情にほだされるし。だから見張っていたんだ。セスがね」

 いつになく、マルセルの口調がきつい。それだけ怒り心頭なのだろう。

「そうしたら案の定、別の部屋に入ったというじゃない。それじゃあ話が聞けない。正直焦ったよ」

 レティシアはマルセルに睨まれて、うな垂れた。

「部屋の移動には時間がかかるし、この部屋の隣室に来たって、話が聞こえるとは限らない。そんなに壁は薄くないからね。当然細工なんてしている時間もない。だからセスって死神に、王たちの霊体を抜いてもらったんだ。あとから代償を払う契約でね」

 ヴェルガーは、非日常的な単語に、細い眉を寄せた。

「身体は薔薇の壁紙の隣の部屋に置いたまま、霊体だけこの部屋に来たんだ。この狭い部屋に七人もいたってことだね。死神がナンセンスだなんて言うなよ。いるものは仕方がないじゃない」

 マルセルは白い壁にもたれて、額の汗を拭ってから、再び左肩を押さえる、顔色が悪くなっていた。

しかし、マルセルは気丈に続ける。

「あんたが僕たちを殺そうとしたって話しをしたものだから、父が怒って皇帝に詰め寄ってたよ。ま、見えなかっただろうけどね」

「陛下が、この部屋にいたと?」

 ヴェルガーは訝しむような顔をしている。

「そう言ってるでしょ。信じる信じないは勝手だけど、あんたの話は全て陛下たちが聞いていたから。追って厳しい沙汰があるだろうから、楽しみに待っているといいよ」

「そんな……」

 ヴェルガーの話は聞かれていないと安堵していたレティシアはショックを受けた。最悪の、極刑の二文字が浮かぶ。

 ヴェルガーは小さく息をはいた。

「お前はわたしを、罠にはめようとしていたのか。まさか、お前に足を掬われるとはな」

「ごめんなさい」

 レティシアは顔を伏せた。

「なんでレティシアが謝るんだよ。母国を狙われていたっていうのに」

 マルセルが呆れる。

「わたしは今も、わたしの理想は正義であると信じる」

 ヴェルガーは、レティシアを見つめた。

「だが、お前を娶る機会を失ったことは、後悔しそうだ」

「ヴェルガー様……」

 眉を下げたレティシアは、瞳を潤ませた。

「だから、罪人といい雰囲気を作るなって言ってるでしょ。あんたはそこで待機。外に兵がいるから、逃げられないからね。レティシア、行くよ」

 胴衣をかぶせたまま、マルセルは部屋からレティシアを連れ出した。

 レティシアたちが部屋を出るのと入れ替わりに、数人の兵と臣下が中に入った。ヴェルガーを拘束するのだろう。

「くっ」

 廊下に出て間もなく、小さく呻いたマルセルは、左肩を押さえて片膝をついた。

「マルセルさん、大丈夫?」

「あまり、大丈夫じゃないみたい」

 押さえている手の下から、服に血が滲み始めている。走ったことで、傷が開いたようだ。レティシアがしゃがんでマルセルの顔を覗き込むと、苦痛に表情を歪ませて、脂汗を浮かべていた。

「お医者様を呼ばないと! 誰か!」

 レティシアは人を呼んだ。

 マルセルは苦笑する。

「本当、僕らしくない。執着心なんて、持ったことがなかったのに」

 マルセルはレティシアの胸の中に倒れ込んだ。

「マルセルさん、しっかりして!」

「全部、君のせいだからね……」

 マルセルは、意識を失った。

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