ヴェルガーの拘束から数日後。ガリエンヌ王国は小雨が煙っていた。
自室で侍女のイザベルと読書をしていたレティシアは、突然の訪問者に驚いて立ちあがった。
「死神さん……!?」
夜、霊体の時にしか会ったことがなかったセスが、室内に立っている。「お茶を用意しますね」とイザベルが気を使って退室したことから、セスが見えているのはレティシアだけではないようだ。
「びっくりさせようと思ってさ」
「びっくりしたわ」
セスは上等なダブレットを見につけていて、紳士然としていた。いつも着ていた黒衣ではない。そして右手には、杖を持っている。
「その杖、どうしたの?」
「全部話す。座っていいか?」
「もちろんよ」
二人はテーブルを挟んで、向かい合って座った。
明るい部屋で見るセスは、夜見るよりも肌が白く透き通るようで、華奢で儚げだった。しかしアーモンド形のくっきりとした瞳は印象的で、視線が合うだけで引き込まれるようだった。
セスは杖に体重をかけながら、ゆっくりと歩いた。倒れるのではないかと、レティシアは見ていてハラハラした。
「単刀直入に言う。俺は死神じゃない。だからお前の命を二十年分もらうなんてできない。安心しろ」
「え……?」
レティシアは目を瞬かせた。
「死神さんが、死神さんじゃないって、どういうこと?」
「そうやってお前が勘違いするから、便乗しただけだ。俺はそんな特別な存在じゃない。ただの伯爵家の三男だ」
伯爵といえば爵位的に低いわけではないが、三男ではその領地を継承することは難しいだろう。
「田舎貴族が、王女殿下と対等に話せるわけがない。……と思ってお前の勘違いを否定しなかったんだが、お前はそんなことで態度を変える奴じゃなかった。そう気づいた時には時間が経ちすぎて、訂正しにくくなっていたんだ」
突然の話で、レティシアは混乱した。なにを、どこから聞いていいのか分からない。
「じゃあ、どうして命を奪うって嘘をついたの?」
「死神と名乗っておいて何も出来ないと格好悪いから、なにも頼まれないように、願いを叶えるには代償が必要だって言い続けていたんだ。なのに無償で願いを叶えたら、おかしいじゃないか。俺は肉体から霊体を引きはがしたり、霊体でも実体に触れられたり、それから魂の緒が見えるくらいしか、能がないんだ」
「それって、死神さんじゃ……」
「普通の人間だ。幽体時に、できることがお前より少し多いだけ。途中で何度か言おうとしたんだけど、なんだか邪魔が入って……」
そう言ったセスは、テーブルに頬を乗せて、熱い息をはいた。
「まだ、外出すると疲れるな」
「大丈夫? どこか悪いの?」
レティシアはオロオロとした。華奢で色白のセスがぐったりしていると、まるで病人のようだ。
「病人みたいだと思った?」
ギクリとレティシアは身体を強張らせる。
「実際にそうだったからな。生まれた時から病弱で、ずっと寝たきりだったんだ。何度も死にかけてる。物心つく頃には幽体離脱できる体質だったから、普段部屋から出られない分、幽体で外に出ていた。だけど、話し相手もいなくてさ。そんなとき、河原でお前に会ったんだ」
レティシアが七歳、セスが八歳の頃だった。
「二十歳まで持たないと、幼い頃から医者に言われていた。だから、死ぬまでの暇つぶしのつもりで生きていた。努力して予定より数年長生きしたって、こんなポンコツの身体じゃ、先がないって絶望してたしな。それでいて、健康な奴はみんな妬ましくて」
セスは苦笑する。何と言っていいのか分からず、困ったように眉を下げているレティシアを見て、セスは柔らかい笑みを浮かべた。肘を立てて、手の平の上に顎を乗せる。
「夜、お前と会うのが唯一の楽しみだった。お前の能天気さに救われてたよ」
セスは笑顔を消し、杖の先に視線を落とした。
「でもその時間は、思っていた以上に長く続かなかった。お前は隣国の皇族と婚約したし、夜も邪魔者が入って、そいつも王子だった。俺はちっぽけな存在なんだと、見せつけられた気分だった。お前を殺して俺も死のうかって思ったくらいだ」
「死神さん……」
レティシアは一層眉を下げた。
「そんな面白い顔するな、ほんの一瞬だよ。それから、名前で呼べってば。俺は死神じゃないんだから」
「もう、これで慣れちゃって」
レティシアは苦笑してから、顔を引き締めた。
「私、死神さんのこと全然知らなかった。ごめんなさい」
「俺が言わなかったんだから、当たり前だろ」
苦笑したセスに、「手を貸せ」と言われて、右手を差し出した。その手は、セスの両手に包まれる。
「本当、お前って体温が高いのな。温かい」
セスの手は冷たかった。細くて骨ばっている。
「ここの数日でさ、急に、死にたくないって思ったんだ。昼のお前とも、向かい合いたいって」
セスは「だから」と言いながら、ポケットから小瓶を取り出した。
「実はあの日、これを失敬した」
「それは、秘薬?」
レティシアが医師陣をオルレニア王国に連れて行った日、セスは秘薬を持ち帰っていたのだ。
「おかげで、歩けるようになった。今はリハビリ中だ」
「死神さん、良かった! 私にできることがあれば、なんでも言って」
レティシアは嬉しくなって、セスの手を両手で握った。セスは細い眉を寄せた。
「お前、その“なんでも”って言うの、やめろよ。付け込まれるぞ。特に、あの死にぞこないに」
「死にぞこないって……あ、マルセルさんのこと?」
レティシアは小首を傾げる。
「お前、婚約の話が白紙になっただろ。だからって、あいつだけはやめておけよ。相当性格が悪いからな」
「あら、そんなことないわ。死神さんだって知ってるでしょ」
「知ってるから悪いって言ってるんだろっ」
セスは憤った勢いで立ち上がり、バランスを崩して倒れそうになる。レティシアは慌てて駆け寄ってセスを支えた。
「死神さん、大丈夫?」
「ああ、助かった」
そう言ったセスは、レティシアの腰に両腕を回して抱きしめた。その薄い身体に、レティシアはますます心配になる。
「めまいがする。しばらくこのままでいいか?」
「ええ、もちろん」
レティシアはセスの背中をさすった。
「ほら、すぐこうやって付け込まれる」
「なにか言った?」
「いいや」
セスはレティシアを強く抱きしめた。
「近いうちに、頼れる男になってみせるから。それまで、誰のものにもなるなよな」
それから数か月後。
レティシアはドミール帝国領の山の麓に来ていた。そこに人里離れ、周囲は堀で囲まれた古い館がある。真夜中とはいえ篝火ひとつなく暗闇に包まれた館は、人を拒絶しているかのようだった
ここにヴェルガーは、数人の使用人と共に住んでいた。
ヴェルガーの処分は、ドミール帝位継承権、そしてドミール帝国としての称号と敬称の剥奪だった。伯爵領を与えられて館に移り住んでいるが、つまりは幽閉だ。
霊体のレティシアは壁をすり抜けて、広くもない館内を彷徨うと、間もなくヴェルガーが見つかった。
ヴェルガーは仰向けで、姿勢よくベッドで眠っている。室内の調度品は年代ものとはいえ、質のいいものばかりだった。しかし、月明かりが入る窓は高い位置にあり、しかも鉄格子がはまっていた。やはり館の形をした監房だ、とレティシアは思った。
「ヴェルガー様、ごめんなさい。あなたを守れなかった」
本人と会話ができるわけではないと分かっていても、ヴェルガーの居所が分ると、レティシアはいても立ってもいられなかった。
隣国の王族の暗殺未遂、そして侵略を企てていたヴェルガー。むしろこれだけの処罰ですんだのは奇跡だと言っていい。
「少し、お痩せになりましたね」
レティシアはヴェルガーの端正な顔を見下ろした。そっと、頬のあたりに手を添えてみる。触ることはできないが、ゆっくりとそのフェイスラインを辿ってみた。
「レティシア?」
突然瞼が開き、ヴェルガーは上半身を起こした。
「きゃっ」
レティシアは思わず叫び、しまったと口元を押さえた。しかしそんなことをしなくても、ヴェルガーにレティシアの声が聞こえるはずも、姿が見えるはずもない。
「……気のせいか」
ヴェルガーはダークグリーンの瞳を伏せて、切なげに吐息した。
「また、夢を見たのか。こんなにも心を捕らわれているとは……」
再び枕に頭を沈めるヴェルガー。長い銀髪が、月明かりに輝いている。
「会いたい、レティシア……」
囁きは、レティシアに届いた。胸が締め付けられる思いがした。
「私、必ず会いに来ます。ヴェルガー様」
幽閉状態の元・皇太子に面会する許可は下りないだろう。しばらく時間が経ち、監視が緩和されるのを待つしかなかった。
しかし遠くない未来に、ヴェルガーが日の当たる場所に出られることを、レティシアは信じていた。
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