整備された城下町の先に、豪華な建物と広大な庭園を持つ、ドミール帝国の皇族の住む宮殿があった。
ガリエンヌ王国の王宮やオルレニア王国の王城も豪奢であったが、ドミール帝国の宮殿は規模が違った。国内外に支配力を知らしめるために、広大な面積に半世紀以上の年月をかけ、宮殿建設に三万人、噴水庭園に四万人が投入されて完成されたものだった。
「広すぎる。全部見て回るのに、一日じゃ足りないわ。時間がないのに」
レティシアは眉を寄せて唇を噛んだ。美しい宮殿を堪能する余裕はなく、苛立ちを隠せない。本殿以外に、離宮が複数あった。
「俺は知らない、ここにあるかどうかも言わないからな」
セスは表情を見られないよう、ギュッと目を閉じて、二人に背を向けた。
「セス、いいじゃない。また昨日みたいにさ」
マルセルが後ろからセスに抱きつくと、「貴様だけには触られたくない!」とセスはもがいた。
「セスって、どんな風に霊体の身体の場所が分かるの?」
「うるさいな。離せよ」
「教えてくれたら離すよ」
セスは憮然として、すぐ近くにあるマルセルの笑顔を睨んだ。
「霊体から肉体に、緒が繋がってるんだ。それがないのは、死者の霊だ」
「足の辺りから?」
マルセルがレティシアの足を指でさすと、セスは「違う、胸の辺り」と訂正した。
「じゃあ、ここから、あっちに続いてるんだね」
「そうだ」
マルセルが、レティシアの胸から本殿をなぞるように指さすと、セスは頷いた。次の瞬間、セスは憤怒の表情に変わる。
「……貴様、騙したな!」
「騙してないよ。ほら、離した」
マルセルはセスを解放した。
「でも、もうちょっとヒントが欲しいな。本殿だけでも広すぎるよ。ねえ、セス」
「もういやだ、俺は不介入って決めてるのに」
セスは悔しさに涙を滲ませている。
「なに言ってるの。僕たちと一緒にいる時点で、介入してるんだよ」
「なら帰る!」
セスが逃げようとするのを、マルセルは腕を掴んで阻止した。
「レティシア、セスが逃げないように、そっちの腕を取って」
「ええ」
レティシアはセスの空いている腕を掴んだ。
「しっかり抱えて。逃げられたら困るから」
「分かったわ」
「レ、レティシア」
マルセルの言うとおり、レティシアはセスの腕を胸に抱え込んだ。セスは大人しくなり、色白の肌を桃色に染める。
「ここまできたら、最後まで協力しようよ。ね、セス?」
「貴様なんて大嫌いだ」
セスは漆黒の瞳を潤ませて、マルセルを睨んだ。
「どうしたの? 泣いてるの? 君のも舐め取ってあげようか?」
「とっとと、くたばれ!」
マルセルは楽しそうに、喉の奥で笑った。
「二人は、本当に仲良しさんね」
レティシアの感心した声に、セスは魂が抜けたような表情をした。
「まあでも、ここまで分かれば、あっさり見つかるかもね」
「どういうこと?」
レティシアは、宮殿を眺めているマルセルを見上げた。
「君は侍女と一緒に、合法的に連れてこられた。しかも皇太子の婚約者だから、スペシャルゲストだよね」
言われてみればその通りだと、レティシアは肯く。
「そうだ、既に君の部屋を用意していると、君の婚約者は言っていたね。花が好きな君のために、庭園が映える、日当たりのいい部屋が用意されただろう。……そうだな、僕なら、あの辺りにする」
本殿中央付近の三・四階を、マルセルは指さした。
「じゃあ、手分けして探しましょう」
レティシアは手を打った。
セスは口を引き締めて、眉をつり上げている。その表情からは、当たっているのかどうか、レティシアには判断できなかった。
三人が四階の高さまで上がると、ふとレティシアはマルセルが気になった。
「マルセルさん、前に、高い所は苦手だって言っていたわね。どのくらいの高さまで大丈夫なの?」
「ああ、そんなこと言ったっけ」
思い出すような仕草をしてから、マルセルはにっこりと微笑んだ。
「あれは、冗談だったんだ」
「冗談?」
レティシアは驚いた。
「こうして話したら、面白いと思って」
マルセルは以前したように、レティシアを背後から抱きしめた。何度されても、レティシアはドキリとする。
「だから、やめろと言ってるだろ!」
すかさずセスが引きはがした。
「ね、面白いでしょ」
指をさされて、セスは眉をつり上げた。
マルセルは笑いながら、セスから逃げるように宮殿の壁をすり抜けて入っていく。レティシアも、その隣の部屋に入った。
豪華な部屋だった。
薄桃色を基調に、赤い薔薇の壁紙が目を引いた。壁に埋め込まれるように設計された、壁紙と同じ刺繍が施された天蓋つきのベッド。吊り下げられたシャンデリアに、帝国の紋章つきの暖炉。マントルピースの上には絵画が飾られ、装飾豊かな家具が設置されている。どれも新品だった。
「あれは、イザベルだわ」
ベッドサイドの椅子に、手を組んで、心配そうな表情でベッドを見つめるイザベルが座っていた。
「本当に、私がいる」
ベッドには、夜の散歩のために寝衣代わりに着ているベルベッドのドレス姿で、胸の前で手を組んだレティシアが眠っていた。
「マルセルさんに知らせなきゃ……、あっ!」
レティシアが近づくと、いつものように引っ張られる感覚がして、気づくとベッドの天蓋が見えた。
「……戻った、のね」
「レティシア様!」
目を覚ましたレティシアは、イザベルに手を握られた。
「お目覚めになったんですね、良かった!」
「私は、どうしてここに?」
頭が重い。身体を起こそうとしたが、力が入らなかった。本体から長時間離れていた弊害だろう。
「レティシア様に、“永遠に目覚めない奇病”の前兆があったから心配になったと、ヴェルガー皇太子殿下が深夜においでになったんです。両陛下は懐疑的だったんですが、いくら呼んでもレティシア様がお目覚めにならないので、皇太子殿下に託されました。この国には奇病の専門家がいるそうですから、治療が効いたんですね」
奇病ではないことは、レティシアが一番良く知っている。ヴェルガーは嘘をついたのだ。
「なぜ……」
レティシアを目覚めさせないために連れ去ったのだと、マルセルが言っていた。
そして、なぜレティシアが目を覚ますと不都合だったのかは、これから本人に聞けば分ることだ。
「ヴェルガー様は?」
「今、呼んでまいります」
イザベルは部屋を出ていった。
「マルセルさん、いる?」
誰もいない部屋に声をかけてみたが、返事はない。もしマルセルがこの場にいたとしても、声も聞こえず姿も見えないのだから、仕方がなかった。
レティシアは気怠い身体をゆっくりと起こし、ベッドの下に揃えて置いてあったヒールを履いて、部屋を見回した。何もかもが新しい、女性的な部屋を眺めていると、さほど待つこともなくドアが再び開いた。
「思ったよりも、目覚めが早かったな」
ヴェルガー一人が部屋に入ってきて、レティシアの手を取って口づけた。いつもと変わらず姿勢正しく、上品なダブレットを着こなしている。
「イザベルは?」
「帰らせた。お前が無事に目覚めたことを報告するためだ。お前はもうしばらく滞在して、安静にさせる、ということにした」
レティシアを開放する気はないようだ。
「ここがお前の部屋だ。どうだ、気に入ったか?」
「素敵な部屋だと思いますけれど」
レティシアはキッと眉をつり上げて、ヴェルガーを見た。
「これは一体、どういうことですか? なぜ私は、眠っているうちに連れてこられたのでしょうか」
「お前はこれからここに住み、婚礼の準備をしてもらう」
「え?」
「一月後に、婚礼を行う」
「それは、半年後の約束です!」
レティシアは驚いた。一方的に決められても、あらゆる準備が追いつかない。
「気が変わった。お前を手元に置いておきたい」
ヴェルガーの両手が、壁際に押しやったレティシアを囲う。身体が密着して、レティシアは動けなくなった。
「これからわたしは、ますます公務で忙しくなる。お前に会いに行く時間も取れなくなるだろう」
「そうおっしゃっていただけたら、私から出向きました」
「お前のことは気に入っているが、おかしな行動をするようだ。ここで大人しくしていろ」
「いえ、帰らせてください」
「だめだ」
ヴェルガーはレティシアの頬に、オリーブ色の手を添えた。ひやりとして、レティシアは思わず身をすくめる。
「国境をなくす手伝いをしたいと、お前は言った。現実のものになろうというのに、お前が邪魔をしてどうする」
「国境がなくなるんですか?」
「そう広くもない大陸だからな。支配者は一人で十分だ」
「え……」
一瞬意味が分からなかったレティシアだが、理解するにつれ、ルビーの瞳が零れ落ちそうなほど、見開かれていった。
「お前は、支配者の妻となる」
ヴェルガーの色づいた唇が近づいてくる。
「いやっ!」
レティシアは思い切りヴェルガーの胸を押した。ヴェルガーの身体が一歩下がった。
「私の国とオルレニア王国を、なくしてしまうおつもりですか?」
「支配が帝国に変わるだけだ。壁一枚で、経済も、教育も、宗教も違うのは、おかしなことだろう。民に格差のない、平等な権利を与える。わたしにならできる」
「ヴェルガー様……」
ヴェルガーが理想とする理念は理解できた。共感できる部分もあるだろう。しかし、根本的にレティシアとは考えが違うようだった。
「私、帰ります」
「だめだと言っている」
レティシアの行く先は、ヴェルガーの腕に遮られた。顎を持ち上げられ、ふいに口づけられる。
「……っ」
深い口づけに、レティシアは固まった。胸元まであるヴェルガーのストレートの銀髪が、レティシアの頬をくすぐる。
唇を離したヴェルガーは、レティシアの髪をひとなでした。
「そのまま、静かにしているがいい。また来る」
耳元に囁きを残し、ヴェルガーは出て行った。
レティシアは唇を押さえて、壁に背中をつけたまま、へなへなと崩れた。長いレティシアの緋色の髪が、薔薇の壁紙に残る。
初めての口づけだった。柔らかいそれと共に、愛情も注がれたように感じたのに。
彼は同じ唇で、大陸の支配者になると言ったのだ。
「ヴェルガー様、どうして……」
我が国も狙われている。どんな手段を使うのかは分からないが、早く国に戻って、両親に話を伝えなければならない。
「その前に、マルセルさんだわ」
国のことも心配だったが、大国ひとつを、すぐにどうこうできないだろう。しかしマルセルの命の刻限は、刻一刻と迫っている。
「どちらにしても、国に戻らないといけないのに」
レティシアは焦燥感に、くしゃりと髪を掴んだ。
母国の医師を、マルセルの元に連れて行かなければ。
レティシアは部屋を出ようとしたが、ドアは施錠されていた。
「お願い、出して! 帰して!!」
ドアを叩きながら何度も叫んでみるが、なんの反応もなかった。
他に出口がないかと部屋を見て回るが、隣の部屋に繋がるドアや、隠し通路のようなものは見つからなかった。
庭園の広がる外は茜色に染まり、今にも夜の帳が下りてきそうだった。窓を開けて見下ろすが、ここは四階。ベランダもなく、窓から脱出することはできそうもなかった。
「ヴェルガー様が出て行くとき、ドアが開いたチャンスを逃しちゃいけなかったんだわ。私は一体、なにをしているの」
自分の愚かさに腹が立って、レティシアは壁を叩いた。
「あと一日。明日には、マルセルさんが死んでしまう」
こんなところで足止めをされている場合ではない。しかし部屋から出る事さえできなかった。
「いや。死んじゃいやだ。やっとマルセルさんが前向きになってくれたのに。協力するって約束したのに」
自分の無力さに、涙がこみ上げてきた。
両手で顔を覆って涙を流しながら、レティシアはマルセルを思い浮かべていた。
いつも笑顔で、ちょっぴり皮肉屋で、自分の生に執着していなかった人。それが「生きていたくなった」と言ったのだ。自分を頼ってくれたのだ。
その期待に応えたい。マルセルを守りたい。
しばらく小さく肩を震わせていたレティシアは、ゆっくり顔を上げた。長い緋色の髪が風に揺れる。
「私には、まだできることがあるわ」
ルビーの瞳に、輝きが戻った。
レティシアはヒールを脱いで手に持ち、窓の桟に上がると、ふらついた。体にだるさが残っていて、上手く力が入らない。
「しっかりして!」
レティシアは両手で脚を叩いて、自分を叱咤した。
窓をしっかりと持ち、左右の部屋の窓を確認する。開いている窓はない。窓の鍵は開いているだろうか? 開いていなければ、ヒールで割るまでだ。そして部屋の中に入り、廊下に出たらいい。もし隣室の部屋のドアに鍵が掛かっていれば、窓から更に隣室に移って、廊下に出られるまで繰り返せばいいのだ。
「大丈夫、下を見なければ大丈夫」
窓の下には、足場になりそうな溝が横に伸びている。レティシアの足の半分しか幅はないが、それを足場にして、手で窓の桟を掴んで移動できそうだった。
レティシアはヒールをドレスの胸元に差し入れて、溝に足を入れた。桟を掴んでいる手が滑りそうだった。
「大丈夫。木登りは得意で頂上まで登ったし、揺れる吊り橋の上だって走ったわ」
子供の頃の武勇伝を思い出し、励ましながら、慎重に、少しずつ横に移動する。髪が風に煽られて、顔に絡んだ。ドレスも大きく翻っていたが、気にしていられなかった。
なんとか隣の部屋の窓にたどり着いたが、鍵は開いていなかった。部屋の中を確認すると、無人のようだ。
「誰も気づきませんように」
窓を割ろうと、胸元のヒールを掴むために片手を離した時、一際強い風が吹いた。髪が舞い上がりスカートがはためいて、バランスが崩れた。
「あっ」
一瞬で血の気が引き、ドクリと心臓が胸を打った。
だんだんと握力が弱まっていた手が滑り、桟から離れた。レティシアの身体が空に放り出される。
落ちる!
レティシアは強く目を閉じた。
霊体で慣れ親しんだ浮遊感と違い、重力に引っ張られる感覚がある。
怖い。
恐怖と同時に、無念さが込み上げた。
「マルセルさん、ごめんなさい」
唇を噛みしめて、マルセルに謝った。
あなたを助けたかった。
生身で会って、もっと話したかった……。
………………。
…………。
……。
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