「レティシア様、こんな時間にお戻りですか? あちらで療養されるはずでは?」
イザベルの部屋を訪ねると、さすがに寝衣を着ていたが、寝起きと思えないほどしっかりした様子でレティシアを迎えた。
既に夜は深くなっており、数時間もすれば陽が顔を出す時間だった。
無事に山越えを共にした白馬を衛兵に無理矢理預け、更に厩舎係を起こすよう頼んでからレティシアは王宮に飛び込んだ。
「レティシア様、そのお姿はなんですかっ」
今度は吃驚の声だった。レティシアの白いベルベッドのドレスがボロボロになっているのに気付いたからだ。それだけではない。手も足も擦り傷だらけで、手の平にはまめが潰れて、血液と滲出液で濡れていた。
「イザベル……」
姉のように慕う侍女の顔を見た途端、レティシアは力が抜けた。イザベルは慌てて頽れるレティシアを支える。
「私、ヴェルガー様のところを逃げ出してきたの」
「皇太子殿下に、なにをされたというのです? ああ、こんなになって。怪我の治療をしなければ」
狼狽するイザベルに、レティシアは力なく首を振った。
「まだ私にはやることがあるの。着替えを手伝って、あとで詳しく話すから」
「なにをおっしゃっているんです。レティシア様には治療と療養が……」
「イザベルお願い、協力して」
レティシアはイザベルの言葉を遮った。身体は疲弊しきっていたが、眼力は普段よりも強いくらいだった。イザベルはその気迫に息を呑み、仕方がないというように大きく息を吐くと、困ったような笑顔を浮かべた。
「レティシア様は、言いだしたら聞きませんからね」
「ありがとう、イザベル」
レティシアはイザベルを抱きしめて、頬にキスをした。
二人は衣裳部屋に移動した。
身支度を整えながら、レティシアは語った。ヴェルガーがこの国を侵略する可能性があるので、注意するよう両親に伝えて欲しいこと。オルレニアの王子が瀕死なので、これから医師を連れて、オルレニア王国に向かうつもりだということ。
「侵略? 私が両陛下に、そんな恐ろしいことをお伝えしなければならないのですか? もし間違いでしたら……」
「間違いじゃないわ、私は本人の口から聞いたのよ。改めて私からも話すけれど、今は急いでいるの」
オルレニア王国には公式な訪問ではないとはいえ、身だしなみくらいは王族らしくと、イザベルに注文した。
胴部は精密かつ上品な金襴をあしらい、そこから立ち上がった糊のきいた高いレースの襟、そして宝石がちりばめられた豪華なドレスで着飾った。緋色の長い髪は、高い位置でひとまとめにする。
王女らしい姿になったが、この姿で馬に乗り、また山を越えるつもりだった。夜は国境の入国機関が閉じているし、そこにかける時間はない。
「この国で一番の名医って誰かしら?」
「それは勿論、レティシア様に秘薬を処方されたことのある、アルフレッド先生ですわ」
レティシアは王室専属の、白髪白髭の医師を思い浮かべた。
「やっぱり、そうよね。起こしに行くわ、付き合って」
「こんな時間に、だめですよ。王室の方を診察していただくならいざ知らず、他国に、しかも無断で行くなんて。先生が同行してくださるはずがありません」
「お願いしてみなければ分からないわ。だって、お医者様でしょ? 国がどことか、患者が誰とか、関係ないじゃない。先生のお仕事は、命を救うことよ」
「ごもっとも、ですけども」
イザベルは唸った。
押しの強いレティシアを知っているだけに、イザベルは引きとめるのを諦めて、アルフレッド医師の部屋に案内した。
アルフレッドの住居は、王室診療所がある離宮の一角にある。
診療所は王室優先だが、一般の患者も受け入れているため、宮殿の敷地内でも、最も王宮から離れていた。
離宮の衛兵たちは真夜中に王女自らが現れて驚いていたが、なにか大切な用事なのだろうと、スムーズにアルフレッドの部屋まで通された。まさか、お忍びで他国に行こうとしているとは思いもしないだろう。
「一人でお歩きにもなれないのに」
イザベルはブツブツと小言を言っている。レティシアは、イザベルの肩を借りて歩いていた。
「一人でも歩けるわ。これからのために、体力を温存しているのよ」
それは強がりではなく、半ば本気で言ってた。しかし医師でなくても、レティシアが精神力だけで動いていることは明らかだった。
「レティシア様は、いつも誰かのために頑張りすぎです。たまにはご自分のことを第一に考えてください」
「……私だって、誰にでもってわけではないわ」
レティシアの口調が変わったのに気づいて、イザベルは小さなレティシアの顔に目を向けた。
マルセルは、自分の生が国の火種になることを恐れて、消極的に生きてきたようだ。いや、自虐的だったと言っていいだろう。誰にも本心を見せず、死を望んですらいたかもしれない。
だが、やっとレティシアに心を開いてくれた。生きようと前を向いてくれた。そしてレティシアを信じて、差し伸べた手を握り返してくれた。
「絶対に、助けたいの」
ズキリと痛む手足に歯を食いしばりながら紡いだ言葉からは、強い意志が迸っていた。
アルフレッド医師の家に到着すると、レティシアは容赦なくドアを叩いた。
「先生、起きて!」
出てきたアルフレッドの妻はレティシアを見て驚き、慌てて引っ込んだ。
「これは王女殿下、急患ですかな」
目をシパシパとさせて、アルフレッドが出てきた。寝衣から簡単に着替え、黒いローブ姿となっている。
「ええ、急患よ。オルレニアの王子様が二人、重体なの」
「んん? なんですと?」
聞き違えたと思ったのか、アルフレッドは耳に手を当てたので、レティシアはもう一度繰り返した。
「あっちのお医者様はお手上げみたいなの。アルフレッド先生、診てあげて。秘薬があるんでしょ?」
「お言葉ですが王女殿下、秘薬の意味をご存知ですかな? 王家に代々伝わる、秘匿性の……」
「そういうのはいいから! 一人は銃で撃たれたの。もう一人は分からないから、あらゆる可能性を想定して準備をして」
アルフレッドは冷や汗をかいている。
「あちらから要請があったのですかな? 陛下はこの事態をご存じで?」
「責任は私が全て取るから、先生はとにかく準備して。急いで!」
腰の重い医師をせっつくレティシア。
「どなたか、レティシア様の手も治療してくださいな。滋養強壮になるものもお願いね」
イザベルはちゃっかりと注文した。
別の部屋に住む医師が一人、助手が三人集まって、出発の準備ができたのは明け方だった。
「なんでこんなに時間がかかるの。日が昇っちゃったわ」
レティシアは焦燥感に、胸が潰されそうだった。
「マルセルさん、お願い、死なないで」
レティシアは、包帯を巻いた手を胸の前で組んで祈った。
霊体の時のように、飛んで行けたら早いのに。
そう思いながら、肥満気味のアルフレッドを引っ張って、レティシアは厩舎に医師たちを連れて行った。
「う、馬ですか、王女殿下。わたしをいくつだとお思いですか。隣国に到着する前に死んでしまいますわい」
「大丈夫、先生は私と一緒よ。馬に掴まって、歯を噛みしめて、目を閉じているだけでいいわ」
「お願いですから、馬車で……」
「そんな時間はありません!」
レティシアに押し切られ、権威のある王国一の医師陣が半泣き状態になった。
厩舎係に用意させた五頭の馬に、それぞれの医師と助手が乗る。アルフレッドはレティシアの後ろに座った。
「レティシア様、せめて乗りなれた者を騎乗させてはいかがでしょう?」
イザベルは心配して提案した。
「あまり人数が増えては目立ちすぎるわ。それに少し休んだから、私は大丈夫」
実際、レティシアの体力は回復していた。医師が配合した薬の効果だけではなく、張りつめた極限状態のため、脳内物質が放出されているせいでもある。
ドミール帝国から走らせた白馬は休ませている。手入れをして労ってから、後日返す予定だ。
「みんな、私の後ろについてきて!」
レティシアは馬を走らせた。
「ちゃんと、同じ軌道を走るのよ! 危ないからね!」
「馬に乗るのは三十年ぶりです、王女陛下」
「先生、舌を噛まないようにね」
「ふおっ、ふおっ」
レティシアの後ろに乗ったアルフレッドは、しっかり王女の細腰に手を回した。身体が上下するたびに、顎や腹の肉がタプタプと揺れる。
舗装された道が終わり、砂利道が続く。しばらくすると更に足場の悪い山道に突入した。
陽光は密生した木々に阻まれ差し込まず、湿った土には苔が生えていた。これから先は小型の馬車がなんとか通れるだけの狭い道となり、そして本来なら馬も通らない獣道になる。
「明るいと、やっぱり楽ね」
夜中に走らせた時とは、馬の速度が違う。
ピントゥ連峰は千メートルに満たない山の連なりで、場所を選べば標高はさほどではない。人でも半日で山を越えられるし、馬なら数時間というところだ。
「しっかり、みんな頑張って!」
レティシアは後方に声をかけた。
レティシアは安全な道を選んでいるが、その軌道からずれると、飛び出している枝に引っかかって、怪我をしてしまうかもしれない。夜は見えない枝に、かなり苦労させられた。
「ここが国境よ」
二人乗りで足場が悪いにも関わらず、馬はレティシアの肩ほどまである壁を飛び越えた。
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