そして、その数日後のよく晴れた午後。
レティシアは馬を走らせて、ピントゥ連峰の日当たりのいい丘の上に来ていた。
「こっちだよ、レティシア」
王族らしく金糸の刺繍が施された、仕立てのいいダブレットを身に纏ったマルセルが、木陰に立っていた。
「ごきげんよう、マルセルさん。乗馬は傷に響かなかった?」
マルセルはレティシアが馬から降りる補助をして、綱を木に括りつけた。マルセルが乗ってきた馬も、近くの木陰で寛いでいる。
「傷が開いてから数か月は面会謝絶で、いやというほど寝ていたからね。すっかり治ったよ」
残念ながら傷跡は残るけど、とマルセルは、いつものように柔らかく微笑んだ。
「私たちは毎日、夜に会っていたじゃない」
クスクスとレティシアは笑った。長い緋色の髪が日を浴びて光沢を放ち、レティシアを増々明るく照らしていた。
「君は太陽のようだね」
「あら、褒めてくれているの?」
「太陽はそこにあり続けるだけで、周囲を変化させる。だけど、その影響力に無自覚だ。それが君に似てる」
褒められてはいないようだと、レティシアは眉を下げた。
「だって君、僕を変えた自覚ある?」
「マルセルさん、どこか変わった?」
レティシアは首を傾げた。
マルセルはレティシアの手を握り、先ほどまで座っていた木陰に並んで腰を下ろした。
マルセルたちの銃撃事件をきっかけに、各国の交流が盛んになった。三国の王が顔を揃えたのは初めてのことだったので、その際に国交の話し合いが持たれたことが大きかった。国境の壁を取り除かれることこそなかったが、入国審査が大幅に緩和された。近々、この大陸に住居のある者ならば、三国間の審査が不要になる方針だ。
この丘はオルレニア王国領であったが、緩和のおかげで、レティシアは国境ゲートを簡単に通過することが出来た。
「話したいことがあって呼んだんだ」
「毎日会ってるのに」
「ちゃんとこの身体で、二人きりで、君に言いたいことがある」
幽体としては毎晩のように三人で顔を合わせていたが、マルセルはセスに聞こえないよう、昼間に会おうとレティシアと約束を取り付けていた。
「な、なにかしら?」
突然距離が近くなって、レティシアは怯んだ。
マルセルはレティシアに向き合って、足の間にレティシアの両足を挟み、両腕でレティシアを囲った。木の幹を背後にしていたレティシアは、立ちあがることもできなくなる。
マルセルは柔和な笑顔を消し、静かな表情でレティシアを見つめている。雰囲気が変わり、レティシアは居心地が悪くなった。
「僕は君が好きだ。正式な手続きを踏んで、結婚を申し込むつもりだよ」
「マルセルさん」
突然の告白に、心臓が跳ね上がった。「そういえば」と、キスをされそうになったことを思い出す。慌ただしい中だったので深く考えず、記憶の片隅に追いやっていた。
「僕の事、どう思う?」
「私は……」
レティシアは答えに困った。マルセルのことは好きだったが、その気持ちが結婚と結びつく感情なのか、判断できなかった。
レティシアは四人姉弟。弟が三人いるので、いつか王室を出ることは決まっていた。当たり前に政略結婚であることは幼いころから理解していて、困った事態にならないよう、異性と接触することは周囲も、レティシア自身も避けていた。
つまり、異性との接触が極端に少なく、恋愛感情を育んでこなかった。親に指示された相手に嫁ぐ覚悟があればいいと思っていたのだ。
「僕が嫌い?」
「そんなはずないわ」
レティシアはいまだかつて、人を嫌ったことがない。
「じゃあ、僕と結婚してもいいよね。だって君、隣国との架け橋になりたいんでしょ? ドミール帝国が、オルレニア王国に変わっただけじゃない。それとも、ドミール帝国じゃないと、いや?」
「そういうことじゃ……あっ」
耳元で囁かれ、そのまま頬に口づけられる。
「あの、やめてください」
マルセルの胸を押した。少しだけ、顔に距離ができる。
「破談になったばかりで、すぐに次だなんて」
「世間体?」
「私の気持ちだって、整理できません」
「あの男に惚れていた?」
「それは……」
愛だ恋だと聞かれると分からなくなるが、ヴェルガーの妻になる覚悟はできていた。二人の将来だって思い描いた。初めての口づけもヴェルガーだった。
「どうしてあいつが、あんなに軽い刑になったか分かる? 皇帝も政治的に動いていたみたいだけど、被害者である僕と兄が許すと言ったのが大きかったんだからね。昔の僕なら、絶対に許さなかったよ」
「なぜ、許してくれたの?」
「君が悲しむと思ったから」
マルセルはレティシアの額に自らの額を合わせ、至近距離からみつめた。
「僕はずっと、君に腹を立てている」
「なぜ……?」
鼻先がぶつかる。言葉を発するだけで息がかかるほど近く、恥ずかしさに頬を染めたレティシアは、どうしていいのか分からなかった。
言葉と裏腹に、マルセルは苦しそうな、憂うような表情をしていた。大きなマルセルの手がレティシアの頬を包み、親指が優しく肌をなでる。
「僕はなんの執着もなかった。王位にも、人生にも、命にも。むしろ僕が存在するだけで権力の火種になりかねないから、いない方がいいとさえ思っていた。そんなときに記憶を失ったから、死んでもいいと思っていたんだと思う」
マルセルは頬に、首に、項にと唇を滑らせながら話す。レティシアが胸を押しても、今度は離れなかった。熱い息がかかって、レティシアの身体に甘い痺れが走り、言葉に集中できなかった。
「それを君が変えた。生への、君への執着心が僕の中で芽生えたんだ。しかも、死の淵から、君が救った」
唇が元の位置に戻ってきた。
至近距離で、青い瞳に見つめられる。
「責任とってよ」
唇が重なった。レティシアの全てを奪い尽くすような、深く、情熱的な口づけだった。
マルセルの柔和な笑顔も、秘められた知性を帯びた瞳も、皮肉屋だけど包み込むような優しさも、全てレティシアは好きだった。しかしこのまま流されるには、ヴェルガーとの日々が鮮明すぎた。
「マルセルさん、待って……」
巧みな愛撫に生理的な涙で濡らした瞳で、レティシアはマルセルを見上げた。上気した肌はしっとりとマルセルの肌に吸いつく。マルセルは意地悪く口角を上げた。
「いい表情になってきたね」
レティシアは、かあっと体中が熱くなった。
「そんな、いやらしい言い方……」
逃げ出したいのに、マルセルの中に囚われて動けない。
「お願いだから、離して」
顔を隠そうとするレティシアの両手はひとまとめにされ、片手で軽々と頭上に縫いつけられる。
「残念、許さない。僕の目の前で、他の男を誘惑した罪は重いよ」
ヴェルガーを押し倒した大胆な行為を思い出し、レティシアはこれ以上ないというほど、全身を赤く染めた。
相手は婚約中の人だったし、誰もいないと思ったしと、レティシアは言いたいことが沢山あったが、ごちゃごちゃになった頭では言語化できなかった。言葉がつむげず詰まった感情は、涙として溢れだした。
「レティシア、聞こえてる? ちょっといじめすぎたかな。嫌われても困るし」
反応の鈍いレティシアに、マルセルは軽く口づけた。
「とりあえず、今日はこれで許してあげる」
マルセルはレティシアの拘束を解いて抱き寄せた。混乱中のレティシアは、マルセルにされるがままになっている。
「もうなにもしないから、安心して、レティシア」
よしよしと緋色の髪をなでるマルセル。レティシアは「なにもしない」の言葉を聞きとって、くたりとマルセルの胸に身を任せた。
「今日はね」
マルセルは小さく呟いた。
「僕は、欲しいものは手に入れるタイプだから。覚悟してよね、レティシア」
広い胸板に耳をつけてその心音を聞きながら、火照り切った身体を冷まそうとしていたレティシアは、遠くでそんな言葉を聞いた気がした。
おしまい。
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