Triangle Heart~夜の散歩姫~

JUN
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一章 記憶を失った男 1

公開日時: 2020年10月17日(土) 20:33
文字数:4,713

 天蓋付きのベッドの上で、胸の上で手を組んで眠っているレティシアを、繊細な刺繍のカーテンがかかった窓から、月光が青白く照らしている。日中はよく動いている大きな瞳は瞼で閉ざされ、潤った小さな唇から、穏やかな呼吸が漏れていた。その顔を、全く同じ姿の人物が浮かびながら見つめている。

豪華な彫刻が施されているベッドの支柱の影は、眠っているレティシアに落ちているが、すぐ上に浮かんでいるレティシアの影はどこにもない。

「さて、今夜も行きますか」

 レティシアは夜の帳を吹き飛ばしそうな、明るい声を発した。

 満月の夜。

 壁を通り抜けて四階の部屋を出たレティシアは、踝まである白いベルベッドのドレスを風に泳がせながら、ゆったりと空を飛んだ。腰まで届く太陽のような緋色の巻き髪が風に広がる。

「んー、気持ちいい」

レティシアは満面の笑みを浮かべた。初めて幽体離脱をした日から、十年間日課として続けている、夜の散歩だ。

肉体を抜け出すと、重力から解放される。基本的に物に触ることはできないし、五感も鈍くなるようで、温度や匂いも感じない。初めは戸惑ったレティシアだったが、昼の実体と夜の幽体を楽しめるようになった。

 王室が居住するルゼリエール宮は、一流の建築家、室内装飾家、造園家によって何年も時間をかけ、何千人もが手掛けた、ルネサンス様式の白く美しい宮殿だった。しかしそれでも、隣国に比べると慎ましやかだった。王国は権威の象徴ではなく民に寄り添うものという、国王である父の方針を、レティシアは好ましく思っていた。

「来ていたか、レティシア」

 国境沿いの森の、見晴らしのいい木の枝に座っていたレティシアを、いつもの声が呼んだ。

「ごきげんよう、死神さん。月が綺麗な夜ね」

「名前で呼べと言っているのに」

 ブルネットの髪の青年は、細い眉をしかめた。膝下まである細身の黒衣を纏った姿で、空に浮いている。

サラリとした長めの前髪にかかった漆黒の瞳はアーモンド形で大きく、襟足は切りそろえられていて、細く白い首が強調されて見えていた。中性的な美しさのその容姿は、出会った十年前の名残を残して成長していた。

十七歳になったレティシアも、太陽のような緋色の髪と輝くルビーの瞳はそのままに、すらりと手足は伸びて、女性らしい身体つきになっていた。幼女時代の丸みを帯びたラインを若干残しつつも、果実のような潤った唇や芯の強い瞳から色香が漂う。この年代特有の、アンバランスな魅力が備わっていた。

「死神さんって呼び慣れちゃったんだもの。ねえ、隣に座ったら?」

「すり抜けるから、座れていないだろ」

「こういうのは気分が大事なのよ」

「いい加減な奴だ」

 二人は並んで、木の枝に腰掛けた。

「いつも思うの。私はすっごく得してるわね」

「なぜ?」

「空を飛べるし、誰にも気づかれずに建物にも入れるのよ! 第一、国境なんて関係なく、隣国を見て回れるんだもの。こんなに素敵なことはないわ。でもイザベル以外は誰も信じてくれないから、自慢するのはやめたの」

 表情をくるくると変え、生き生きと話すレティシアを、目を細めて眩しそうにセスは見ている。

「お前といると退屈しないな。お前が死んだら、ずっと一緒にいられるのに」

 セスは度々、その言葉を口にしていた。

「まだまだ先よ。これでも私、王族として、やらなきゃいけないことがいっぱいあるんだから」

 胸を張ったレティシアの視界に、見慣れないものが映った。

「あれ? 人がいる」

「人くらいいるだろ」

「夜の森なのに。あ、人じゃなくて、幽霊かも。ほら」

 霊体から見るときは、生きている人間は色あせて見える。しかしレティシアが指さした人物は鮮明だった。その二十代半ばほどの青年は、レティシアたちのいる木の近くに立ち、満月を見上げていた。

頬にかかるウェーブの金髪は月光を浴びて輝いている。少し垂れぎみの優しい目元をした青い瞳にも満月を映しているが、なんの感情も浮かべていなかった。シンプルな白い絹のブロケードのシャツを身に着けていて、それが長身で逞しい体つきを際立たせている。高い鼻梁にシャープな輪郭を持つ、端正な容姿をした青年だった。

「あなた、幽霊?」

 レティシアが近づいて声をかけると、青年はハッと表情を強張らせた。

「君は……?」

「私はレティシアよ」

「いや、名前じゃなくて」

 青年は眉間にしわを寄せた後、表情を緩めた。

「……やっと話せる人に会えた」

「あなたの名前は?」

「僕の名前は……」

 青年はくっきりと整った眉を顰めた。

「分からない。僕が何者なのか、なぜここにいるのか」

「どういうこと?」

「なにも思い出せないんだ」

 青年は苦笑する。

「まあ、記憶喪失ね! 私、初めて見たわ!」

 レティシアの声は場違いに明るかった。

「死神さん、迷子の幽霊よ。お仕事よ!」

「死神?」

 青年はぎょっとしてレティシアが声をかけた方向を見る。セスは細腰に手を当てて、品定めでもするように青年を見下ろしていた。

「僕はやっぱり、死んでいるんだね。なぜ、どこで死んだのか。せめて記憶を取り戻したいけど」

 青年は悲しんでいるようでもなく、飄々としている。

「死んでない」

 セスが否定した。

「お前の肉体は死んでいない。だが、このままだといずれ命は尽きるだろう」

「それって、私の時と同じだわ! 私も子供の頃に死にかけたの。だけど、元気になったわ。あなたも元の身体に戻らないと」

 レティシアはきょろきょろと周囲を見回した。

「あなたの身体はどこにあるの? 早く戻らなきゃ!」

「お前、こいつの話を聞いていたのか?」

 セスが呆れたように口を挟んだ。

「失礼ね、聞いてるわよ、記憶喪失なんでしょ? ……あっ、身体がどこにあるのか分らないのね」

 レティシアはむくれた後、顔を赤くした。

「じゃあ、一緒に探しましょうよ。きっと近くにあるはずよ」

 レティシアは気を取り直して提案した。

「いや、話しかけても誰にも気づいてもらえないから、三日ほど動き回ったんだ。森の中で目覚めたから、多分この辺りだろうと戻ってきたんだけど。似たような山が多いから、その場所さえ分からなくなってしまった」

 その言葉に同情して、レティシアは青年の大きな手を取った。その手は、温かくも冷たくもない。霊体同士は触れることができるのだが、体温は感じなかった。青年と並んでみると、レティシアと頭一つ以上の身長差があった。

「もう大丈夫よ。だって彼は、生と死を司る神様なんだもの。あなたの身体の場所くらい分かるはずよ。ね、死神さん?」

 得意顔のレティシアは、セスを振り返った。セスは細い眉を吊り上げ、不機嫌そうな表情だ。

「……まあ、分かりはする」

 セスは頷いた。

「本当に?」

「ほらね!」

「でも、教えない」

 セスは腰に片手を当てたまま、そっぽを向いた。

「えっ、なぜ? 死神さんは迷子の魂の案内をするのがお仕事でしょ?」

「それは死者の話だ」

「そんな意地悪を言わないで。いいじゃない、暇でしょ?」

 セスは、青年と繋がったレティシアの手に、チラリと視線を向けた。

「そういう問題じゃない、人には不介入が決まりだ。それに神の力を欲するなら、代償が必要だ」

「ああ、そうだったわね。でも場所くらい教えてくれてもいいのに。死神さんたら、意地悪ね。もういいわ、私たちだけで探しましょ」

 レティシアは握ったままだった青年の手を引っ張った。セスは眉間に皺を寄せる。そんな二人の様子を、青年は興味深そうに見ていた。

「まったく、なんにも覚えてないの?」

「そうなんだ」

 青年は広い肩をすくめた。

「ちょっと考えがあるの。上に行きましょ」

「上……」

 レティシアが上昇しようとしたが、青年は動かなかった。

「高い所は、ちょっと」

「怖いの? そういうことは覚えてるのね」

 青年は苦笑する。

「でも、見た方が早いもの。行きましょう」

 レティシアは強引に引っ張った。

「じゃあ、肩を貸して」

 青年はレティシアの背後から被さって腕を回した。抱きしめられるような体勢になり、レティシアは固まった。

「こうやってくっついていれば、怖くないかも」

「えっと、あの」

 レティシアは真っ赤になり、どうしていいのか分からなくなった。

実はレティシアは婚約中の身だ。半年後の十八歳の誕生日に、隣国の皇太子と結婚することが決まっている。とはいえ、まだ男性と密着するような行為には慣れていなかった。

「なにやってんだ、離れろっ。俺が連れて行ってやる」

 セスはレティシアから青年を引き剥し、腕を取って問答無用で上昇した。

「死神さん、ひどいな」

「貴様までそう呼ぶな。俺はセスだ」

「ふふ、こうくると思ったんだ」

 青年の声のトーンが変わり、レティシアにしたように、背中からセスに抱きついた。片側の口角を上げて、ニヤリと笑う。

「離せよ、振り落すぞ」

「いいよ、高いところが苦手なわけじゃないし、落下する心配もなさそうだ。そもそも、こんなに細くて僕を振りほどけるのかな」

 華奢なセスの身体は、青年にスッポリと包まれた。

「ねえ、セスってレティシアのことが好きなの? それをレティシアは知ってるの? そもそも、人と死神ってどうなの?」

 立て続けに青年はセスの耳元で囁いた。白いセスの肌が桃色に染まる。

「うるせえな、意地でも振り落す!」

「そうしたら、またレティシアに掴まるけど?」

「……」

 青年の柔かい笑みを、セスは首を曲げて睨んだ。

「お前、性格悪いな」

「不思議だな、初めて言われた気がしないよ」

 笑みを深くする青年を忌々しそうに見て、セスは舌打ちをした。

「このくらいでいいわ。ねえ、見て」

 声をひそめた二人の会話が聞こえないレティシアは、のんきな声でピントゥ連峰を指さした。

「この大陸には三つの国があって、この山は丁度、三国の国境の交わる場所にあるのよ」

「大地にも境界線が柵で作られてるけど、森の中にまであるんだね。俯瞰するとくっきり線があって面白い」

 青年は感心したように感想を述べた。

「私は国境なんて、なくてもいいと思うけど。それは置いておいて」

 レティシアは表情をわずかに曇らせる。

「国によってガラッと特徴が変わるでしょ? 百年前まで三つ巴で戦争をしていて、その後は不可侵条約をしているのだけど、国交があまりなくて、独自の文化が発達したの」

 レティシアの国であるガリエンヌ王国は東側に位置し、農牧が盛んで、鉱物資源も豊富だった。

対極なのは中央に位置するドミール帝国で、最も産業レベルが高く、帝国内に建造物がひしめいている。城を中心として城下町が整備され、下水道などのインフラにも重点が置かれていた。

西のオルレニア王国は、他の大陸と国交を結び、船による貿易が盛んだった。離れた国の文化を取り入れていて、建造物をとって見てもユニークな造形をしている。

「でね、それぞれの国で、住民の特徴も違うのよ。私の国は、私みたいに赤毛が多いの。ドミール帝国は銀髪でオリーブ色の肌が多いわね」

 レティシアは国を指さしながら説明する。

「そしてオルレニア王国は、僕のような金髪?」

「そう!」

 レティシアは頷いた。

「だからきっと、あなたはオルレニア王国の人だと思うわ。最も、まったく交流がないわけじゃないから、それぞれの国にいろんな人がいるけれど。上流階級では顕著だってことね」

 レティシアは青年の、手触りのいい上質のシャツを、指でつつく。

「あなたも貴族だと思うわ。一応、オルレニア王国以外の線も探すけれど」

「探すって、どうやって?」

 青年に聞かれると、レティシアは胸を反らせた。

「こう見えて私、ガリエンヌ王国の王女なのよ。国内の調査なら問題ないわ。それにドミール帝国の皇太子様と婚約をしているから、三日くらい前から意識のない貴族がいないか、帝国でも調べてもらうわね」

「君、婚約してるの?」

 青年は意外そうに尋ねた。

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