「感染症の治療薬など、どの国を探してもない」
貿易が盛んなオルレニアの医師は力強く、そして無念そうに言った。
「我が国にはあります」
まさか、そんなと、オルレニアの医師たちがざわめいた。
「しかしこの状態で、間に合うか……」
アルフレッドは小瓶の液体をマルセルにゆっくりと飲ませた。
近くにいるレティシアには、オルレニアの重臣たちが、「あんな怪しげな薬を殿下に服用させていいのか」「そもそも信用できるのか」と囁き合っているのが聞こえた。男たちをレティシアは睨んだ。
「マルセルさんは一週間近く寝込んでいたはずです。なぜ症状を公表されなかったのですか? そうすればもっと早く、手を差し伸べる事もできたはずなのに」
拳を握りしめて、レティシアはオルレニアの重臣たちを責めた。悔しくて、涙がにじんでくる。
「この状況でお分かりでしょう。我が国の後継者である殿下お二人が、同時に死に瀕しているのです。我が国は血統を重んじる。お二人の他に世継ぎがいないため、国民に動揺を与えたくなかったのです。せめて、どちらかが目覚めるまで」
レティシアたちを迎えた側近の男が答えた。
「正直に申し上げましょう。ギルフォード殿下とマルセル殿下は、何者かに狙撃されました。犯人は判明しておりません。国境沿いの森で撃たれたのですから、隣国を疑うのは当然です。どうして要請ができましょう」
それで情報が漏れないよう箝口令を敷き、秘密裏に治療と犯人の捜索をしていたのかと、レティシアは合点がいった。
しかし同時に、悲しい事実でもあった。
馬を走らせれば一日とかからない、こんなに近い隣国であるにもかかわらず、問題があると手を取り合うことができないどころか、疑われてしまうのだ。
「失礼ですが、王女殿下。我が殿下の容態を、なぜご存知で?」
レティシアは一瞬言葉に詰まった。
「マルセルさんが夢に出てきて、助けを求められたの」
咄嗟にもかかわらず、上出来の回答だったと、レティシアは自分に及第点を出した。
「なるほど。いつから、そんなに深いご関係が?」
マルセルが国王の夢枕に立ったと聞いている側近は、レティシアの言葉を信じたようだ。だが、別の疑問を投げかけてきた。
「深いというか……」
まだ会って四日しか経っていない。だが、もっと前からの付き合いのように、親しく感じていた。
レティシアにとってマルセルは、どこか危うい、放っておけない、気になる存在だった。
「おおっ」
部屋がざわめいた。
「ギルフォード殿下が目覚められた!」
歓声が上がる。
一目見んと、ギルフォードのベッドの周辺に人が集まった。
「マルセルさんは?」
レティシアはマルセルのベッドに近づいた。包帯の解かれた肩口を近くで見て、レティシアは眉を顰めた。
弾痕は黒く変色し、縫合をしようとして失敗したのか、膿んだ傷口の周辺に、別の細かい傷が囲っている。引き締まった胸は殆ど上下しておらず、息をしているのか分からない程浅い。
「マルセルさん、お兄様は目を覚ましたのよ。あなたも頑張って」
レティシアは祈るように、マルセルの大きな右手を両手で握った。手はカサカサに乾き、弾力がない。
「マルセルさん」
レティシアは、マルセルの頬に手を添えた。夜に会っていたマルセルと、人相が違った。頬の肉はそげ、垂れぎみの目は窪んで黒ずんでいる。唇は渇いて荒れ、金色の髪は輝きをなくしてぺたりと頭に張り付いていた。
闘いの跡だと思った。
この身体は、何日も感染症と闘っていた。
そして今、力尽きようとしている。
「戻ってきて、マルセルさん」
レティシアの手札は、もうない。全てやりきった。あとは祈ることしかできなかった。
もっと早く到着できたのではないか。そうすればギルフォードのように、すぐに目覚めたのではないか。
道のりを振り返り、レティシアは自分を責め、涙がこみ上げてきた。頬から雫が滴り、マルセルの手に落ちる。
その時、握っている手がピクリと動いた気がした。
「……っ!」
レティシアは顔を上げ、マルセルの顔を覗き込んだ。
睫毛が震えている。
「マルセルさん!」
サファイアのような瞳がゆっくりと広がり、レティシアを捕えた。
マルセルの唇が動く。
「レティ……」
マルセルの掠れた小さな声は、レティシアの声を聞いてベッドに押し寄せた人たちの喜びの声にかき消された。レティシアは場所を譲って下がりながら、再び目頭を熱くした。
「間に合った……。助かったわ先生、ありがとう!」
レティシアは、アルフレッドのふくよかな身体に抱きついた。
「わたしは当たり前の処方をしたまで。お二人の命を救ったのは、レティシア王女殿下です」
レティシアは首を横に振った。
「協力してくれた、全ての人に感謝します」
二つのベッドに分れ、王子の目覚めを祝福している臣下たちの姿を、涙を拭いながら、微笑ましくレティシアは見ていた。
「これでお前は満足か」
セスの声が耳元に届く。
人の少ない位置に移動して、レティシアは頷いた。
「ええ。死神さんのおかげよ、ありがとう」
セスの声が聞こえる方向に顔を向けて、レティシアは微笑んだ。
「俺にも感謝するのか。……まあいい。俺は考えたいことがある。じゃあな」
「死神さん、どこかに行くの?」
返事はなかった。姿を消したらしい。
「レティシア王女殿下、マルセル殿下がお呼びです」
後ろから声をかけられて振り返ると、オルレニアの側近が立っていた。レティシアは返事をして、マルセルのベッドに近づく。部屋の人数は減っており、マルセルのベッドの周辺は、誰もいなかった。
マルセルの身体には包帯が巻き直され、衣服も整えられていた。枕に半分埋まるようにして横になるマルセルの顔色は、だいぶ回復していた。一番印象的なのは、碧眼が生き生きと輝いていることだった。
「レティシア、こっちへ」
マルセルが微笑んだ。やつれてはいたが、見慣れた、柔らかい笑みだった。レティシアはホッとして、ベッドサイドの椅子に腰かけた。
「カーテンを。呼ぶまで離れているようにね」
マルセルがレティシアの後ろに声をかけると、側近は天蓋ベッドの豪奢なカーテンを閉めた。遮光性のあるカーテンで、部屋の明かりが遮断され、ベッドサイドの蝋燭の明かりのみとなってしまう。
三本の蝋燭が、天蓋ベッドの影を揺らした。
「人払い?」
「二人だけで話したくて」
レティシアの不思議そうな顔に、マルセルは答えた。
幽体離脱だ死神だと、日常とかけ離れた話をするなら、確かに聞かれない方がいいだろうと、レティシアは納得した。
「お帰りなさいマルセルさん。なんて、おかしいわね。この姿で話すのは初めてだわ」
レティシアは微笑んだ。
「君のおかげだ。君が僕を救ってくれた」
「あなたが生きると言ってくれたからよ」
「そう、君に変えられた。もっと近くに来て、レティシア」
レティシアは立ち上がり、マルセルの左サイドのベッドに手を乗せた。すぐ近くに怪我をしている肩があるので、触れないように注意する。
「馬鹿だな。僕のために二十年も捨てるなんてさ。他の方法だって、あったはずなのに」
「いいの。間にあって良かったわ」
こうして目覚めたマルセルを見ると、自分の判断は間違っていなかったと確信できる。
「君は、僕ために何度も泣いてくれた」
「そうだったかしら」
レティシアはしらばくれた。涙もろいのは自覚していて、それをレティシアは恥じていた。
「いつも誰かのために泣くの?」
「そんなに泣いてないわ」
レティシアはむきになった。
「不思議だよ。涙なんて、鬱陶しいだけだと思っていたけど」
マルセルは笑みを深めた。
「これからは、僕のためだけに泣いて」
「っ!」
マルセルの右手がレティシアの腕を掴み、引っ張られた。バランスを崩してマルセルの身体に被さりそうなところを、なんとかベッドヘッドを掴んで留まる。傷に触れると思ったからだ。
「マルセルさん、急に引っ張ったら危な……」
しかしそのレティシアの後頭部に大きな手のひらが乗せられて、更に引き寄せられた。
「――っ!」
唇が重なりそうになる寸前、レティシアはマルセルの唇に蓋をした。しかし勢いは止まらず、レティシアは自分の手の甲に口づける。柔らかい唇が、固い歯と手の間接の骨に挟まれて痛んだ。
「いたっ。マルセルさんたら、急にどうしたの?」
レティシアはマルセルの身体に上半身をかぶせながら、左手をマルセルの唇、右手でベッドヘッドを掴んでバランスを取るという、微妙な体制になっていた。なんとか怪我人の身体に体重がかかることは避けられ、胸を撫で下ろす。
しかし、心臓がドキドキしていた。
笑みを浮かべながら、どこかいつも笑っていないようなマルセルの端正な顔が、目の前にあった。
「女神の祝福をもらおうと」
手で押さえられ、くぐもった声でマルセルは答えた。
「だめよ。私はヴェルガー様と婚約しているんですから」
レティシアはゆっくりと身体を起こして椅子に戻ろうとすると、マルセルの唇の上に乗せていた左手を再び取られた。
「僕たちの国を乗っ取ろうとしている男と、結婚するつもり?」
「それは……。もう一度ちゃんと話をして、やめさせるわ」
マルセルの命のことで頭がいっぱいだったが、残っていた問題を思い出した。そもそも、ヴェルガーよりもはるかに年上になってしまうと自分とでは、婚約が無効になるのではないだろうか、という思いも、頭をよぎる。
「年齢なんて、僕なら関係ないけどな」
「え?」
マルセルはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ今は、手で我慢するよ」
マルセルはそう言って、レティシアの指先にキスをした。
「レティシアのこの手の怪我も、僕のせいなんだよね」
口づけたままの唇が、指先からその谷間にも、丹念に這い始めた。
「あの、マルセルさん?」
指からゾクゾクとした感覚が、身体に走った。
手の甲にキスをされるのは日常茶飯事だったが、指への丹念な口付けは初めてだった。
それ以前に、これはキスと言えるのだろうか。そもそも挨拶のキスなんて、触れるか触れないかのものだ。
「もうやめ……」
指に柔らかい唇を這わせながら、マルセルはレティシアを見つめる。わずかに細め、見透かすように射るその瞳にぶつかると、レティシアは目が離せなくなり、息がつまった。鼓動が早くなって、息が苦しくなる。体温が上昇するのも自覚できた。
「マルセルさ……あっ」
温かく湿った感触がして、レティシアは思わず手を引っ込めた。顔を真っ赤にして、舐められた手を胸に抱える。
「こ、こんなこと、もうやめてください」
指への口付けだけでこんなにもドギマギしてしまうことが、レティシアは恥ずかしかった。
「これはこれで面白……いや、なんか嬉しくて。嫌だった?」
マルセルはにっこりと無害な笑顔を見せた。
「嫌とかじゃ、ないけれど」
レティシアは尻窄みになる。
ドキドキして、恥ずかしくて、よく分からない感覚がしたというのが正直な感想だった。
「人払いをしたのはね、聞いてもらいたいことがあったからなんだ」
マルセルが口調を改めた。
笑みを浮かべているものの、青い瞳の奥には闇を孕んでいるように見える。
「なに?」
レティシアもマルセルの雰囲気が変わったのを感じて、椅子に座り直して、背筋を伸ばした。
「僕は記憶を全て取り戻した。僕を撃った犯人も、思い出したよ」
レティシアは息をのんだ。
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