………………。
…………。
……。
――遠くで、小さくコツンと音がした。
「……?」
覚悟していた衝撃が、いつまでたってもこない。
レティシアは、そっと目を開けた。
レティシアは落ちていなかった。正確には、二階ほどの高さで、空中に浮いていた。背中には腕に支えられているような感触があるが、何も見えない。
「バカ! なんて無謀なことをするんだ!」
セスの声だった。
「死神さん?」
レティシアは、背中に感じる腕らしき部分から、手でなぞり上げて、顔らしき手触りにたどり着く。
「その声と、サラサラの髪に、短い襟足、小さな顎。この感触は、間違いなく死神さんだわ」
「そんな、あちこち、触んなよ」
セスは、はにかんだように小声になった。
「人気がないところに下ろすから」
セスは警備のいない宮殿の脇にレティシアを下ろした。ふわふわと浮いている姿は、誰にも見られなかったようだ。
「ありがとう、死神さん。もうだめかと思ったわ」
胸元に手を当てて、靴がないことに気づく。それと同時に、落とした靴が浮いて近づいてくるので、レティシアは驚いた。
「拾ってきてやったぞ」
「ありがとう。ちょっと、びっくりしちゃった」
セスから渡されたヒールを、レティシアは受け取り損ねた。手が震えていた。
「私、あの高さから落ちたのね」
四階の窓を見上げて、今更ながら血の気が引いた。よくもあの高さで、綱渡りができたものだと、我ながら感心する。あのときはマルセルを助ける事しか頭になかった。
「俺がいなきゃ死んでるところだぞ。無茶すんな」
耳元でセスの声がしたかと思うと、背中に腕が回され、レティシアは強く抱きしめられた。
「死神さん、ありがとう」
ほんの短時間だったはずなのに、筋肉が悲鳴をあげていた。姿の見えないセスの胸に頬を埋めて、心臓が落ち着くまで待つ。セスの胸の中は少しひんやりとしている気がして、心地よかった。
首筋にセスの鼻先が当たり、デコルテに息がかかっている感覚がある。先ほどヴェルガーにキスされたこともあり、レティシアはだんだん恥ずかしくなってきた。
「死神さん……」
「さっきは止められなかった」
「なんのこと?」
「銀髪野郎に、キス……」
「あっ、いた、のね」
レティシアは赤くなった。
「嫌だったんだろ?」
「いいえ。初めてだから、びっくりしただけ。でも夫婦になるんだもの、嫌じゃないわ。色々と言われて、頭が混乱して……」
レティシアは唇をなぞった。とても優しいキスだった。だからこそ、悲しかった。
「ヴェルガー様は、自分が正義だと、信じているんだわ」
瞳を伏せて、レティシアは呟いた。
ふと、抱きしめられていた感触が消えて、レティシアは顔を上げた。
「貴様、やめろっ」
「死神さん?」
「うるせえな、分かってるよ」
声はレティシアとは別の方角に向かっている。セスはマルセルと話しているのだろう。見えない上に声も聞こえないので、レティシアはマルセルの存在を失念していた。
レティシアは、改めて気合を入れ直した。
「早くこの敷地から逃げ出さないといけないわね。でも見張りに見つかったら、きっとまた部屋に閉じ込められてしまうわ」
ヒールをはきながら、どうやって帰るべきかとレティシアは思案した。
「そうだ、さっきみたいに死神さんに持ち上げてもらって、空から抜ければいいんじゃないかしら? もし誰かに見られたって、手が届かないでしょ?」
「お前、空飛ぶ王女って噂になるぞ」
「いいじゃない」
「そうか。では、なにを代償にもらおうかな」
うっ、とレティシアは言葉に詰まる。そして、ちょっぴりむくれた。
「さっきは助けてくれたのに」
「あれは例外」
セスの力は当てにできないようだ。
「あれは……、厩舎ね」
一階部分が柱廊になっている、二階建てで石造りの建物が見える。躍動感のある馬の彫刻が施されていた。
「私、乗馬は得意なの。馬が手に入ったら、きっと一気にルゼリエール宮まで戻れるわ」
「徒歩の衛兵じゃ、馬は止められないだろうからな」
「誰もいないといいけれど」
辺りはすっかり暗くなっていた。レティシアは周囲を警戒しながら灯りの漏れている厩舎に近づき、そっと入り口から覗いてみた。四十頭ほどの馬がいるだけで、厩舎係りはいないようだ。
「今のうち、一頭お借りしちゃいましょう」
レティシアが厩舎に足を踏み入れると、馬の体臭や干し草などの混じった独特の匂いがした。よく手入れがされた馬たちは、人慣れしているのか、レティシアが入ってきても騒ぐことはなかった。
近くでセスがなにか言っている。マルセルと話しているようだ。
「……当然できる。……それなら代償が……。……瀕死のお前では話にならん」
マルセルがセスに提案しているようだが、却下したようだ。
「何の話?」
「お前が秘薬を持って、無事にオルレニア王国に到着してからの話だ。スムーズにお前が入城できるよう説得するから、両親の魂を一時的に抜いてほしいと頼まれた」
「断ったの?」
「当然だ。俺と取引をするのなら、魂を差し出すくらいの代償が必要だ」
命を引き換えに、ということのようだ。
「一時的に魂を抜くだけなのに、それじゃ釣り合わないわ」
「そ、そうか?」
レティシアの言葉に、なぜかセスは動揺した。
「俺の匙加減だからな。だが、そうだな。一人の魂を抜くたびに、十年分の命を失うくらいの覚悟が必要だ」
セスは気を取り直したようだ。
「そういえば、オルレニア王国にどうやって入国するのか、まだ考えてなかったわね」
死にかけている息子に直接事情を聞けば、王たちも納得するに違いない。そしてレティシアを受け入れるよう、臣下に伝達するだろう。しかしマルセルが霊体である以上、両親と話すには、セスの力が必要だ。
「それ、私の命でもいいの?」
セスが息を呑む気配がした。
「……お前、本気か? 二人分、二十年の命を貰うと言ってるんだぞ」
「もう、あまり迷ったり考えたりしている時間がないんだもの」
思いつきの発言だったが、それしかない気もしてきた。
「寿命が縮むのではなく、一気に二十年分、年を取るとしても?」
「さっき死神さんに助けられた命だし、マルセルさんが死んじゃうくらいなら……」
二十年後の自分の容姿を想像しようとして、レティシアは上手くいかなかった。どのくらい変わるのだろうか。それに、これから二十年時間をかけて学ぶはずだったこと、得られるはずだった経験などを失うことになる。今レティシは十七歳。今まで生きてきた以上の時間が奪われるのだ。
純粋な、不安と恐怖があった。
それらを天秤にかけても、マルセルの命を救う方が、重いと思った。
「急に変わりすぎたら、みんな私だって分からなくて、また変な時間を取られるかもしれないわ。できたら、マルセルさんの件が落ち着いてからにしてほしい」
ヴェルガーとの婚儀も頭によぎったが、大陸の覇者を目指すヴェルガーとの関係も複雑になってしまった。レティシアはいくつも同時に考えられない性分だ。
「分かった。……そこまでして、お前はこの男を助けたいんだな」
セスの溜息が聞こえる。
「お前の願いどおり、俺はあいつと、オルレニアに行く。ここからはお前一人だ。もう無茶をするなよ」
気遣わしげなセスの声に、レティシアは頷いた。
「日が昇る頃には、オルレニア王国にお医者様を連れて行ってみせるわ」
「じゃあな」
セスの気配がなくなった。
「なんだか、凄いことを決めちゃったわ」
頬を両手で包むレティシア。
二十年。
なんの変化もないので、まだ実感がなかった。
「――急がなくちゃ」
レティシアは、ペチペチと頬を叩いて気合を入れた。
厩舎を歩きながら、山越えのパートナーを探すために、馬のチェックを始める。
「どの子にしようかしら」
鹿毛、青毛、栗毛と色々な種類の馬がいる中、白い雄馬の大きな瞳と目が合った。
「山を越えなきゃいけないのだけど、付き合ってくれる?」
人懐こそうな馬は、返事をするように嘶いた。レティシアは毛並みのいい首筋をなでる。
「よし、行きましょう!」
長距離をそのまま乗るには過酷すぎるので、手綱や鞍なども借りることにした。
「ちゃんと返すからね」
馬装していると、出入り口に足音が聞こえきた。レティシアは慌てて乗馬する。
「出発!」
「お前、誰だ? 止まれ、おい!」
馬を走らせて厩舎を出ると、案の定、厩舎係とすれ違った。「泥棒だー!」という声を後ろで聞きながら、レティシアは王宮の敷地の出口を目指す。
厩舎係の叫びを聞いた衛兵たちがざわめき始めた。
ビーッと高い音の笛も聞こえる。
「門を閉めろ!」
豪華な噴水と何百種類もの花が咲き誇る庭園は、衛兵の足音と馬の蹄の音で満たされた。
「馬さん、頑張って」
振り落されないように、レティシアは襲歩で走る馬の手綱を手に巻いて、しっかりと握る。レティシアの身体は疲弊していて、鐙で踏ん張る力も殆ど残っていなかった。
金泥の槍を並べて造られた格子柵の中央に、ドミール帝国の紋章が掲げられた大きな門が構えられていた。衛兵の手によって、大きな扉が鈍い音を立てて、左右から閉じてゆく。
馬車が何台も横に並べられるほど大きな門が、八割がた閉まっていた。
「間にあって」
まだ通れる隙間があっても、馬が怖がって止まってしまうかもしれない。下手をすると、馬もレティシアも怪我をする可能性もある。
手綱を握るレティシアの手が汗ばんだ。
「行って―――――――――!!」
レティシアは叫ぶ。呼応するように馬も嘶いた。
最後の瞬間、レティシアは思わず目を閉じた。
後ろで、ガシャリと重々しい金属が響いた。その音のあまりの近さに、レティシアの身体がビクリと跳ねた。
まるで身体全体が心臓になったように、激しく脈打っている。
そこに、安定した蹄の音が耳に入り始めた。
白馬は走り続けている。
レティシアたちは、門を通過したのだ。
「やった……」
レティシアは振りかえった。門が締まったばかりのせいか、衛兵が追ってくる気配はない。今のうちに逃げ切ってしまえば追いつかれることはないだろう。
「やったわ! ありがとう! いい子ね、速度を弛めていいわよ」
栗色の柔らかい鬣を撫でながら、レティシアはホッとした。まずは第一関門を突破した。
しかし、これから真っ暗な山道を越えなければならない。幽体で山を見ていたから、国境の壁が低い所も、どの道が近道なのかも、だいたい分かっている。それでも、夜の山道は危険だと予想できた。
「体力がもつかしら。……いいえ、もたせなきゃ」
満月に近い月明かりが頼みの綱だが、常緑植物が多く、山は年中暗く湿っていた。どこまで月の光が届くのか分からない。
「山に入ったら、安全第一で行こうね。怪我をしないようにね」
舗装された道を蹄で叩く軽快な音を響かせながら、白馬はヒヒンと嘶いた。
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