STELLA

歌舞伎町には食人鬼が存在します。
87U25
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5.「私はどこにいっても霞のような存在だった」

公開日時: 2021年7月4日(日) 22:18
更新日時: 2021年7月4日(日) 22:53
文字数:4,950

 

 少女の言葉を聞いた途端、自分の心臓の位置が分からなくなった。

 まるで重力に耐え切れなくなったように心臓が下へ下へと沈んでいく、そんな奇妙な感覚に眩暈がした。はぁっと浅い吐息が漏れた。


 「どーしよ、これ。アルファに怒られちゃう」

 見ると少女は相変わらず眉をへの字にしていた。ヒクと喉が引き攣る。その姿は悪戯がバレることを怖がっている子供と同じだった。


 勝負は一瞬だ。

 視線を逸らさないままに大きく息を吸って、そして止める。手のひらをグッと握りしめて、震える脚をトントンと小さく二回叩く。何かがせり上がってくる。止まれ止まれ。口を堅く結んで堪えた。


 少女が目線を下に落とした。

 「あーあ」とため息とともにしゃがみこむ。今だ。勢いよく振り返り、目と鼻の先にある扉に手をかけようとした。


 「逃げちゃだめだよぉ」


 右腕を力強く握られる感触にヒュンと喉が鳴った。

 見ると長い爪が手首に食い込んでいる。キラキラとしたネイルに苺のシール。

 今の今までなかったはずの人影がすぐ横にある。

 カウンターを挟んでいたはずの少女が、真横にいる!


 「アッ」と声をあげたときには遅かった。

 力強く腕をを引かれたかと思うと浮遊感。瞬きを一つすると目の前には床があった。無我夢中で身体を縮める。バシャっと水が跳ねたような感覚と衝撃を背中に感じた。一瞬、息が詰まった。


 「痛ッ……」

 「あれぇ? 人間かと思ったけど、なんかおかしいね」


 起き上がろうとした腹部に衝撃が走った。

 その勢いで後頭部が床にぶつかり、喉がひっくり返りそうになる。首と口が締め付けられ、何かが頬肉に食いこみ表情筋が持ち上げられた。

 「ン"ー!!」と音にならない声を上げる。黙れとでも言うように口を掴んでいる力が強くなった。容赦なく鼻が塞がれ、呼吸すらままならない。


 唯一自由に動くことが出来る眼球で確認すると、少女の両手が自分の口と首を掴んでいるのが分かった。

 振り解こうにも手脚は少女に下敷きにされている。試しに暴れようとしてみたけれども、当たり前に少女はびくともしない。どう考えてもなす術がない。大人しくする他道はなかった。

 

 まな板の鯉となった自分に対して少女は何を思ったのか、少しだけ首を傾げたあと、おもむろに自分の首に顔を近づけてきた。

 ゆるゆるとウェーブしている桃色の髪が首をくすぐる。鳥肌が立って思わず身体をよじった。匂いを嗅いでいるのか、スンスンと犬のような鼻息が聞こえた。何をしているのだろう、サイコキラーの考えが知りたい。いつ死んでもおかしくないということだけは分かる。


 一秒一秒がやたらと長く感じた。

 瞬き一つすらするのが憚られる。やがて満足したのか少女が勢いよく起き上がった。鼻と口が解放されて、肺が堰を切ったように酸素を取り込もうとする。少女がその勢いを殺さないままに自分の手を取った。


 ぬるりと生暖かく血濡れている感触。

 血、血、血。ゾワリと背筋に何かが走った。声を出さなかった自分を褒め称えたい。


 「ねぇきみ! わたしたちと同種?」


 ドーシュ?

 ドーシュってなに? 同種のこと?


 「友好的なんだねぇ。アルファに会う予定だったのぉ?」と少女はニコニコと言う。

 何を言ってるのか全く分からない。「これさっき狩ってきたばっかなんだぁ! 一緒に食べよぉ」と力強く手を引かれ無理やり身体を起こされた。いったいこの細腕のどこにそんな力があるのだろうか。何が砂糖菓子の妖精だ自分のバカ。


 そうしてその流れのままにソファに案内された。

 どうすればいいか分からず、声に従うまま大人しく席に着く。


 一体何なんだ、ドーシュとはなんぞ。

 否定をしたいけれども何から否定すればいいのか分からない。というか否定をして命は無事で済むのだろうか。どちらにせよ拒否権がないことに変わりはなかった。

 

 ぽつんとひとりソファに残される。

 少女は鼻歌を歌いながらどこかへ行ってしまった。手首の袖口にべったりと血が付いている。これクリーニングで落ちるかなぁ。


 「アッ」

 

 ちょっと待って。

 もしかしなくても、今って逃げるタイミングだったんじゃあ。袖を見ながら冷や汗をかいていると、その予想は的中した。数分もしないうちに先ほどのグチャグチャの人間はローストされ、頭部だけが皿に乗って出てきた。すなわち目の前の肉である。


 その後無事家に帰れました、なんていうわけはなく、毛むくじゃらの手によって肩は血だらけになり、気がつくと横には見たこともない化け物が居座っていた。








 ナイフの動きが止まった。

 ここまでの経緯を思い出してみたけれども、改めて自分にはどうしようも出来ないと思った。むしろ最初によく抵抗しようとしたなとすら思う。

 白濁した眼球を眺めていると食欲が湧くどころか別のものが込み上げてきた。自分にはカニバリズムの経験などないのだから仕方がない。


 「ねぇねぇ食べないのぉ?」


 赤い化け物がそう言って、つんつんと雛鳥を触るような手つきで頬を突いてきた。

 肉と見つめ合うだけで動こうとしない自分に対しての催促だ。一見ただのスキンシップであろうそれは、鋭い爪だとそうもいかない。スパッと頬が切り裂かれ血が滲み始めた。人間の皮膚はとても弱いということを知ってほしい。もっと優しく触って。

 

 「もしかして人間だったりするぅ?」


 大きな身体を曲げて六つの目が覗き込んできた。

 桃色の瞳がギョロギョロと四方八方に蠢いている。一挙一動も見逃してくれそうにない。「私やらかしちゃったかなぁ」と化け物が囁いた。見た目に似つかわしくない高いソプラノだった。


 人の頭ほどの大きさの牙を思い出す。

 ぶるりと身震いをした。そうして目の前の人肉と、予測出来ない未来とを天秤にかけた。そもそもこうなった時点で、天秤にかける意味なんてないのかもしれない。


 覚悟を決めた。

 肯定の意味で首を縦に振る。人間の尊厳を取るなんていう素晴らしい考えではない。人肉を食べる勇気がないだけ。ブンブンと勢いのある首振りは、友人たちがいつだか見せてくれたヘドバンを真似した。


 「うぇうっそお、まじでぇ?」


 化けものが困惑した声を上げた。

 意外にも人間らしい反応にほんの少しだけ安心した。いや人間らしいってなんだろう。もはや定義が分からない。少なくとも目の前の化けものは人ではなくて、自分は人だ。いやそりゃそうだよ、何を言っているんだ自分は。つまらないことを考えながら、首を振り続ける。


 肩に食い込んでいた爪が抜かれた。

 ヌッと体内を掻き回されるような感覚が気持ちが悪い。首を振るのをやめて顔を上げると、化けものが気まずそうにしながら無言で距離を取っていた。


 どういう原理だろうか。

 化けものの輪郭が湯煎をしているチョコのようにぐちゃりと溶け始め、音を立てて姿形を変え始めた。天井ほどまであった巨体はみるみるうちに小さくなっていく。そうして少女の形になった。そんな芸当が人に出来るはずもない。やはり自分は人だと再確認した。


 店内には人の形をする者だけとなった。

 つまりは自分とここの店員と思わしき可憐な少女。無言の空間で少女はグッと背伸びをした。頭についている狼のような犬耳としっぽも一緒になってグッと伸びる。

 その耳ってつけ耳じゃなくて本物だったのかぁ、なんて普段だったら到底考えられない感想が思い浮かぶ。


 目の前の皿に一瞬だけ視線をやる。

 真っ赤に焼け爛れた人間の頭が間違いなくあった。次に床の赤色を見る。実はただのケチャップでしたなんていうオチはないだろうな、いやないな。


 頭が痛くなるような事実を再度確認する。

 非現実的なことの連続に、獣の耳が本物だったなんていう事実はひどく可愛らしいことのように思えてきた。


 前を見るとどこにでもいそうな十代の少女。

 歌舞伎町を体現したような見た目の少女だ。自分の頭は随分と単純なようで、その姿に少しだけ肩の力が抜けた。


 肩の傷がじくじくと痛み始める。

 慌てて肩を見ると肩の肉がペロンと剥がれていた。アドレナリンが出ていたのか痛みに気がつかなかった。日常生活ならまず負わない大怪我にクラリと目眩がした。


 「あ、あの……」


 肩の方を見ないようにしながら声を絞り出す。

 少女は何でもないように振り返ってくれた。その表情は無表情に近い。心臓が少しだけ震えてまつ毛が揺れたのが分かった。何を考えているのか想像すらつかない。喉が張り付きそうになるのを必死で我慢した。


 「だ、だれにも言いません、今日のことは忘れます。だから、その帰してくれないでしょうか……」

 「それはだぁめ」


 一刀両断だった。

 乾いた笑いが漏れそうになる。概ね予想通りだったので別段ショックではなかった。

 少女はおもむろに髪を弄り始める。手元にだけ目線を送り、こちらを見ようともしない姿は学校の友人たちを思い出させた。


 「私がミスっちゃったからアルファに任せるんだぁ。君を食べるか食べないかは、そのとき決めるの」


 少女の喋りを聞く限り、特別不機嫌ではないように思えた。

 むしろお留守番を頑張っている子供のようだ。どことなく拗ねているような落ち着きがないだけのように見える。先ほどのステーキと自分の姿が無意識に重なった。寿命がほんの数分伸びただけで、一時間後には自分もステーキかぁ。


 「でも君さぁ、不味そうなんだよねぇ。人間って分からないくらい匂いがなかったし。たぶん食べないかなぁ」


 いやいや、それはあまりにひどいのでは。

 自分の立場も忘れて言葉が漏れそうになった。どうやら返答など最初から必要なかったようで、結末を考えていた自分に対して、少女はぽんぽんと言葉を続けた。

 

 美味しく食べてくれないなら食べないでくれ、もしくは生きて帰してくれ。

 譲歩なのか何なのか、最早よく分からない言葉が喉元まで昇ってきた。一秒でも長く生きたいというか思いがそれを押さえこんだ。


 少女は先ほどまでの居心地悪そうな態度はもうどこかへ行ってしまったようで、隣にドカッと座った。

 そうして頭部を乗せた皿を手元に手繰り寄せると、皿の上の肉を遠慮なく食べ始めた。つっと視線を外す。流石にその様子を直視する勇気はなかった。


 「でもお肉を無駄に殺して捨てるのはなぁ、可哀想だし。保存食かな」


 違った、どっちにしても死ぬ運命だった。

 薄暗いカウンターをやる気なく見つめる。自分の命がかかっている重要な話なのは十分理解しているが、あまりに非現実的なことが続きすぎて流石に疲れてきた。肩の痛みだけが現実的だった。


 少女見ると、脇目も振らずどんどんと肉を食べ進めている。

 器用に頭部の肉を削げ落とし、毛髪だろうと何だろうと口に入れる。ステーキになった男性に対しては特に思うことはなかったが、少女が目玉をずるっと啜ったときだけはどうしてか同情した。けれどもそれだけだった。


 咀嚼音と食器のぶつかる音だけが店内を支配する。

 会話が途切れてしまって、自分がこのまま放置されるらしいことに気がついた。空気が想像以上に穏やかなので、逃げる算段でも立ててみるかと思うものの、指をピクリと動かしただけで少女に睨まれる。

 何か、そう。例えば隕石とか、天災が店にぶつからない限り逃げられないだろうな。


 「あの、あなたは、その、なにものですか?」


 口から出たのは純粋な質問だった。

 ジロリと少女の視線が向けられる。すぐさま後悔した。別に探って何かしようとは微塵も思ってもいない。


 言葉がないこの空間はどうにも居心地が悪く、いつもの空気を読む癖が出てきてしまった自分を呪った。

 少女の視線はすぐに皿の上に戻った。特に気分を害したわけではないように見える。豪快に食べているように見えて皿の上に欠片はない。存外きれいな食べ方だと思った。


 「宇宙人」


 「えっ」と表情筋が固まった。

 少女の言葉に咄嗟に思い浮かんだものは銀色のまるいやつだった。やたらと手足が細く、目は顔の半分ほどの大きさがある。テレビの特番で紹介されるようなUFOに乗っているあれ。

 冗談で言ってるのか本気で言ってるのか分からない。

 少女は表情を何ひとつ変えないまま黙々と食べ進めている。


 「地球外生命体、ステラ」


 「私たちを知ってる人はそう呼ぶよぉ」と言って、少女はようやく笑顔を見せてくれた。

 化けものとは似ても似つかない小さな犬歯がちょこんと覗いている。小さな子供のように無邪気で自己中心的な笑顔がどうしてか様になっていた。


 皿の上の肉は、もう残り一口分だけだった。


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