授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
友人たちは真っ赤な口紅を引き直しながら「カレシ待ってるからァ」と足早に消えていった。
それを見送り一人電車に乗る。いつものことなので特に気持ちを動かされることはなかった。目的の駅で降りて近くの改札を出る。迷いなく出口へと向かい、外に出た。「オネェサンこれからどォ」という軽薄な声が聞こえてきたが、視線を変えることなく歩き続けた。
徐々に人通りが増えていき目的地が見えてくる。
飲食店の袴をつけている男が、街行く人に目を光らせていた。あぁ今日は金曜日か。だからこんなに人が多いのか。
歌舞伎町を見るとどうしてか安心する。
何かの澱みの塊みたいな街なのに。いやマァ我ながらひどい言い草なんだけれども、嫌いというわけじゃなくて。カッスカスの薄いかつおぶしみたいな垢をひたすらに重ねた感じ。いやこれは嫌いな人の言い方だ。
なんというか垢は垢でも人生の垢と言うべきか。
剥がれ落ちるべき汚いものなんだけれども、酸いも甘いも知り尽くした鱗のような。それを見るとなんだかおじいちゃんの家にいるような、古本屋にいるような、そんな安心感がある。
いやいや、これは良く言い過ぎだな。
《さくら通り》と書かれた門をくぐると、中心の道は人で埋め尽くされていた。
居酒屋の店員、サラリーマン、ホスト、キャバ嬢。吐瀉物やタバコの吸い殻、人の愚かさや卑しさが溶け込んだような道を踏み潰しているその頭上は、人工の光で眩しいほどに明るい。「オネェサン、連絡先交換しない?」「オネェサン可愛いね」「オネェサン、オネェサン」と待っていましたと言わんばかりに、男たちが街灯にたかる羽虫のごとく集まってきた。
聞こえてくる声に表情一つ変えないで前に突き進む。視界の隅で、返答がないと分かった男たちがごっそりと表情を抜かして消えていくのが見えた。
無心で脚を動かす。
髪の毛をくるくるといじりながら笑い合う友人たちの姿が思い浮かんだ。「財布、まだ替えてないの?」「ダッサ、これだからアンタはさぁ」「そーいうの普通じゃないよ」なんて口々に言う彼女たちの目は、この前浮浪者を見ていたときと同じような目をしている。
あぁもう背筋がゾッとする。財布は絶対に買わなくてはいけない。
電車の中で見たサイトを思い出した。
バイトの求人広告。給料面で納得出来るものがなかった。高校生だからそりゃ微々たるものですよね。
道端にいるサラリーマンが視界に入る。中肉中背の普通を体現したような男。バチっと目が合うと不思議そうに顔を傾けた。勢いよく振り返り熱を持った頭を振る。身体を売るなんて自分には到底無理です。
「あっ」黙々と動かしていた脚が止まった。
靖国通りまで来てしまった。このまま進むと駅の方へ戻ってしまう。行き場をなくした脚がいち、に、と足踏みをした。
いや立ち止まっているのも良くない。
すぐにまたハイエナのようにホストやナンパが群がってくるだろう。というか歌舞伎町に来てどうするつもりなんだ自分。友人みたいに出来ないって分かっているのに。
結局その場にいても仕方がないので、あてもなく歩こうと角を曲がった。ふと視界に入った少女に吸い込まれるように視線が行く。動かし始めたばかりの脚がパタリと動きを止めた。
その少女は黒猫か何かに見えた。
都会の道路の真ん中にちょこんと佇んでいてるのがどうにも小動物を想像させる。後ろ姿しか分からないが、普段着にするにしては少し派手な黒いワンピースを着ていた。ゴスロリとでも言うような部類だろうか。
目を凝らすと黒いレースに包まれた手の中にはチラシが数枚あった。ガールズバーの店員かな。
ビル風による突風が起こった。
「わっ」薄いスカートが持ち上がり、慌てて裾を抑える。無礼な風は目の前の少女の無抵抗なスカートも持ち上げようとした。少女のボンネットの隙間からキラキラと輝く糸が顔を出す。瞬きをするのも忘れて息を呑んだ。
おかしなことにそれが少女の髪だと一瞬分からなかった。
光の束のような金色は今にも透けそうで、重さを感じない。音もなく揺れる図が想像できる。恥ずかしいことを言うなら、その髪を編みこんだら天女の羽衣になるのだろう、なんて。いやないなこれは。
そうして虜になった自分は、視線を注いだその姿勢のまま立ち止まってしまった。少女が振り返る。「あ」鋭い目に射抜かれたのと小さな声を漏らしたのは、同時だった。
「ねぇあなた!」
「は、はい!」
少女が自分のところへ駆け寄ってきた。
しまった、無遠慮に見つめすぎたかもしれない。ジリと後ずさる。いや待って、返事をしてしまった。
「ねぇ、あなた。私の店で働いてみない? あなたならきっと素敵になれるわ。そうよそうするべきよ」
少女が走った勢いを落とさないままに手を掴んだ。
「へっ?」黒いレースに包まれた白い手は思いの外に力強く、前のめりになる。想像していたよりハスキーな声だ。
顔を上げる。
背丈は自分とそう変わらなく見えるが、大きなパンプスのせいか幾分か目線が高かった。透き通るような金色が都内の夜景のように服の上で煌めいている。
「これ受け取って欲しいの」握りしめられている手を見ると黒い紙が一枚、端が折れながらもあった。良かった、とりあえず怒っているわけじゃなさそうだ。手を離される間際、細い指がスリと手首を撫でていった。
「わたしリンダっていうの。」
顔を上げると少女が自分をまっすぐと見下ろしていた。
切長の目の中にある瞳はエメラルド色で地球のように美しい。「リンダちゃん」と小声で言ってみると、にっこり笑い返してくれた。冷たくてカッコいいナイフのように鋭い笑み。キリッした眉と綺麗に揃えられたショートボブにぴったりと似合っている。
ついと視線を紙にやったので促されるままに自分も見た。
真っ黒いチラシの上部には金細工のような色で《スプリットタン》と書かれていた。
下の方には地図と料金制度が小さくある。「私たちはコンカフェっていうのをやっててね……」視線を落としたのが合図かのように、リンダちゃんが流暢に話し始めた。
コンカフェというらしいこの職業は、リンダちゃん曰くコスプレをして接客する飲食業との事。
チップのようなドリンクを貰って客と会話をする。キャバクラと違って女の子が隣に座る必要はなくて、対面形式で接客をする、らしい。気難しそうな顔をしていたのか「難しいことなんてなにもないわ」とリンダちゃんが柔らかく教えてくれた。
話を聞く限り法に触れる仕事ではなかった。もしかしたらグレーゾーンなのかもしれないが、バイト事情に詳しくないのでよく分からなかった。
それよりもその給与額に惹かれた。
求人サイトに書かれているものよりずっと良い。時給に上乗せされる形でドリンクバックもあるらしく何と素晴らしいことか。手渡しでその日にお金が貰えるというのも魅力的だ。
どれくらい働けば財布を買えるかな。いやいや、待って待って。
はやる気持ちをなんとか落ち着かせる。
歌舞伎町で持ちかけられる話なんて大抵がろくでもないものばかりなのだ。「君、可愛いね」と言いながら心あらずだった不気味な人を思い出した。後日その近くで殺人があったらしく、げんなりしたのを覚えている。
喋り続けるリンダちゃんを遮るように声を上げた。
「あの、どうして、わたしに……?」
我ながらこの質問であっているのだろうか。
とはいえ他になんて聞けばいいのか分からない。おそるおそる見上げるとリンダちゃんはきょとんとしていた。唇がきゅっと窄められて上を向いているのが可愛い。「うふふ」と言ってすぐに手で隠されてしまったけれども。目を三日月のように細めて、首を二時の方向に傾けた。
一見上品そうな笑みの下にある深みのようなものにドキリとする。
いたずらっ子のようなチシャ猫のような、なんとも蠱惑的な雰囲気だ。先ほどから聞こえるカチカチと言う音はなんだろう。
「ひとめぼれ、ひとめぼれよ。気にいったの。あなたが良いわ」
リンダちゃんの言葉に、自分の首も同じように傾いた。
ひとめぼれ、ひとめぼれとは。どういう意味だろう。もしかしてこういう職種ってキャラ作りが必要なのかぁ。大した理由がないのであればそれでいいっか、いやそれでいいのかな。
「コンカフェはね……」それ以上そのことについて喋る気はないのか、リンダちゃんが次に口を開いた時は勧誘の続きだった。
とは言えだ、あまりにも急が過ぎる。
一旦は話を断ろうとした、したのだけれども。
彼女の勧誘は凄まじかった。
自分が少しでも否定的な言葉を使おうとすると、瞬時に察知してそれを封じてしまう。話をずらそうとしても失敗に終わった。
というかそもそもの話。
自分は断ることが大の苦手で、流されることが常々の人間だ。そんな自分と普段から接客をしている喋りのプロであろうリンダちゃん。
勧誘が開始して十五分が経った頃には、自分がいかに無謀な戦いを挑んでいたのかを理解した。
ぎゅっと手を包みながら凛々しい眉を下げて「ダメ?」と言う彼女を断るなんて、自分には到底出来なかった。
我ながら本当に意志が弱い。そうしてトントン拍子に話は進んで、明日、形ばかりの面接をすることが決まった。「絶対よ、絶対に来てね」と頬を赤らめて念を押すリンダちゃんに、自分は苦笑いで応えた。
まぁ、いっか。
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