確かに自分の不注意が一番悪いんですけれどもね。
視線の先はまだらに黒ずんだタイルを踏んでいる自分の靴。
それから太ももの上にある群青色の拳へ。ぐっぱー、ぐっぱー、開いたり、握ったり。意味もなく動かしてみても頭の中の言い訳が止むことはない。どこからともなく救急車のサイレンが聞こえてきた。さっきも走っていたな、ご苦労様です。
いやいや、でもまさかこんな状況になるとは思わないじゃないか。
自分は何か悪いことでもしたのだろうか。いやしてないよな、いやしたのかも。繰り返す思案の答えはいつまで経っても見つからなくて、ヘドロのような黒い底なし沼を当てもなく掻き回している気分だった。
顔を上げて自分を照らしている光源を見ると、そこには隙間なく並んでいる中層建築物。
どれもこれも自分が主役だとでも言うようにライトアップされていて、ゾッとするほど派手派手しい。目が痛いなぁと思っていたら、一際大きな建物の窓に二つの影を見つけた。それはまるで一匹の蛸のように絡み合いながら、忙しなく輪郭を変え続けている。
まだ夕方なのに大胆ですね、とせせら笑ってみるけれども、自分とは全く縁がないことなので、そう思うことが正解なのやら不正解なのやら。
「ごめんねぇ今行くから!」
視線の反対側からカラッとした声が聞こえてきた。
透明感のあるその声は少しだけ舌ったらずで可愛らしい。トクトクと心拍数が上がった、気がする。
意味もなく乾燥した上唇を舐めてしまって、口紅を味わうことになった。甘い香りがするけれど美味しくはない。声の方を振り返った。
目と鼻の先に、数人座れるかどうかの小さなカウンターがあった。
白く女体のような曲線部分が窓からの淡い光によって薄い青色に染まっている。そしてそのすぐ先にある支柱からはひょっこりと桃色の頭が覗いていた。頭上にあるこの部屋唯一の明かりが彼女をスポットライトのように照らしている。
この距離からでも口角がニッと上がっているのが分かって、応えるように曖昧に笑った。
「焼くの時間かかっちゃったぁ」
トントンっと身軽そうな足音が聞こえて、瞬きをひとつ、ふたつ、とすると、棒のように細い脚がすぐ目の前にあった。
心臓がふるりと震えて、今度こそ鼓動が早くなったのが分かる。脚と同様に細い腕が目の前に伸びてきて、音もなく皿を置いて行った。心臓の音がバレやしないかと気が気じゃなかった。
ハーブの香りが微かにして、霞のような煙が視界を曇らせる。
馴染みのある香りほんの少しだけ気が緩み、皿の上に視線をやった。あぁ気の迷いを起こしてしまったとすぐに手元に戻す。ぐっぱー、ぐっぱー、開いたり、握ったり。手のひらはじっとりと汗ばんでいる。
お世辞にも上手いとは言えない鼻歌が聞こえてきた。
それに共鳴するかのように食器のぶつかる音も。不協和音のように鳴り響くそれらはどうしてか水中にいるように鈍く聞こえる。心臓の音だけがひどく鮮やかだ。無意味な手遊びから目を離すことはなかった。
「これでよしっと」
輪郭がある明瞭な声にゆっくりと顔をあげると、皿の横にはカトラリーがあった。
詳しくはないので分からないけれども、きっと完璧な配置なんだと思う。然ういう雰囲気があった。「熱いから気をつけてね」と言って少女が勢いよく右隣に座った。
「はい、めしあがれ!」
彼女の言葉は死刑宣告に近かった。
視線は依然としてカトラリーにあって、皿は視界の隅でぼやけている。ギッギッと錆び付いてしまった機械のように、自分には皿を直視することも横を振り向くことも出来ない。横からは突き刺さるような視線を感じる。きっとあの飴玉みたいな瞳がコロコロと輝いているのだろう。
でも、でも、自分にはどうしてもそれが出来ない。
どうしても出来ないのだ。見てしまったら今度こそ認めてしまうことになる。じわりと纏わりつくような嫌な汗が背中に浮き始めた。
お願いだから、このままずうっと現実逃避をさせて欲しい。
「あれぇ食べないの?」
全く動こうとしない自分に痺れを切らしたのか。
少女のほんの少しだけトーンを落とした声は安易に考えを膨らませた。大きな瞳を潤ませて眉をへにょっと八の字にさせた顔が簡単に想像出来る。庇護欲を掻き立てる甘ったれた顔だ。
ずるいなぁ、ずるいよそんな顔。
いたいけな女の子にしか絶対に許されないやつ。そんなの脅しにだって等しい。アァ無情、無情。どうしたって自分がこのままでいいわけがない。
そうして敗北感に苛まれながら、仕方なく顔を少しずらして視線の照準を合わせた。
真っ白な皿の上に鎮座しているのはサッカーボールほどの赤い塊だった。
最初にそれを見たとき、肉の塊だと思った。
マァあながちそれは間違いではなかった。火が通っているのか分からないくらいに赤いそれは、食用の肉と言うにしてはおどろおどろしい。荒々しい切れ目から滲み出ている汁は黒っぽく、食欲は全くと言っていいほど刺激されなかった。
毛、かな。
ひどく弱々しい海藻らしきもの。口当たりの悪そうなそれがある箇所にだけびっしりと蔓延っている。そのまま取り残されている理由は分からない。
ハーブの香りに混じってツンッと嗅いだことのない香りがした。
ギュッと顔の中心に皺が寄りそうになるのを我慢する。加減を知らない汗のせいで、ワイシャツと背中が一枚の皮膚のようにぴったりと張り付いてしまっていた。それでも目を逸らすことは出来なかった。
肉の中心部と下部に、黒い空洞が全部で三つ。
ぽっかり空いているその奥は様子が分からない。唯一光を浴びている部分には黄ばんだ白いものが行儀悪く並んでいる。黒い隙間からだらりと伸びきっているものは馴染みのあるもので、たまらずゴクリと喉を鳴らした。
脳みそが煮えたぎっているように熱い。
おかしなことに手足の先は冷え切っていて、長時間氷水に漬けたように感覚がなかった。どこからかハッハッと死に間際の虚な病人が吐き出すような呼吸が聞こえてくる。いや違う、これは自分だ、自分の呼吸音。あぁ、うるさいうるさいうるさい。どうして言うことを聞いてくれない。
皿の隅にゴルフボールほどの大きさの水晶のようなものを見つけた。
ふたつの濁った塊は付け合わせのパセリのように添えられている。魚と変わらないんだなぁ。あぁもう我ながらなんて頭の悪い感想だ。
「この人、最近出禁になっちゃったんだよねぇ。それでも味は保証するよぉ」
生きていた頃の状態は分からない。
けれどもこれがあるべき場所にあったとき、どんな風に息をしていたのだろう。キラキラと宝石みたいに輝いていたのかなぁ、横の彼女みたいに。
「名付けてオタクのステーキ!」
「オタク……の、ステーキ」
唇が持ち主に反して独りでに動いた。
あれだけ沸騰しそうだった頭が一瞬で冷たくなった。どうして繰り返したんだろう。言葉の意味は分かっていない。いや、違う。分かるんだけれど。そうじゃなくて、いやそっか。そっかぁ、やっぱりそういうことか。
身体がアナフィラキシー反応でもあったかのようにガクガクと震え出す。
低い唸り声を上げて胃の底から何かが這い上がってくる。力任せに片手で口を塞いだ。目を逸らしてしまえばいいのにどうしてかそれをしなかった。
何度も何度もそれを見て、見て、見て、堪える。
最初から分かってたことだったんだけれども、認めたくなくて、認めたくなくて、認めたくなくて。
彼のぽっかり空いた空洞と見つめ合う。
そんなわけないよね、なんて何を今更。あぁもう誰でもいいから目の前の頭部を否定してくれ。
「冷めちゃうよ?」
肩から首にかけて居心地の良い重み。
日向にいるように首元が暖かい。安心感のあるぬくもりに筋肉の震えがほんの少しだけ止まった。あとに残されたように奥歯がカチカチと鳴っている。
見ると吐息がかかる距離に少女の顔があった。
表情は垂れ下がった髪のせいで分からない。スリスリと母犬が子犬を温めるかのように肩に頬擦りをしている。
「ね? あーんしてあげようか?」と少女が呑気に耳元で囁く。魔法でもかかったように身体の緊張がストンと抜けていった。そんな、そんな普通の友達みたいなこと言わないでよ。
あぁなんだかもう情緒がぐちゃぐちゃだ。
ジェットコースターに乗って内臓がシェイクされたみたいに、何もかもが気持ちが悪い。全てがちぐはぐで、言葉にならないうめき声が出そうになる。
あれ、苺の香りがする。
なんだか懐かしい、なんだろう。あぁ、きっと彼女のシャンプーかボディクリームの香りだ。声だけじゃなくて匂いまで甘ったるいんだな。
「アッ……?!」
なに、なに、なに。
顔が勝手に上を向き、酸欠の金魚のように口がパクパクと動く。額には汗が浮かび、瞳には涙が滲む。焼けてる、焼けてる? 違う、焼けていない。焼けるように痛い。何かが、何かが左肩を食い千切ろうとしている!
痛い、痛い、痛い!
何もかもを振り払うように首を振って、勢いのままに左肩を見た。
爪が、肩に刺さっている。
爪が肩に刺さっている!
ヒッと声が出て、息を呑んだ。大きな手だ。赤色で、毛むくじゃらで、自分の何倍の大きさもある、獣のような手。知らない、見たことがない。確実に言えるのは人間の手ではないということだけ。
そこから伸びている肉食動物のような鋭い爪が、肩の肉を切り裂き制服に赤い染みを作っている。鉤爪のような形をしているそれが離れる様子はない。顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。
「はやく食べようよ〜! かなり自信作なんだよぉ?」
右横から幼児みたいにきゃっきゃっとはしゃぐ声が聞こえてきた。
鼓動と共鳴するかのように血管が唸って、全ての神経が傷口に集まっているかのように感じる。額の汗は止まることを知らない。堪えるように歯を食いしばった。
痛みのおかげか、幸いにもいくらか落ち着いて現実を見ることが出来た。普段であれば非現実的なことの連続に狂ってしまってもおかしくないと思った。
大きく息を吸って、細く細くゆっくりと吐く。
あぁなるほど、右肩には少女の顔。左肩にはバケモノの手。背中は彼女の腕を挟んで壁。
いやいやまさかまさか、そんなわけないよね。
到底信じられないような考えが頭の中を駆け巡る。グルグルと頭に血が昇りながら、自分のこのおかしな意見を否定したかった。けれども彼女の方ますます見ることが出来なくなった自分がいる。意見を肯定しているの同じことだった。
「あ」ふわふわとした何かが右頬をつつく。
猫に擦り寄られてるみたいでくすぐったい。もうどうにでもなれ。右を振り返った。鼻先に柔らかな感触と視界いっぱいに広がる赤色。
それは天井についてしまうほどに大きかった。
燃えるように赤い色をした二足歩行の大きな犬。いやいや、これが犬だとしたら本物の犬なんてネズミ程度の小動物だ。当然、大きいからと言って着ぐるみのような可愛らしさはない。
人を丸呑み出来そうな口から太い氷柱のような牙がチラチラと見えた。強いて言うならなんだろう。あっ、そうだ、昔博物館で見たサーベルタイガーだ。
とは言え似て非なる存在だった。自分が知っているそれには目玉が六つも付いていない。ハァッと生温い吐息が前髪を撫でた。
ていうか待って、もしかしてこのまま食べられちゃう?
「ほら、食べよ」
子供の落書きのような赤い獣が人と同じ言語で喋った。
抱きしめてくれた少女と同じ高いソプラノで。六つの目玉がぎょろぎょろと動いて、湧いて出てきたばかりの蛆虫を思い出した。
「ハハハ……」と微かな声が出た。
驚きも悲鳴も枯れてしまった。だってもうわけが分からない、それになんだか疲れちゃった。加えて自分の状況は変わっていない。
震える右手でナイフを掴む。
ダラダラと血が流れている左手を動かす勇気はなかった。
皿の上の彼をもう一度だけ見つめる。
これと言って感情はなかった。頬肉に沿って手を動かす。案外簡単に刃が通ってとろりと赤黒い液体が溢れた。あらら、ていうかこれほぼ生だよね、病気になったりしないかな。
ナイフの表面には反射した自分の顔があった。
家を出るときは綺麗に整えられていたはずの前髪はぐちゃぐちゃで、額にべったりと張り付いている。いつにも増して顔色が悪かった。瞳の中にあるはずの光が彼に負けず劣らずなくて、生気を感じられない。
ひどい顔だなぁ。
あのとき逃げればよかったのかな。いやいやどう考えても無謀が過ぎる。どうしてこうなったのか全く分からない。
ねぇ誰か、いったい自分はどうすれば良かったのか。
初めましてこんにちは。
歌舞伎町と夜の世界が大好きな人間が綴った妄想です。おかしな所が多々あるかと思いますが目を瞑ってくれたら幸いです。切った爪にモンサンミッシェルを描くことしかないくらいにお暇な方、ぜひお付き合いください。反応いただけると頬を食いちぎって喜びます。どうぞよろしくお願いします。
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