「ステラ……?」
聞いたことのない単語だった。
聞き返してみたけれども返事はない。少女はあーんと小さな口を開けて、最後の欠片を放りこんだ。咀嚼、咀嚼、咀嚼。なんだか自分が食べられている気分だ。
「お名前は……?」
いや待って、どうして。
意図せず漏れた言葉に我ながら阿保だと思った。焦りからこめかみに汗が伝う。馬鹿なことを言うなと次の瞬間には首と胴体が離れてしまってもおかしくなかった。いや後悔してももう遅いのだけれども。
心臓がこれ以上ないほどにうるさい。
少女がゆったりと振り返った。口の周りは血で真っ赤に汚れている。桃色の瞳に今までとは違う光がキラッと入ったような気がした。「良いこと聞いたねッ」そうしてガバァッと勢いよく音を立てて、身を乗り出してきた。
「ロボちゃん! 《あかずきんの森》のナンバーワンキャストのロボちゃんでーす!」
顔の横にピースを寄せて少女は朗らかに笑った。
「ろ、ロボ……さん?」突然のテンションの上がりように戸惑いながらも反復する。今までの関心のなさが嘘のようだ。どうすればいいか分からなくて苦笑いを浮かべているとハタと思考が止まった。
そうだ、そう言えばここはコンカフェだった。
今いる場所を改めて理解する。えっ、ちょっと待って。
聞き間違えでなければロボさんはここのキャストだと言った。
つまりこの歌舞伎町で、他のキャバ嬢やホストと同じく、人を客として扱っている。
人を食べるものが、人を接待している。
改めて考えるとなんだかマヌケな図だ。
お天道様が見ている道を歩けないような輩を相手にする方が百倍マシではないだろうか。いやマァここにいる自分が一番マヌケなのだけれども。
「君の名前は?」
少女、もといロボさんがきゃっきゃっと笑った。
機嫌が良くなったんだな。まだ出会って数時間も経っていないけれども、彼女は凄く分かりやすいと思う。そうして名前を聞かれた事実に内心少しだけ驚いた。
食用の豚を育てる小学生の話が昔あったような。道徳の授業のテレビか何かで見た覚えがある。「バイバイ、ピーちゃん」と言って出荷される豚の姿を、彼らはどうやって見送ったっけ。
ハッとして口を開く。
「私の名前は」と言いかけて、凄まじい音と揺れが遮った。
飛び上がり身体を縮める。
音を立てて外れた扉が、勢いを殺さないまま棚にぶつかった。ロボさんが絹のような悲鳴をあげる。その姿を思わず二度見してしまった。衝撃に耐えられなかった棚は、綺麗に陳列していた酒瓶を次々と振り落としていく。
まるでドミノ倒しのようだった。
カラフルな瓶の欠片が液体と共に床に飛び散って、塵が勢いよく舞い上がり、アルコールの匂いが店内を塗り替えていく。止めようがないそれを黙って見る他なかった。鳥を絞め殺したような声が聞こえて見上げると、ロボさんはまさに絶望と言った顔をしていた。
そうこうしているうちに、段々と床に落ちていくものが減っていく。
ガラスの靴を模したボトルが音を立てて崩れたあと、場は急速に静まり返った。おまけと言わんばかりに天井からパラパラと埃が落ちてくる。ただただ惨状としか言えない現場が完成したのだった。
くしゅん、とくしゃみをひとつ。
本当に隕石らしいものが飛んできた、と心の片隅で口が裂けても言えないことを思った。はっくしょい、はっくしょい。ロボさんも埃に弱いのか見た目以上に豪快なくしゃみをしている。
そうして煙たい中で二人で鼻を鳴らしていると、カツンとハイヒールの音が聞こえてきた。
「ちょっと、私が先に目をつけていたんだけれども?」
自分でもロボさんでもない第三者の声だった。
聞き覚えのある声に振り返る。扉を破壊しながら現れたのは、見たことがあるシルエットだった。
「あっ」口がぽっかり開く。
面接のことをすっかり忘れてた。いや、面接どころじゃなかったのだけれども。
リンダちゃんだった。
黒いワンピースを昨日と同じく優雅に着こなしながら、入口に悠然と立っている。「あら、お食事中だったかしら?」と骨だけが残された皿を覗き込みながら微笑んだ。透き通るような金髪が彼女に合わせてユラリと揺れた。
ロボさんは何か言いたそうにリンダちゃんを睨んだ。
くしゃみはまだ止まりそうにない。風通しが良くなった入り口を見る。死んだようにやる気をなくしていた身体が目覚めるようだった。肩の痛みなんて気にしていられない、扉が壊れた理由やリンダちゃんがここにいる理由は分からない。けれどもこれはチャンスだ。
そういえばここに来る前にお店に電話をかけた。
「面接に遅れたから何かあったと思ったの」と平時より高い声で言うリンダちゃんを想像した。助かったのかもしれない、そう考えて脚に力を入れようする。が、ふとそこで踏みとどまった。
ちょっと待って、リンダちゃん、さっきなんて言ってた。先ほどの言葉を頭の中で繰り返す。
私が先に目をつけていた?
「扉!! なに壊してるの!! アルファになんて言うのさ!!」
ロボさんがくしゃみの地獄から抜け出せたようだった。
壊れた棚を指差しながら、怒鳴り声を上げる。耳としっぽの毛がタワシのように逆立っていた。
「あら、別にいいでしょ、それくらい。あなたたちなら上手くやれるわ」
「もー、君って昔からそういう強引なところあるよねぇ!」
「ごめんなさい。獲物に逃げられちゃ困るのよ」
リンダちゃんの謝罪は、誰が見ても分かるくらい上部だけだった。
血や酒で汚れたヒールの裏をグリグリと壁に擦り付けている。それを見て熱を持ち始めていた身体が急速に冷めていくのが分かった。
リンダちゃんは悲鳴一つあげなかった。
自分に対して何か言葉をかける様子もない。そして何より、ロボさんとはまるで元から知り合いのように見えた。すぐ近くにあるはずの入口が、彼女を挟んだだけでものすごく遠くに感じた。
「それでぇ、結局何の用事?」
ロボさんが吐き捨てるように言った。
いつの間に取り出しのか、箒でガラスの破片を集め始めている。随分と小さな箒だ。こんなにも荒れた店内をあの箒だけで掃除するのか。
掃除をする後ろ姿を見て、リンダちゃんはくすくすと笑った。昨日よりも静かな笑い方だ。
「それ返してくださらない? 私もこんな犬くさいところさっさと出て行きたいの」
「あ?」
それ、という言葉とともにリンダちゃんが自分を指差した。
自然と目が見開かれる。ロボさんが気怠げに振り向いた。面接の件ではないことは当たり前に理解していた。
「あ、これ君のだったんだぁ。若い女が好きだもんねぇ」
「最近の流行りは黒髪なんだっけ?」と言ってロボさんがベッと舌を出した。
揶揄うような仕草をされても、リンダちゃんが笑みを崩すことはなかった。
「ええ好きよ、この人間を見てよ。とっても美味しそう。ぜったい処女」
「うぇ、ヘンタイっぽいよ」
「ふふふ、今日は機嫌が良いから許してあげる。だってこんなご馳走様久々だもの。一目見た時から私が食べるって決めてたわ」
リンダちゃんがまるで今日の献立が決まったように喋っている。
忘れかけていた汗がじわりと背中に滲み始めた。
「昨日からどうやって食べようかって、それしか考えられなかった」
「へー」
「でもねぇ決まらないの。やっぱり丸呑みかしら、うふふ」
二人の視界に自分は入ってすらいない。
勝手に話を進める二人を見ていると自分がどんどん小さな存在に思えてきた。
魚や肉と同じような存在。
更に言えば海を泳いでいたり、山を好きに走ったりなんていう自由はない。捕まえられて、殺されて、パックに包まれ、スーパーに並んでいて、さぁあとは食べるだけ。
自分に権利なんてものはない。まさに死んだような目をしながら誰のところに行くのかな、なんて考える以外に何もない。その事実に背筋がスッと冷たくなった。
「あ、の」
ぽつりと呟く。
蚊の鳴くような声であったがリンダちゃんは気がついてくれた。「あら放置してごめんなさいね。でも殺される前で良かった。ほら、急いで私の家に帰りましょ」と言って、わざわざしゃがみ込んでまで目線を合わせてくれる。黄緑色ががった瞳は変わらない。今更ながら瞳孔が楕円なことに気がついた。
黒いレースに包まれた小さな手が差し出される。
この手を取ったとしても自分の未来は大差ないだろう。
「私に、何か用事、ですか」
なんて白々しい。
本当は気がついているくせに。
目の前の手を取らないで尋ねた。
視線はすぐに逸らしてしまったけれども。目をずっと合わせるほどの心の強さは持ち合わせていないので。
リンダちゃんは自分の質問に目を瞬かせた。
ふふっと可愛らしく笑ったその吐息が顔にかかったように感じる。
「今日の夕食はあなたっていう話」
まるで幼い子どもにでも教えるような言い方だった。
ゆったりとしていて柔らかい。
「もう気がついているくせに、悪い子ね」なんて微笑まれても。
気がつきたくなかったんですよ、こっちは。
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