いつもは夜明けとともに目を覚ます凛香だが、寝る直前に衝撃的な出来事を体験したせいか、寝坊をしてしまったようである。そんな彼女が目を覚ました理由は、尊によってたたき起こされたからだった。
しかも、凛香を軽く蹴るという暴力的な起こし方をした少年は、少しも悪びれることなく、たまには叩き起こすというのも悪くないなと嘯くのである。
「とっとと準備しろ。運動の時間だ」
先日とおなじ言葉で凛香をせかす。
「は、はやいな柊。待ってくれ、いま準備する」
二人は昨日とおなじように走りだした。
とくになにも話すことなくランニングを続けていたが、人気のない裏路地で、凛香に不意打ちの攻撃を仕掛けながら、不意に尊が口を開く。
「今日の予定だが、午前九時から白虎地区に行くぞ」
「なに……?」
しかし、凛香は攻撃を裁くので精いっぱいである。
「白虎地区へ行くと言ったんだ。貴様、この俺に二度もおなじことを言わせるな」
「……っ! いったい、なにをしに行くというんだ!? それに、学園はどうする!?」
「貴様皆勤賞でも狙っているのか? なら心配するな。公欠扱いだからな」
「私はそういうことを言っているんじゃ……病院になんの用だっ?」
「あのフロイト博士に話を聞きに行くそうだ」
「ふろ……内海先生か……っ? 学園長たちは、やはり、先生を疑っておられるのか?」
「言ったはずだ。現在、やつは最も分かりやすい容疑者だ。貴様の件だけでなく、今回のことに関してもな」
「今回のこと……?」
凛香が眉をひそめる。その瞬間、彼女は地面に組み伏せられた。
午前九時過ぎ。尊たちは白虎地区を訪れた。
ここ白虎地区は、地区長が女ということもあってか、女性の社会進出が進んでいる地区でもあるらしい。〝就職に関するサポート〟、あるいは、〝母子家庭に対する福利厚生〟、または、〝共働きの家庭への子育て支援〟、などと言った内容の看板が掲げられ、それは地区を挙げて支援されているものらしい。それもあってか、住民の比率は男よりは女の数が多いようだった。
〝女性優遇〟というのが、白虎地区の特色であるらしい。
鹿谷精神病院もまた、そのことを頭に入れてみてみると、病院で働いているものはそのほとんどが女である。男もいなくはないが、その数は決して多くない。
先日とおなじように、尊たちは応接間にて内海楓と東郷紫の両名と対峙していた。
「いったい、なんだというのだ、このような時間から。前回も言ったが、彼女は多忙だ」
「それは悪かったな。だが安心しろ。まえにも言ったが、そうやって貴様が絡んでこなければ、すぐに終わる」
いつもと変わらぬ態度の尊に、気を張り詰めるのは朱莉と凛香である。なにせ、今日は瀬戸も律子もいないのだ。万が一のときは、自分たちが尊の暴走を止めなければならない。
「内容は、おおよそ瀬戸さんから聞いています。未明に見つかった遺体が、私の患者であるそうですね」
内海が言った。
事件発覚は零時過ぎだったにもかかわらず、瀬戸は監察医を叩き起こして遺体の検視をさせたらしい。歯の治療痕から身元を割り出し、彼の自宅へ行った結果、現在、彼は内海の患者として鹿谷精神病院に通院しているようだった。
彼の名前は笹原浩平。年齢三八歳、独身で一人暮らし。特質すべき点はないように思われたが、一つだけ瀬戸の目に留まったものがあった。
「笹原の職業は私立探偵だった」
尊が目を細めて言った。
「つまり、ここへ通院していたのも、貴様を調べるためであった可能性がある。それで一つ訊きたいのは、やつはどんな様子だったかだ。やつはここで、どんな話をしていた?」
内海は考えごとをするようにすこしうつむいた。話すかどうか、考えているようである。
「繰り返しになるが」
尊がうんざりした口調で言った。
「笹原はもう死んでいる。殺人事件の捜査に関して、死者の守秘義務を貫き通す必要もないだろう。ここで使っていた名前も、どうせ偽名だろう? お互いに面倒なことはさっさと終わらせるにかぎる。分かったらとっとと答えろ」
「殺人……」
内海が口の中でつぶやくように言った。
「殺人なのね?」
「ああ。夜中に叩き起こされた監察医が、腹いせにデタラメを言っていなければな」
監察医の所見によると、笹原の死因は窒息死だった。
絞殺である。
首に抵抗した際にできる〝吉川線〟がくっきりとついており、目には鬱血もあった。したがって他殺であるというのが監察医の見解である。
内海はちいさくうなづき、
「彼は、ここでは〝田代学〟と名乗っていたわ。三か月前から、ここに来てた。受診理由は職場の人間関係によるストレス。そのせいで、職場へ行くたび、あるいは行こうとするたびに頭痛や眩暈といった症状が起こる。そう言っていたの」
「それで?」
「精神安定剤を処方して、様子を見ることにしたわ。それと、一人で抱えこまないで、できるだけ多くの人に話をしたほうがいいとも」
「なるほど。模範的だな」
尊が肩をすくめて言った。
「人間が抱える問題は、大抵は人間関係上のものよ。だから、それは人間が持つ力によって解決できるはずなの。その人自身の人間性、肩書き、資金……そういうものでね。もちろん、あなたもそうよ」
「おい、フロイト博士。俺をアドラー心理学にかけるのは止めろ」
この物言いに、目を細めたのは内海ではなく東郷だった。
「それが私の仕事だもの」
「その仕事で、だれかに恨まれていることはないか? だれか一人くらいいるだろう」
こういうセリフを尊が言うのは、なんとも強烈な皮肉だなと思ったが、それを口に出す者はいなかった。
「いいえ、いないわ」
「フン、では質問を変えよう。だれかにつけられているとか、監視されていると感じたことは?」
「それもないわ」
尊はまた鼻を鳴らした。
「なるほど。連中がよほど有能か、貴様が鈍感かのどちらかだな」
「待って。〝連中〟? どういうこと? 田代……いえ、笹原さん以外にも、私を探偵してた人がいるの?」
「こいつが持ってきた切断死体にことは覚えているな?」
尊が凛香にむかって顎を振る。凛香はすこし身を縮めた。
「ええ。まさか……」
「勘がいいじゃないか。そのとおり。そいつもまた、〝私立探偵〟だった。貴様の患者の佐藤は、本名水田恵一。知りたければ、年齢、経歴、趣味、家族構成も教えてやってもいいぞ」
「いえ結構」
内海はにべもなく断った。彼女は困惑したように目を伏せて目頭を押さえている。
「どういうこと? 私の患者が二人とも探偵で、偽名を使ってまで私を調べていたってこと……?」
「なぜ探偵は内海を調べていたんだ? 依頼主は?」
ここで、初めて東郷がわずかだが身を乗りだしてきた。その質問に、尊は胸を張って答える。
「知らん」
東郷はほんの一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに深いうなり声を上げると責めるように尊を見た。
「なにも分かっていないのか?」
「残念ながらな」
尊は口角を上げ、それほど残念でもなさそうに言った。
「連中の自宅にあった顧客リストや書類を改めたが、それらしいものは見つからなかった。つまり、何者かが持ち去ったということだ」
「だれが持ち去った?」
「知るか」
尊が面倒くさそうに手を振って答えたので、東郷の眉間のしわはいよいよ深くなる。
「でも、内海先生の患者さん二人が殺されたって、偶然……なのかな?」
場の空気を察した朱莉が割りこむように言った。
「うん……そこに、なにか隠された意味があるのかもしれないな」
朱莉の意図を察した凛香が続く。
「なにかとはなんだ? まったく、無責任なことを言わないでもらいたいね」
相変わらず、尊は二人の苦労をいとも簡単に崩してくる。
「では、君の意見を聞かせてくれ」
東郷の挑戦的な視線を受け、尊はフンと鼻を鳴らした。
「それは今度改めて話してやるとしよう。今日は貴様らに話を聞きに来たんでね」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべると、
「一応訊いておこうか。昨日の午後十時から零時までの間、どこでなにをしていた?」
「君は……」
尊は口を挟んだ東郷を睨め伏せるように視線を動かし、
「地区長殿、黙っていてもらおうか。話がすすまん」
「自宅にいたわ。証明できる人はいない。その時間はもう、ベッドで休んでいたころね」
「なるほどね」
いったいなにが面白いというのか、尊の顔からはにやにや笑いが消えていない。
そのときだった。扉がノックされたかと思うと、一人の男が顔を覗かせた。
「お話し中すみません。先生、そろそろ……」
「ええ。分かったわ。ごめんなさい、もう行かなくちゃ」
「見た流れだな」
尊は肩をすくめて、言って構わないと軽く手を振った。
「じゃあ、また。訊きたいことがあったらどうぞ。なんとか時間を取るから」
「それはありがたいね」
尊の皮肉には取り合わず、内海は凛香に向き直る。
「凛香さん、この後時間はある? 空いてるなら、天音さんに会ってあげてね」
「は、はい。そうします」
内海は尊たちにもう一度あいさつし、東郷に頭を下げたあと、応接間を出て行った。
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