――その部屋には窓がなかった。
薄暗い部屋の中、まるで蜃気楼のようにぼんやりと十三人の人間の姿が浮かんで見える。
「さて、呼び出された理由は分かっているかね。瀬戸征十郎警保局長?」
最初に降ってきたのは皮肉っぽい男の声だった。
「我々が聞きたいのは釈明ではない。下手な言い訳は、余計に人間性を落とすことになるぞ」
表むきは殊勝な態度を装っておいて、薄暗いのをいいことに、瀬戸はわずかに唇をゆがめる。それに気づいた者もいたが、当の声の主は気づいてはいないようであった。
「鬼柳律子の件、ですね?」
瀬戸は何事もないように口を開く。外見は五十年配といったところか。長い髪を後ろになでつけ、ブランド物のスーツを着崩し、無精ひげまで生やしているにもかかわらず、不思議とだらしないという印象はない長身の男。
「先日の顛末については、文書にまとめてご報告した通りです。付け加えることは一つもありません」
「その事件だが、多くの犠牲者が出たようだ。それが君たち中央省の内輪もめが原因とは、ずいぶんお粗末じゃないか。やはり、二 つの省庁を取りまとめるのは、君でも荷が重いかね?」
「とんでもない。おかげさまで刺激的な毎日を送っていますよ。それに、三雲さんとは和解できましてね。お互い、過去のことは水に流してやっていこうということになりました」
「しかし、不祥事があったことは事実だろう? それも、『安全地帯』の治安を司る中央省内部でだ。『元老院』としては、言及しないわけにはいかんのだ」
現在、日本国はとある事情から、大きく分けて『危険区域』と『安全地帯』の二つの地区に分かれている。『元老院』とは、四人の有権者と九人の勅任議員で構成される『安全地帯』の最高司法機関だ。
先日発生した『安全地帯』を騒がせた事件。それは瀬戸が勤める中央省での確執によって発生したものであるが、彼はその釈明のために、ここに呼ばれたのではない。
その話が掘り返されているのは、なんのことはない。瀬戸への嫌がらせだった。瀬戸は十五年前、中央省が設置されるさい、その立役者となった人物である。関係各所への根回しをはじめ、大きな声では言えないことも当然している。そんな人物が嫌われているのはむしろ当然のことと言える。
しかし、当事者である瀬戸は顔色一つ変えることはない。どころか、この状況を楽しんでいるようにすら思える。それによって自らの立場を悪くしていることは、当然彼は理解している。
「その点もご心配なく。もう彼らには、そんな力はない」
飄々としているが、瀬戸の言葉には有無を言わせぬ強さがある。瀬戸をイジメていた『元老院』の一人も、一瞬言葉に詰まる。それを見逃さず、瀬戸は言葉を紡ぐ。
「それに、どんなことが起きようと、『安全地帯』が崩壊することはないと、私は信じております。なにせ、あなたがた『元老院』がいらっしゃるのですから」
笑顔を見せながら語る瀬戸。能面のような顔で瀬戸を見下し、さらに食い下がろうとした『元老院』であるが、別の『元老院』が声を立てて笑い出したことで、機先を制された形となった。
その場の全員の視線が、その『元老院』へと注がれる。視線をうけるも、堂々たる態度で発言する。
「瀬戸さん。あなたは相変わらずですねぇ。見ていて飽きないから、癖になりそうだ」
さきほどの『元老院』よりもずいぶん若い男の声。
しかし、その声色には確固たる意志が宿っており、決して軽くはないものだ。
「朝桐さん。もういいでしょう。我々は瀬戸さんを責めるために呼んだんじゃない。そろそろ本題に入りましょう。あなただって、忙しい身でしょ?」
朝桐と呼ばれた『元老院』は、一瞬ねめつけるような視線をやるも、結局、イスの背もたれに体重を預けて腕を組んだ。
「分かってもらえてなによりです」
ニコリと微笑み、その場の全員に聞こえるよう、よく通る声で続ける。
「瀬戸さん。あなたさっき、こうおっしゃいましたね。『元老院』がいる限り、『安全地帯』が崩壊することはないと」
「ええ」
「あなたを呼んだ理由はそれですよ」
「……どういうことでしょうか?」
重い空気が立ちこめた。
『元老院』は短く、しかしはっきりと、その理由を口にした。
その日、柊尊が目を覚ましたのは、なにか嫌な予感がしたからだった。
低血圧である彼は、朝が弱い。たいてい、しつこく起こされてようやく目を覚ますのだが、その日は自然に、自分一人で起きることができた。いつもように、自分の体をむしばむウイルスの進行を止める注射を打ち、尊はリビングへとむかう。
そこで、ありえない光景を目にした。
いるはずのない、女がいたのだ。
「あら、おはよう。いま起こしに行こうと思ってたのよ?」
「……貴様、なぜここにいる?」
「つれないのね。いままでだって、こうして面倒見てあげてたじゃない」
たしかに、尊はいままでこの女の世話になってきた。
だが、ありえないのだ。この女は、鬼柳律子は、先日起こった事件の実行犯としてとらえられ、投獄されたはずだ。
「取引したのよ」
と彼女は切れ長の瞳を細めて言った。
「局長がね、私に言ったのよ。“今回の件に関わった防衛省幹部の名前をすべて告発すれば、条件付きで保釈する”ってね」
「条件付きの保釈だと?」
尊は学園長の顔を思い浮かべると、わざと律子に聞こえるよう舌打ちをした。先日起こった事件は、この『安全地帯』を揺るがすほど巨大なものだった。鬼柳律子は、その中心にいた人物でもある。
まして、この女は尊の一番大切なものを傷つけた張本人だ。それを保釈するとは……。
「そういうことだから、これからもあんたの面倒を見てあげるわ。よろしくね」
からかうように言う律子。尊は反射的に動いていた。目のまえにカフェオレが置かれた瞬間、それを律子の顔面にぶちまけたのだ。
「ふざけるな。貴様、俺たちにしたことを忘れたとは言わせんぞ」
尊の殺気をはらんだ声を聴いても、律子は顔色一つ変えない。口の周りをペロリと舐め、薄く笑う。
「あら、もったいない」
おどけた態度に尊の眉が顰められる。その様子を面白そうに見ると、軽く手をあげて言う。
「そう怒らないでちょうだい。私はもう無害よ。あなたたちに危害は加えない。約束するわ」
「信じろというのか?」
「したくてもできないのよ。ほら、これが見えるでしょ?」
そう言って、自身の首に巻き付いた黒いチョーカーを軽くたたく。
「これ、発信機と小型爆弾が内蔵されているんですって。つまり、すこしでも妙なことをしたら、ドカン!」
と、律子はこぶしを開いて爆発させるジェスチャーをし、
「ってわけ。お分かりいただけたかしら?」
「フン、くだらんこけおどしだな。そんなもの、気休め程度にしかならん」
吐き捨てるかのように言うと、背もたれに体重を預けて足を組む。
「条件付きの保釈と言ったな。それは防衛省の幹部どもを売ることだけなのか?」
「もちろん、他にもあるわよ。できる女って大変よね」
「フン、この間の貴様の醜態を録画しておくんだった」
と尊は汚いものでも吐き出すかのように言う。
「口数が減らないわね。本当にかわいくないやつ」
そう言いつつ、律子はテーブルの上に朝食を並べていく。今日はベーコンエッグとトースト、そしてサラダだった。
「さ、食べましょうか。これからまた、長い付き合いが始まるわ。仲良くしましょ」
律子の言葉を無視し、話しかけるなとでも言いたげにテレビをつける。
いつも見ているニュース番組だが、今日はすこし毛色が違っていた。
曰く、“『安全地帯』建立十五周年記念式典”。
十五年前のウイルス蔓延によって造られた『安全地帯』。それが今日まで機能しているのは、『君主』と呼ばれているものの存在あってのことだ。
決して公の場に姿を現すことはないが、『安全地帯』における政治を一手に担っているとされている。
『君主』は『安全地帯』の中央に建てられた宮殿に住んでいる、らしい。
その『君主』の代理として、酒匂というらしい宮殿の広報室長が会見を開いていた。
曰く、
『今回の式典は、われわれとしてもとても重要なものと認識しております。
いまのような特殊な状況のなか、われわれがこうして生活できているのは『騎士団』の活動が大きく関係していることは間違いありません。しかし、その『騎士団』が活動できているのも、すべて『君主』の政治手腕あってのこと! 日ごろご苦労されておられる『君主』への感謝の意を伝えるという意味においても、参加の許されていない一般の方々にとっても、とても重要な式典であると、われわれは信じております。
だからこそ、今回の式典には、『君主』ご自身も出席するつもりでおられるのです。
そもそも今回の式典は――』
と、そこで尊はテレビを切ってしまった。
「あ、ちょっと、切るなら一言かけてちょうだい」
律子は抗議するも、
「ここは俺の部屋だぞ。文句があるならでていけ」
と言うだけだ。
テレビでも見て気を紛らわせようと思ったが、やっていたのはつまらん見世物。
あんなくだらないものを見続ける趣味はない。だいたい、式典を強調しておいて、一般人は参加不可とは……。
“記念式典”と言えば聞こえはいいが、要するに金集めが目的のくだらんパーティーだろう。
いぜん聞いたことがある。有権者は、金集めのパーティーをよくやると。“なになに先生を励ます会”だとか、“なになに先生を応援する会”といった、白々しい看板を掲げて、金のかからない料理と酒で客人をもてなし、くだらない話で客人を楽しませるといった、絵にかいたような茶番だという。
もっとも、参加する側も見返りを期待して参加しているのだから自業自得ともあざけるように言っていた。
この式典も、そういった類のものなのだろう。
あの男は、これに参加するのだろうか。
いや、そのまえに話さなければならないことがある。そのうえで、あざ笑ってやるとしよう。
鬼柳律子に“取引”を持ちかけたことで、四方から反発が出ることは、最初から分かっていたことだ。したがって、学園長室の扉を乱暴に蹴り開けるという非常識な来訪者が現れても、瀬戸が驚くことはなかった。
もっとも、彼の秘書である丹生静香はダイナミックな入室をしてきた来訪者に驚き、入れていた紅茶を落としてしまう。それに合わせて、彼女のダイナミックな胸も大きく揺れた。
「よう、おまえが自分から来るなんて珍しいな。ていうか、ノックぐらいしろよ。びっくりするだろ」
「フン、驚いているようには見えんがな」
白けた視線をむけると、足早に入室し、丹生を無視して瀬戸の胸ぐらをつかんで無理やりチェアから立たせる。
「あ、あの……」
あたふたとする丹生のことなど目に入っていない様子で、尊は低い声で言う。
「理由は分かっているな? 貴様、いったいなんのつもりだ」
「ああ。来ると思ってたぜ。まあ、座れよ」
いつもとおなじ軽い調子で瀬戸は言う。
いまだ状況が呑みこめていない丹生を退室させ、いわゆる司法取引ってやつさ、と瀬戸は言った。
「日本にそんなものはない」
「そいつは建前。実際には結構行われてることさ。捜査協力による減刑。当然のことだろ?」
「テロリストに対して減刑など聞いたことがない。そんなことだから、貴様は嫌われるんだ」
尊にしては、ずいぶん直球の皮肉だ。そのことからも彼のいら立ちが見て取れる。
「だからやるんだよ。この国は問題が起きなきゃ問題にしねぇからな。そのためにいろんなことで後手に回ってる。前例ができれば、いろいろと動きやすくなるのさ」
瀬戸は足を組み替え、
「今回鬼柳ちゃんに提示したのは、ウイルス研究と孤児院に関わっていた防衛省幹部全員の名前。そして、警察側のために働いてもらうってことだ」
指を立てながら説明し、ニヤリと笑って見せる。分かるだろ? とでも言いたげに。
尊は軽蔑したように鼻を鳴らし、
「逆スパイか」
「そういうことだ」
「その程度のことは、防衛省側も当然予想しているだろう。あまり意味のある事とは思えんな」
「それでいいんだよ。どっちが主導権を握っているのか、それを分かりやすく知らしめるための措置だからな。ま、一種の嫌がらせだ」
「貴様が嫌われる理由がよく分かったよ。美人は重刑になりにくいとはよく言ったものだ。所詮、貴様も人の子か」
ふたたび皮肉っぽく吐き捨てた。
じつのところ、いやな予感はしていたのだ。律子は先日の事件の実行犯であり、尊の告発によって逮捕された。それはたしかだ。
だが、ニュースでは、別の団員が犯人として報道されていたのだ。
あのとき、律子との対決の際、彼女が尊の目のまえで殺した小隊所属の団員……彼が一連のテロの実行犯として、中央省は公式に発表した。
彼は元々『危険区域』の人間で、試験に合格して『騎士団』に入団。家族はすでに死亡している、いわゆる天涯孤独の身の上だ。
スケープゴートとしては、これ以上ない適任者だろう。
事件に関与した適当な防衛省幹部を首謀者とし、団員を実行犯とする。まったくもって、いかにもと言ったところか。だれの書いた筋書かなど考えるまでもない。
尊は口の中で忌々しげに舌を鳴らす。
「貴様の言い分はわかった。俺が貴重な時間をかけて選別し、寝る間を惜しんで教育した部下を殺されたことは、とりあえず目を瞑ってやる。では、”一被害者”として言わせてもらうぞ。あの女は邪魔だ。いますぐ俺のまえからどかせ」
「無茶言うなよ。もう取引は成立したんだ。いまさら俺一人の勝手はできない」
「あの女を唯に会わせたくない。それに……」
「それに?」
「俺自身も不愉快だ」
あまりにも単純明快な答えに、瀬戸は思わず噴き出した。
「なにがおかしい」
不機嫌そうに言うと、テーブルの上に足を乗っける。
「ああ、いや、悪い。なんでもない。……なるほどね。不愉快か」
瀬戸は無精ひげの生えた顎をなでながら、
「尊。もう一度言うぜ。おまえのその頼みを聞き入れることはできない」
いつもの飄々とした調子ではない。至極真面目な顔で瀬戸は言った。
「丹生はどうする? 退院したばかりのはずだが、会わせるつもりか?」
丹生は以前、『フレイアX』に襲われ、そのときのトラウマを、心理カウンセリングの資格を持つ律子が治療していた。それを利用し、律子は丹生を“自分を犯人”と思うよう心理的に誘導し、罠にはめようとしたのだ。
それによって丹生は精神病院に入院し、昨日、自宅療養で退院したばかりだった。
「たしかに、丹生ちゃんには悪いことをした」
瀬戸はソファーに体重を預け、
「だがな、ここに残ってるのは丹生ちゃんの意志だ」
「なに?」
「“たしかに、自分は利用されたのかもしれないが、先輩のおかげで自分の過去と向き合えたのも事実。だから、このままここにいさせてくれ”。そう言ってたよ」
見た目によらず強いだろ、と瀬戸は言う。
「フン、丹生が納得しようが、俺は納得せんぞ」
尊の対応は変わらない。ふんぞり返り、強い拒絶でかえす。
「分かってるよ。だがな、ただでうけ入れろ、なんて言わないぜ」
「持って回った言いかたはせずに本題を話せ。貴様の悪い癖だ」
舌打ち交じりに貧乏ゆすりを始める。相変わらず、この少年には遠慮と言うものが一切ない。
「じつは――」
と、瀬戸が核心に迫ったときだった。その声にかぶせるように、荘厳な鐘の音が聞こえる。HR開始の予鈴だった。
「どうやら、時間切れみたいだな」
じつに残念そうに瀬戸は言う。
「フン、白々しい。どうせ、この場では言う気がなかったのだろう?」
「さて、どうだかな。ただ、ひとつ言っとくぜ。俺の言葉を聞けば、おまえはきっと納得してくれるはずだ。ま、あとで教えてやるから、楽しみに待ってろ」
そう言うと、片目をつむってみせるのだった。
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