女神大戦

‐The Splendid Venus‐
灰原康弘
灰原康弘

第三章 華京院凛香という少女⑬

公開日時: 2021年2月27日(土) 22:06
文字数:5,358

 尊たち三人が唯の病室についたとき、八時を三十分も回ったところだった。本当はもうすこしはやく到着できていたのだが、今日くらいよせばいいのに、尊が唯へのお土産を購入していたからだ(当然のように、朱莉と凛香は荷物持ちとして使われた)。

 唯はいつかのように、白く大きなベッドの上で、オルゴールの音に耳を傾けていた。


「兄さん」

 来客に気づいたらしい唯がゆっくりと顔を上げる。兄の姿(正確には、上半身は紙袋で隠れている)を認めると、彼女はふわりとほほ笑んだ。

「唯」

 兄も、妹にのみ見せる笑顔をもって答える。

「遅くなってごめんよ。変わりはないかい?」

「はい、おかげさまで。わたしは大丈夫です」

「ならよかったよ」

「兄さん、この間はごめんなさい。せっかく来ていただいたのに、わたしったら眠ってしまったようで……」

「いいんだよ唯。気に病むことはない」


 いつものことながら、この少年の妹に対する態度は、信じられないほどにやわらかなものだ。こんな殊勝な言葉を唯以外にかけようものなら、今日が地球最後の日なのではと疑ってしまうだろう。

 朱莉はもはやため息も出ないが、凛香はあきれたように息を吐いていた。

「こんばんは唯ちゃん」

「朱莉さん。来てくださったんですね」

 唯がにこりと笑う。最近、唯はこうして自然な笑みを浮かべてくれるようになった。以前より仲良くなれたのだなと思うとうれしい。

 と、そこで唯は凛香にも気づいたらしい。


「お久しぶりです。凛香さん、でしたよね?」

「ああ。久しぶりだな唯くん。覚えていてくれたんだな」

「もちろんです」

 唯はまたふわりとほほ笑む。彼女のこうした笑顔には、心に巣くう影……不安などの感情を晴らしてくれるかのような、不思議な力があった。


「でも、なんだか不思議な感じですね。ここでお会いするなんて思いませんでした」

「ごめんよ唯。ついてくるなと言ったんだけどね。金魚のフンみたいにくっついてきたんだ」

 そんなことを言われても、凛香の保釈条件から考えても、尊が凛香から目を離すわけにはいかないのだ。尊が唯の病室へ行くというのであれば、凛香には同行する以外の選択肢はあり得なかった。

「兄さん。クラスメイトの方にそんなことを言ってはいけませんよ」

 唯がやさしくたしなめるも、尊はにこりと笑みをかえしただけだ。この微妙にやり取りが成立していないちぐはぐな感じ……なんだかデジャヴだ、と朱莉は思った。


「いいんだ唯くん。私は気にしていない」

 もう慣れてきたからな、とはさすがに言わない。しかし、唯は長年の経験から、凛香の声色の奥底に隠された、微妙な色を読みとったのかもしれない。申し訳なさそうに眉根をよせた。

「俺は気にしているがな」

 尊は皮肉っぽい口調で言った。

「貴様が意味なく俺に絡んでくるせいで、気がめいって仕方がない」

 そんな様子を見せたことなど一度もないが、尊は厭味ったらしく肩を回したりして疲れたアピールをしている。


「あ、あれはおまえが!」

「俺がなんだ? 言ってみろ」

 尊が買ってきた本を本棚に収納しながら訊いた。

「われわれや『騎士団』の方々を侮辱したんじゃないか!」

「高級官僚のお嬢様はご存じないようだから教えてやる。あれは利権にまみれた単なる官僚組織だ。そんな高尚なものではない」

「そういうところが侮辱してるというんだ!」

 すると尊はうるさそうに手を振って、

「おい、ここをどこだと思っている? 静かにするか死ぬか選べ」

 究極の二択を提示してきた。言いかえそうと口を開きかける凛香だが、病室で静かにしろという意見は最もだ。病院で死ぬとか言うのはどうかと思うが、結局、納得いかない顔ながらも引き下がった。


「朱莉さん、お二人の間になにがあったのでしょう?」

「うーん。その場にいなかったから、詳しくは知らないんだけど……」

 朱莉が律子から聞いた事情を説明すると、唯はちいさくうなづいた。

「兄さん、あまり律子さんを困らせたらだめですよ」

「唯、それは律子が勝手に困っているだけだよ」

 尊はわけのわからないことを言ってにこりと笑った。凛香が絶句した様子で尊を見る。


「本気で言っているのか……?」

 その言葉は、思わず出てしまったもののようだった。

「当然だ」

 なぜか胸を張って答えている。彼は買ってきたプレゼントを、すべて片し終えたところであった。

「すみません兄さん。いつもありがとうございます」

「いいんだよ唯。そんなことは気にしなくていいんだ」

「なんというか、おまえはいつでもおまえだな……」

 そう言って、凛香はため息とともに、疲れたようにかぶりを振った。一周回って感心しているようでもある。


「凛香さん。どうかされましたか?」

「え、なにがだ……?」

 唯の予想外の言葉に、凛香は目を丸くした。

「いえ……まえにお会いした時と、様子が違って見えたもので……」

 言われて、凛香はすこし驚いた。たしかに自分が置かれている状況は特殊なものだが、それは公になっていないために、表情に出ないよう、終始気をつけていたつもりだったからだ。

 あるいは、律子の言うとおり、気をつければつけるほど、表に出てしまう、ということなのだろうか。


 凛香はふっと笑い、

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけだ」

「そうですか」

 唯はそれ以上追求せず、また微笑んだ。

「唯」

 とそのとき、二人の会話を断ち切るように言葉を発した者がいた。もちろん尊である。


「なにか果物でも食べるかい? 切ってこよう」

「いえ。大丈夫です」

 唯は申し訳なさそうに眉をハの字に寄せた。

「ごめんなさい。さっきご飯を食べたばかりなもので」

「そうか……」

 今度は尊が眉をハの字にした。

 唯はちょっと困ったように笑うと、

「じゃあ、ちょっとだけいただきます」

「そうかい?」

 と尊の顔が露骨に晴れる。


「じゃあ切ってくるよ」

「あ、手伝うよ」

 といってついていこうとする朱莉を、

「必要ない。ついてくるな」

 ぴしゃりと制してさっさと台所にむかって行った。

「すみません、朱莉さん」

「いいよ、べつに。もう慣れちゃった」

 兄の非礼を詫びる唯に、朱莉はさきほど凛香がためらった言葉をあっさり言った。


「なんだ、二人はずいぶん仲がいいんだな」

「最近よくお話をするもので」

「ね」

 と二人は顔を見合わせてちょっと笑った。

「話を?」

 眉をひそめた凛香だったが、彼女はすぐにいまの朱莉の状況を思い出した。


「そうか美神、君は入院していたんだったな」

 つい先日まで入院し、学園へも病院から通っていた朱莉だったが、術後の経過も良好ということで、〝検査退院〟という形で、一時的に退院となったのである。

「それでよく話してたんだ。ご飯も一緒に食べたりしたんだよ。お昼だけだけどね」

 夜は尊がいつ来るか分からないから警戒しているということだろうか。


「唯に負担をかけていないだろうな?」

 三人の会話にチャチャを入れたのは、その尊だった。

「大丈夫ですよ。朱莉さんとのお話は、とても楽しいんです」

 妹にそう言われては、兄としてはやはり黙るしかないようだ。

「むしろ、頻繁に来ていただいて申し訳ないと思っているくらいで……」

「そんなこと、気にしないでいいのに。私だって楽しいって思ってるよ」


「それでこの間も来ていたのか」

 尊が舌打ち交じりに言った。

「この間?」

「俺が雑事に呼び出されていくのが遅くなったときだ」

 言われて、朱莉は「尊が用事で来れないから、もしよければ話し相手になってくれないか」と唯から連絡を受けたときを思い出す。


「ああ、うん。来たよ」

「マグカップが出しっぱなしになっていたぞ。まったく、人にはあれこれ言っておいて、ガサツな女だ」

「え?」

 尊の皮肉に、朱莉は目を丸くした。

「あれ、おかしいな。きちんと片づけたはずなんだけど……」

「なに?」

「おまえの記憶違いじゃないのか? 美神が自分の使ったものを片付けないというのは考えづらいからな」

 凛香の意見を、尊は傲岸に鼻で笑い飛ばす。


「俺の記憶違いというほうが、よほどあり得ん」

 だが、言われてみれば朱莉はきちんと片づけそうなものである。だが、あのときたしかにマグカップは二つ置いてあった。加えて、カップはまだ暖かく、ついさっきまで来訪者がいたことを示していた。

「貴様が使ったマグカップだが、どんなものか覚えているか?」

「えっと……」

 朱莉は顎に指をあて、

「たしか、動物の絵が描いてあるやつだよ。ちょっとファンシーな」


 尊の記憶では、二つのマグカップのうち、一つはいつも唯が使っているもの。そしてもう一つは、白い無地のカップだった。

 つまり、あのカップを使ったのは、朱莉ではないということか?

 だとするなら、いったいだれだ? だれがここに来た?


 眉をひそめる兄の耳に、妹の言葉が静かに届く。

「そういえば、一つ気になることがあるんです」

 唯は尊を見てこう続けた。

「あの日、朱莉さんがお帰りになるまえくらいから、記憶があいまいで……朱莉さんがいつお帰りになったかとか、カップを洗ったかとか、そういうことも覚えていないんです……」




 尊たちが部屋に戻ったとき、日付はもう変わろうとしていた。

 唯の言葉を聞いた尊が、病院側に検査するよう言ったからである。診察、血液検査や血圧検査、CTスキャンによる脳波測定など、様々な検査を終え、ようやく帰り着いたところであった。


「唯ちゃん、なにもなくてよかったね」

 尊を慰めるように言う朱莉だが、その声色には安堵の色もあった。

 しかし、尊は考えごとでもしているのか、答えようとしない。というより、朱莉の言葉自体に気づいていないかのようだった。さきほどから、ずっとこの調子である。

「柊、先生が問題はないとおっしゃったのだ。だから信じよう」

「フン、貴様が言うと説得力があるな」

 ここで尊が皮肉を言った。考えがひと段落ついたのか、いつもとおなじ傲岸不遜な雰囲気が戻っている。


「尊くん、どうかしたの? なんか様子が変だよ」

 本当はいつも変なのだが、いまの〝変〟というのは、いつもの変とは違う。いったいどうしたというのだろう。

「なんでもない。俺はもう休む。あとは貴様らで好きにやるがいい」

 そう言ったかと思うと、何も聞いていないかのように、そのまま部屋に引っこんでしまった。


 実際、尊は考えごとをしていたため、二人の話などろくに聞いていなかった。

 無論、その内容は唯についてだ。

 唯は言った。朱莉が訪ねてきたとき、帰るすこしまえくらいからの記憶がないと。

 朱莉は言った。自分はたしかにマグカップを片付けたと。そして、朱莉が使ったというマグカップは、尊が見たものとは違うものだった。


 つまり、朱莉が帰ったあと、何者かが唯を訪ねともにお茶を飲み、その何者かが、唯の記憶をいじった、という推測が成り立つ。

 凛香の一件以来、こと〝暗示〟に関する接触が多かったために、こんな考えに行きついているのか?

 唯の検査中、尊は恵梨を呼びつけ、指定した日時の防犯カメラの映像を確認するように言った。その結果、映像には、現在産休で休んでいるはずの看護師の勤務姿が写っていたというのだ。つまり、当日のカメラ映像がすり替えられている。鹿谷精神病院の時とおなじように。したがって、カメラ映像から来訪者を割り出すことは期待できない。

だが、来訪者はたしかにいた。しかも、これ見よがしに証拠を残している。まるで、見つけてみろとでもいうかのように……。

 いったい、何者だというんだ?



「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ‼」



 そのとき、尊の思考を断ち切るように、甲高い悲鳴が聞こえてきた。

 なんだ?

 声から、凛香であることは分かる。だが、あの少女がこんな悲鳴を上げるところなど、いままで見たことがない。

ただごとではない。

 尊は悲鳴の聞こえた方向――浴室へと一直線にむかう。脱衣所の扉を開けると、勢いそのままに浴室の扉も開け放つ。


 一見したところ、凛香に異常は見られない。決して身長は高くないが、その背筋はピンと伸び、見る者に凛とした印象を与えている。健康的に引き締まった体は日ごろの努力によるものと分かり、それが流麗な脚線美を描いてもいた。いつもは束ねている髪を下ろしているため、いつもと違った、年相応の少女の顔を覗かせている。


「うるさいぞ。近所迷惑だろうが。で、何事だ?」

 低い声で尋ねると、凛香が驚いた顔で振りかえる。

「な、な、な……」

 一瞬のあと、凛香は口をパクパクと動かし、必死になにかを訴えようとしていた。

「なに当りまえのように入っているんだおまえはっ!?」

「華京院さん、どうし……」

 とそこで、悲鳴を聞いたらしい朱莉が駆けつけてきた。

「た、尊くん!? なんで、まさか……」

 凛香の悲鳴が尊起因と勘繰ったのか、朱莉はひきつった顔になる。それを尊は一瞥とともに舌打ちをした。


「何度も言わせるな。ここは俺の部屋だぞ。いやなら即刻出て行け」

 尊は脱衣所からタオルを凛香に投げてよこすと、そのまま肩をつかんで浴室から追いだした。バランスを崩し、転びそうになった凛香を、朱莉が危ういところで抱き留める。

「ちょ、ちょっと尊くん」


 文句を言おうとした朱莉の口が止まった。

 彼女の目が、信じがたいものを捉えたからだ。

 そして直感した。

 凛香は、これを見て悲鳴を上げたのだと。

 朱莉の視線のさき、シャワーから出ている液体は、お湯などではなかった。



 真っ赤な、液体だったのだ。

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